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向き合うということ

SNS見るのをやめようと思っているのだけれど、たまに金言に出会い、教えられることがある。それでやめられずにいる。
先日も、哲学者の千葉雅也さんが、「動画を流し観している人は、動画を本当に観たくて観ているのではない、本当に大切なことに向き合わないために動画を浴びている。」(もうそのツイートは見つからなくて、正確ではない)というようなことを言われていて、本当にハッとした。

自分のことを言われているように思ったからだ。僕たちは、本当に自分が大切にしたいこと、本当の自分の欲望に向き合わないために、雑な情報を浴び続けるということがあるのではないだろうか。
作家の渋沢怜さんが、「雑な情報を流し見し、時間を潰すことをするのは軽度の自傷行為なのではないか」という意味のことを以前書かれていて、それもなるほどと思ったが、この千葉さんの言葉とどこかで繋がると感じる。

私は、自分が本当に向き合うべきこと、向き合いたいことと向き合わないようにしている。自分の欲望が分からなくなっている。ここで言う欲望というのは本能のことを言っているのではない。自分が大切にすべきこと、本当に命を懸けてやりたかったこと、生まれた意味の探求とでもいうのか、自分の命の深みに触れるような行為だと思う。生きる使命の自覚と言ってもいいかもしれない。そういうことが大事だと思いながら、何とかそこから逃げようとしている、向き合わないようにしている。
以前、延塚知道先生がある法話で「本当に大切なものが分からないと、無限に物を集めることになる。本当に無限なるものに触れないと、私たちは無限に物を集め続けるのではないか?」とおっしゃっていた。そのこととも通じるのである。
自分も本当は自分のやりたい事、やるべきことを分かっているのではないか?
それは既に触れてきたものと、もう一度深く出会い直していくことではないか?自分の場合はやはり仏教を自分の上で生きてみることだ。教えを自分の人生を通して生き、考え直すことだろう。それをせずに人生を終えることが非常に虚しいと思う。しかし、あえてそこから逃げている。そうではなくて、どうでもいい動画を垂れ流し、流し見することで本当の欲望と向き合わないようにしている。人間に生まれたきた意味や、自分の本当の欲望を見つめることから逃げている。もう多くの物が必要なのではないのだ。少ない物、自分がこれまで出会ってきたいくつかの大切なものをもう一度読み直す、出会い直すことが大事なのだ。そこに時間をかけるべきなのだ。なのにそれをしない。向き合わない。

なぜそうなっているのか?その一つには、社会の構造とか、今まで自分が育ってきた社会環境もやっぱり無視できないし、当然そこから影響を受けている。
端的に僕らの社会は、一つの大切なことに向き合わせないような仕組みになっていると思う。いかに、早く忘れさせるか、多くの情報に触れさせ、物を買うように仕向けるかという社会になっている。

昨日、毎日新聞の記事で読んだのだが、大阪にある過去の虐殺や差別の歴史の資料を集めた施設「リバティおおさか」が取り壊され、市民たちが望んでいた移転も土地が見つからず断念されたという記事が載っていた。

このリバティ大阪の取り壊しを進めたのが維新の会だ。記事によれば、「同館は大阪府、大阪市、部落解放同盟府連などの出資で1985年に開館した。部落差別をはじめ、在日コリアンやアイヌ民族、沖縄問題、ハンセン病など幅広いテーマに関する資料を収集・展示してきた。大阪府知事や大阪市長を務めた橋下徹氏らが展示内容や運営に異議を唱え、府・市が13年に補助金を全廃。15年には同館が建つ市有地の明け渡しを求める裁判を市から起こされ」とある。酷い話である。こんなにひどい話はない。
過去の悲しい歴史、向き合わなければいけない悲しみに向き合わないように仕向けられ、そしてそういう人たちの声が通ってしまう世の中を私たちは生きている。
昨日、岡野八代先生の論文「ケアと正義 あるいは〈法と女性〉を語る居心地の悪さについて」(岩波『世界』4月号)を読んでいたら次のような文章があった。

歴史を振り返ることは過去に囚われることではない。法の下の平等は、過去の不正や暴力を帳消しにしないという約束でもあるはずだ。かねてより平等を享受していた者たちは、過去の暴力行使やそれを傍観していた事実を忘れさりたいかもしれない。しかしその暴力や抑圧が社会に与えた影響、そしてなにより、被害を受けた者の傷は簡単に消えない。フェミニストたちがリベラルな主張のなかでも、特に個人主義を批判するのは、社会に蓄積されパターン化した差別行為や、文化的・歴史的な傷を負った人びとの社会的位置づけを軽視し、あたかもみなを同等の契約者であるかのように扱うからだ。〈さあ、今から平等な社会を一緒に展望しましょう〉という掛け声は、かつて加害者の立場にあった者たちには耳あたりがよい反面、残存する困難を自ら取り除く力がないように見える人びとを自己責任の名の下に批難する社会を形成しかねない。

岡野八代「ケアと正義 あるいは〈法と女性〉を語る居心地の悪さについて」(岩波『世界』4月号)pp.142-143

「歴史を振り返るということは過去に囚われることではない。法の下の平等は、過去の不正や暴力を帳消しにしないという約束でもあるはずだ。」という岡野先生の言葉が胸に響く、過去に全くその存在を省みられず、踏みにじられた者の存在。その存在を忘れない事で今なんとか向き合おうとすることそのものが、過去の人を尊重しようし、またそれは私たち自身を尊重する事にもつながるのではないか?過去に顧みられなかった悲しみの歴史を残し向き合おうとする営みそのものが人間の尊厳を失わない一点である。そういう向き合いをしないように仕向けているのが「維新の会」や今の政権与党である。しかし、その影響は確実に私たち自身の内面にも侵食してきている。こうした問題に表立って声を上げることをしないということ自体が、すでに「維新」的なあり方の片棒を担いでしまっていることになるのではないだろうか。
だとしたら、私たちは、極力相手と向き合わない事すらも愛情や社会のあるべき姿と勘違いしてしまいかねない。
恐らく非常に長い時間をかけて私はいかに問題に向き合わないか、相手と向き合わないかという姿勢を習得してきた。だからそもそも、人ときちんと正対し向き合うということが分からなくなっている。できれば向き合いたくないし、下手をすれば向き合わない事でしか相手と付き合う術を知らないのではないか?じゃれ合いや依存は知っていても、”自立したまま”相手や相手の歴史を尊重するということは本当に知らないし、やってこなかったのではないか?
その態度は自分自身にも向かうであろう。私は自分の本当の深い声など聴いてこなかったのではないか?いや聴けなくなっている。聴かないようにしている。その代わりに外から流れる大量の雑音を聞いている。あえて聞きに行っている。その雑音の中で何者とも向き合わない方が余程楽だからだ。そうした生き方がデフォルトになってしまっていることに何か深い問題がある。

(終)



参考文献






(※追記)おそらく、本当に必要もないものをネットサーフィンしながら沢山買ってしまうということも、ある種の自傷行為に近いものを含んでいるのではないか。時間やお金を無駄に消費することによって正気を保っているという所があるように思う。しかし、そのようにして時間を空費することは私の本当の歓びにはつながらないであろう。

「快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。」

シモーヌ・ヴェイユ(『ヴェイユの言葉』、みすず書房34頁)


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