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人は役に立つために生きているのではない

メンタリストDaiGoの発言が問題になっている。彼の発言ははおぞましいものだった。そして自分も頭を抱える。彼の発言には私自身について、そして現代の状況についても深く問いかけられる。

「相模原障害者施設殺傷事件」があった時、私は(もしかしたら多くの人が)植松聖という”異常者”が起こした”異常な事件”として片付けてしまったのではないだろうか。”普通”に生きている私には関係ない事件として多くの人が忘れてしまったのではないか。

でも、植松聖の論理「役に立たない障害者はいなくていい」という思想を多くの人に影響を与え、時代の寵児としてもてはやされる有名人が持っている。しかもそれを多くの人向けの動画で吹聴している。(また一定数の人がそれに大っぴらに賛同してしまっている。)ものすごく危ない。

DaiGo氏の発言は許されるものではなく、彼に対しては怒らなければならない。自分の行為のどこに問題があったのか、どこが間違っていたかきちんと明らかにして謝るべきだと考える。

しかし、DaiGoに怒るだけで済まないことがあるように思う。私達が当たり前に思っている「役に立つ人になりたい」「役に立つ人間は価値がある」という考えを問い直し、批判的に考えていかなければいけないのではないだろうか。本当にそれでよかったのか真剣に考えないといけない。この事に直面するのはとても辛いし、しんどいし、嫌なことだ。しかし、悲しい事に私の中にもやっぱり植松聖と地続きのものがある。「私たちは、状況によってどんなこともしてしまう恐ろしい存在だ」などという自己反省では間に合わない。

私たちの中にある、「役に立ちたい」「役に立てる人間になりたい」その素朴な思いの中に、差別につながる問題性が既に含まれているのではないだろうか。

人は役に立つために生きているのではない。何者かになったり、何かを成し遂げるために生まれてきたのでもない。

その事をまずはっきりさせなければならない。

しかし、それに反するような素朴な思想を私たちの多くはすでに内面化してしまっているのではないだろうか。

これは、社会構造や教育にも問題があると思う。それだけではなく、私たちの思想状況の影響も大きいと思う。そこに関しては、ちゃんと命の大切さを思想としてつむぎ(あるいは現代に対応する言葉として掘り返し)、十分に発信してこなかった宗教者、宗教に関わる者にも大きな責任があると思う。

いかなる命も差別してはならない、殺してはならない。どんな命も、役立つために生きているのではない。今回の事件を通してもう一度誠実に命について考えて行かないといけない。

ちょうど今日(2021年8月13日)、NHK総合で 「終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』」が放送されていた。


戦時中に、九州大学の医学部で起きた「九大生体解剖事件」(アメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。1945年に起きた)を題材にしたドラマだった。

このドラマの色々なシーンを見て、DaiGoの発言を思い出さされた。特に軍人が解剖によって「お国の役に立つ成果をあげなければならないのだ」と教授達に命令するシーンがあった。「役に立つ人間」「人は役に立つために生きる」という思想は、つまり「お国のために役に立つ」に直結するのだと思う。役に立つとはその時の”お国”に役立つかどうかということだろう。

そのことに暗澹たる気持ちになる。しかし、私は何度も根本的に考えずに来たのではないか?一体いつ真剣に命について考えたのか?罪について考えたのか?

(終)




〔追記〕

DaiGoの発言もひどすぎるけど、それに続くホリエモンの発言もひどすぎる。「誰かをつるし上げたいだけ」って…。
命を軽視するような発言を影響力のある人がしているからみんな怒っている。DaiGoの発言によって実際に生きるのが辛くなってしまう人がいる。差別思想を持ってしまう人がいる。今起きている個々の発言をつるし上げているのではなく、権力者や影響力が大きい人が立場の弱い人の命を軽視する動きに、それを許してはいけないって、みんな怒っているのではないのか?力のある人の差別発言を許していくことがこれまで大きな悲劇になる事を私たちは前の大戦をはじめ、歴史においてさんざん見てきたのではないのか?

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