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本多弘之氏『浄土 その解体と再構築』抜き書きメモ①

本多弘之先生の『浄土 その解体と再構築』を読んでいるのだけれど、すごく良い本だと感じる。

自分がなぜ、浄土真宗を聞こうと思ったのか、聴聞を始めた最初の頃の気持ちを思い出させてくれる。覚えておきたいこともあり、かなり長いが抜き書きを置いておきたい。

罪業性、人間の罪ということで言えば、善導大師が言うように、「曠劫已来の流転」の罪がある。流転ということは、流され流され生きてきたという事です。流されたのだから罪ではない、というのが普通の見方なのでしょうけれども、仏教から見れば、主体性を失って流され、状況のままに流されてきたことが、流転の罪業である。この流転の罪業の自覚とはどういうことなのか。(p.158)

主体性を失って流されてきたことが罪だという。しかもその罪から逃れられる人はいない。しかし、これを聞くと、流されてきたことが罪とまで言う浄土真宗はあまりに悲観的だと感じる。続けて本多氏はこう言う。

以前アメリカに行ったとき、アメリカ人の二世たちから質問を受けました。「浄土真宗は、自分の親たちが信じた宗教だから嫌とは言わないけれど、なぜ人間に罪とか悪とか、暗い話ばかりするのだ。前向きに善人になって、人助けをして生きていくいくほうが余程いいのではないか」と。これは、アメリカ人だけではない。おそらく、現代日本もマスコミを中心として、同じような発想だろうと思います。それはつまり、近代文明の発想だと思うのです。明るくなっていけばいいではないか。どんどん明るくなっていくのが人間ではないかと。こういう発想が、実は、近代の罪業性というものをどこかで隠すことになっているのではないか。

近代文明の発想は、明るくなっていけばいいという発想なのだが、実はその発想は闇を覆い隠しているだけで、闇はそのままあるという事を本多氏は指摘しているように思う。隠された闇の方が私は、より暗いように思う。ニコニコした闇だ。

比喩的に言えば、アスファルトで地面を隠して、下の土が人を汚さないようにして、その上を歩いていればよいではないか、ということと同じで、何か大きな虚偽があるのではないか。近代は、明るく明るくという方向ばかりに行っていて、どうも死という、人間は死ぬのだということを隠してきた。本当は有限ないのちは死んでいく。罪業のいのちを生きて死んでいくという厳しい人生である。厳しいけれど、この人生が一回限りの有限ないのちが、どういう意味で「尊い」と言い得るのか、と聞き直さなければならないのに、そのまま、もう明るくなればいいのだと言う。これは虚偽でしかない。そういう虚偽のままのほうがよいではないかというのが、近代文明の発想だと思うのです。本当は、そこに罪業性がある。罪業性をやめるわけにはいかないわけです。大切なことは、そこに何か、「そうなのだろうか」という問題にそろそろ気づかなければならないのではないかと思うのです。(p.159)

罪業性を我々は捨てることはできない、しかしそれでいいのだろうかと本多氏は投げかける。命が尊いと言えるのはどうしてか?と問い直さなければならないと本多氏はいう。たしかに、原子力発電を放置していたり、また、原子力発電所事故の汚染水を海に垂れ流すようなことを平気でしている中で、どうして我々は「いのちが尊い」などと平気で言えるのか。命を傷つけることの上に成り立つ便利さを我々は生きている。

この近代化の方向というものは、私は止められるとは思いません。ちょうど石炭や石油や原子力の利用を止めることができないように、地球が汚れても、人類の未来が危険であっても、止めることはできないでしょう。しかし、止めることができないけれども、決して「いい」とは言えない。悪いと知りながら、われわれの罪業性を止められない。それならば逆に自覚しないほうがいい、というような見方でも行けないのではないかと思います。やはり、たとえ止められなくても、そこで立ち止まって、「罪業性の存在」であるということを自覚する。そこに、はじめて浄土真宗に触れる機縁があるのではないか。好ましくて理想的で、きれいで美しくてという、そういう人間好みの方向とはおよそ逆に、人間は罪が深く、汚く、有限であり悲しいけれども、そういう事実をしっかりと見据えて、「にもかかわらず」という翻りが、浄土真宗の宗教的自覚であると思うのです。短絡的にこのままでいいのだという方向を、いったんどこかで堰き止める。そういうところに、この近代文明にとって、浄土真宗という教えが大変聞きがたい理由がある。「難中之難無過難(難の中の難、これに過ぎたるはなし)」などと言われて、そもそも人間にとって、聞きがたいのが浄土真宗の本願の教えである。それに加えて、この近代化の状況のなかでは、浄土真宗の教えに大変出会いにくい。

