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日記2021年8月11日~飲み会で何を話すか~

昨日気になったツイートを見た

袴田渥美さんという方のツイート。90年代を酷い時代だったという人がいるが、今あの頃よりも本当に秀でているものがあるのか?という問いかけ。Youtuberとソシャゲの時代のどこがいいんだという言葉。

何か心に残った。たしかに、ある面では現代の方が下品な表現とかは無くなったかもしれない。でもある面で現在の方が90年代よりもよっぽど下品なんだと感じる。

Youtubeの広告とか、刺激的な見出しで煽る新聞の広告とか。

ありとあらゆるものが商品とか、情報商材化してしまっているように思う。全てが軽くなっている。僕が感じているのは、仏教も情報の一つ、商品の一つでしかないと見られるようになってきているという感覚。本当に自分の人生の根本問題として仏教を語る人が居なくなっている。(そして私のような仏教に関る人が、その流れを加速させていまっている。)宗教的なこと、精神的な問題は商品化したりしてはいけないし、マネタライズに乗せてはいけないのだと思う。ここをどう説明したらいいのか分からないのだけれど、仏教をマネタライズに乗せたら「何かが決定的に」失われる感じがしている。

仏教とSNSってすごく相反するもののように思う。それこそ「曠劫よりこのかた」(想像することもできない遥かな昔から)という言葉がお経にもあるように圧倒的なスケールの時間で人間や命を見ていくのが仏教。仏教のことを語ろう、学ぼうと思ったら、やっぱりどこかでじっくりと腰を据えて向き合わなければならない。長い時間をかけ、時が熟して教えが伝わるということがある。それこそ、人間の時間を一回出るような覚悟がいるように思う。

しかし、Twitterなどでは、一瞬で情報が流れていく。そこには時が来るまで待つという感覚が無い。どんなものも流れる情報化されていってしまう。そこ(Twitterとか)に仏教をのせること自体に「なんか違うなぁ~」という感じがある。

「現代の方が浅い」という感覚で言えば、お坊さん同士と話しをしていても、昔は例えば飲み会の席とかで多くの人がずっと信心の話、信仰の話をしていた。若い頃はそれが「あつくらしいなぁ」と思うこともあったけれど、この人たち本当に仏教を大事にしているんだな、命懸けで聞いているんだなと感じた。ところが、最近はお坊さんの飲み会でも信心とか信仰の話がされることが減っているように思う。熱く語り合ったりしない。するのは世間の話ばかりなのだ。(自分自身も…)お坊さん同士の中でも、仏教が「情報の一つ」になってしまっているのだ。以前は、仏教の話はもっと「生きることそのもの」だった。

僕が、良かれと思っていてやっていた「仏教を漫画にする」ということも、この辺に何か根本的な問題があると思う。仏教を「情報」とか「情報商材」にしてしまっているんだと思う。「一瞬で消費される情報の一つ」として提示してしまっている感じがするのだ。そうするとそこで何かが失われていく。(※1)


(終)


〔註〕

(※1)

これも大雑把な事で申し訳ないのだが、Youtubeのサムネイルの下品な感じがすごく嫌だなぁと思っているのだけれど、仏教を漫画にすることは、そういう下品さと相通じるものがある。

多分、全然やるべき方向が違うのだろう。お坊さんの多くは、仏教を広めるために、SNSを活用したりして仏教に興味のない人に受け入れられやすいように、分かりやすいようにしてしまう。しかし、それが全く見当はずれなんだと思う。むしろそういう行為が教えを浅く、軽いものに改変してしまっているのだと思う。「そっちじゃない!」っていうことばかり頑張ってしまっている感じというか。本当は、お坊さん自体が自分の中で教えを追及していく方向、とにかく自分自身が修行して信仰を深めていく以外にないのではないか。

何でもやってみることが大事なので、色々トライすることは大事だと思う。そしてYoutubeでの法話を私も良く見るので、全てが悪いわけではない。むしろ大事で、そういう活動をされている方を尊敬する。しかし、その一方で何か気をつけなければならないことがあるのではないか、分かりやすくるすることがまったく思いもよらぬ形で教えを傷つけることがあるのではないかと気になっていて、その事を言いたかった。

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