本当に現代を言い当てている言葉である。私たちは現代の闇が深い事を分かっている。しかし、それを止められないともどこかで思っている。だったら、もうあえて暗い現実、闇を見るよりも、ポジティブに明るみだけを見て生きていこうとなってしまう。しかし、そういうあり方には本当に満足することは出来ないということもまたどこかで分かっているのではないだろうか。本多氏はやはり「にもかかわらず」このままでいいという想いを堰き止めなければ教えは聞けないという。

私自身、はじめのうちは、こんな嫌な教えをどうして人間が聞くのだろうと思いました。なぜ、そんな教えを真剣に説こうとするのだろうかと。魅力を一面で感じながら、長い間どうしてもそういう想いから抜けられなかった。つまり、人間は嘘でも楽しい方がいいわけです。本当でも、つらいのは嫌なのです。。だから、真実に出遇いたくない。なぜ、親鸞は「顕真実」というようなことを言うのか。たとえ、嫌でもつらくとも、人間は死なざるを得ないのだ。たとえ、どれだけ嫌でも、人間は罪のいのちを生きている。認めないからと言っても罪でなくなることはない。罪のいのちを生きている。けれども、それでも尊いものがある。そこに宗教的自覚の意味がある。ところが、なかなかそこまではいけない。それが、浄土真宗という宗教の難しい所だとつくづく思うのです。

本多氏は、人間は罪深い。しかし同時にその罪のいのちが尊いのだという。これはただの開き直りではないだろう。しかし、よく分からない…。

安田理深先生は、よく「流行るものは、まず嘘だと思えばいい、浄土真宗というものは流行らないものなんだ」ということをおっしゃいましたね。その当時は、何のことかよくわからなかった。つまり、人間にとってきれいなもの、好きなもの、いいものは流行る。けれども、人間にとって嫌なもの、汚いもの、不純なもの、そういうものをそのまま自分だと認めて生きるという、こんなつらいことはない。けれども、事実は汚く、不純なものではないか。事実はそうだ、ということに気づいたら、普通は、絶望するか、自殺するか、誤魔化すか、そういう道しかない。けれども、そうではない。それを引き受けて、本当に立ち上がる道がある、というのが浄土真宗である。困難だけれども、浄土真宗が本当に人間を救うということは、どれだけ辛くとも事実を本当に知ることだ。人間は誤魔化されている。虚偽を生かされている。自分で、虚偽を生きていることを自覚することすらできない。特に、この近代というのは、近代教育、近代文明のもとに、だんだん明るくなれるのだ、だんだん豊かになれるのだ、だんだん人間は幸せになれるのだという虚像のもとに走ってきた。(p.161)

ここが非常に突き刺さる。安田理深先生は「流行るものは、まず嘘だと思えばいい、浄土真宗というものは流行らないものなんだ」と言ったという。

これは私の先生も良く言っていた。「流行るものは怪しいんです」

浄土真宗なんて流行るわけないんだ。なぜなら、自分の明るみを見せるんではなく、自分の暗さを見せられるのだから…。そんな教えが本来はやるわけない。仏教を聞いて「良い教えですね~」なんていうのはまず怪しいのだ。

本多氏は、自分で虚偽を自覚するなんてできないという。しかし、その虚偽を見せてくれるのが阿弥陀如来の働きなのだと押さえているのだと思う。教えを通さずに虚偽を見ることなどできないし、教えを通さずに自分の暗い部分を見れば、絶望し、卑下するしかないのだろう。

しかし、教えを通すところに、本当に自己の暗みと真正面に向き合いながらその暗みを見つめて現実に立ち上がることが起こるとここで本多氏は言っているように思う。ではどうした道理でそのように現実を引き受けて立ち上がることが人間にできるのか。そのことを問として続きを読んでいきたい。

(終)

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