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いのちについて考えさせられる新聞記事

新聞記事に、非常に考えさせられるものがあったのでメモしておきたい。

ケージの中にぎゅうぎゅうに詰め込まれていました――。 関東地方にある国内最大級の養鶏場で働いていた女性は、卵を生産するために飼育されている鶏たちの「過酷な現実」をそう語り始めました。ほとんど身動きが取れないケージのなかで傷つき、ボロボロになりながら、それでも人間のために卵を産み続ける、鶏たち。 アニマルウェルフェア(動物福祉)への配慮は世界的な潮流になっています。でも日本の畜産は、その流れから大きく取り残されています。畜産動物のなかで最も飼育数の多い採卵鶏の現状を取材し、日本にもアニマルウェルフェア畜産が浸透する兆しはあるのかどうかを探りました。
 栗畑や農家が点在するなかに、白い巨大な建物がいくつも見えてきた。周囲を土手や雑木に囲まれた敷地内には、三角屋根の体育館のような建物が整然と並んでいる。関東地方に本社を置く鶏卵大手の傘下で、国内最大級の養鶏場の鶏舎群だ。 窓のないウィンドレス鶏舎だからだろうか、換気にともなう音がひときわ大きく聞こえる。風向きによっては時折、鶏の糞(ふん)と思われる臭いがただよう。鶏舎は全部で12棟あり、計約120万羽の飼育能力を備える。出荷される卵は1日100万個近くにのぼるとされ、東日本各地の卵の需要を支えている。
 いま西日本の別の養鶏場に勤める女性(49)は2020年、ここで働いていた。「鶏たちは、ケージの中にぎゅうぎゅうに詰め込まれていました」。当時をそう振り返る。
 飼育に使われているのはバタリーケージと呼ばれる、全面が金網でできた設備だ。幾重にも積み重ねられ、鶏舎内にずらりと並ぶ。女性によればケージ一つの大きさは幅約60センチ、奥行き約40センチだった。そこに9~10羽の鶏が入れられていたという。1羽あたりのスペースは300平方センチメートルに満たない。B5判サイズの用紙よりもずっと狭い。 1人で管理するのは約10万羽。「朝の仕事は、鶏舎内を回ってケージから死体を取り出す作業から始まります」。運動量を減らして闘争を防いだり、エサ代を節約したりするため、鶏舎内は薄暗く保たれている。懐中電灯を手に、羽毛やホコリが漂うなかを巡回した。多い日には40~50羽の死体が見つかったと話す。 そういう鶏たちは別のケージに移動させた。特に治療を施すわけではない。多くはそのまま死ぬ。だが、1ケージあたりの収容数が比較的少ないことでストレスがやわらいだのか、なかには元気を取り戻す鶏もいた。回復すれば、一般のケージに戻される。業界団体である公益社団法人「畜産技術協会」は、「スペースが過密な場合は、鶏にとってストレスとなり、羽つつきの発生や死亡率の増加」を招くとしており、1羽あたりの飼育面積については「死亡率を調べた海外の知見等からは、430~555平方センチメートルとすることが推奨される」などとする指針(第5版)を出している。
 「強制換羽(かんう)」と呼ばれる低栄養の飼料を与えることによる産卵休止期を挟んで約2年。詰め込み飼育で産卵を続けると「鶏たちはボロボロになります」と女性は話す。「鶏舎に来た当初はふわふわの羽毛に覆われていたのが、2年が経つ頃には羽がすり切れたようになり、ところどころ地肌が透けて見えるようになる」 本来の寿命より短い生涯で500個ほどの卵を産み終えれば、「廃鶏(はいけい)」となり、加工食品やペットフードの原料になる。 養鶏場の親会社である鶏卵大手に取材を申し込んだが「お受けできない」(法務ユニット)との返答だったため、女性が証言する飼育実態が事実かどうかの確認も含めて11項目の質問状を送った。しかし「経営陣に諮りましたが、本件取材はお断りする」(同)との回答だった。 女性は言う。「私が見てきた鶏たちは、1羽1羽が懸命に生きていた。私たちが安価に入手し、日々食べている卵の背景には、こうした過酷な現実があることを多くの人に知ってほしい」。畜産技術協会の14年度の調べでは、採卵養鶏業者の91・5%(棟ベース)がバタリーケージによる飼育を行っている。 1960年代に欧州で、まず畜産動物について提唱されるようになったアニマルウェルフェア(動物福祉)という考え方。特に畜産動物の福祉を向上させようというその潮流は近年、世界的に大きなうねりとなっている。 EUでは、12年にバタリーケージの使用が禁止された。米国でも、ケージ飼育される鶏の割合が16年に90%だったのが、現在は65%まで減少。今後5年間で、さらに30%程度まで減るという予測が出ている。 日本は流れに取り残されつつあるが、アニマルウェルフェアに配慮した畜産の兆しも、一部では見えはじめている。畜産動物のなかで最も飼育数が多い採卵鶏を巡る現状を取材し、日本の畜産の現在地を探った。5回にわたり紹介する。(太田匡彦)

『朝日新聞』「身近な卵の「裏」で 朝の仕事は死体取り出し、ボロボロになる鶏たち」2023年11月13日配信記事より抜粋

一匹の鶏に与えられたスペースはわずかB5用紙1枚程度であり、ぎちぎちのケージの中でその中で一生を終える。人間が卵を食べる為だけに生み出され、一生を終えていく。職員一人が管理する鶏の数が10万羽ということにも何だか恐ろしいものを感じる。もう、一匹一匹を見るということがとうてい出来ない数字である…。
こうした鳥の命をどう考えたらいいのだろうか。われわれの社会は命をこのように扱う社会である。こういう中でどのように、自他の命を尊重するということが成り立つのか。人間の救済が成り立つのかと考えざるを得ない。こういう命の問題が課題にならない信心とは一体何かと思う。こうした問題も、信心の課題にしていかなければならない。とは言え、私も結局のところ毎日のように安価な卵を食べているし、特に鶏の環境を改善しようという運動もしていない。しかし、それでいいのだろうか。自分がそれで納得できるのだろうか。

また、最近同じように命に考えさせられる記事が毎日新聞にあった。

「子犬に障害…ペット店「治療費は×、交換はOK」 納得できぬ飼い主」という題の記事であった。ペットは、売買においては物として扱われる。いのちではなく物として扱われるのだ。そのため、万が一成長過程で最初にはわからない障害などがあった場合、返品は出来ないが、交換はできるというのだ。冷たい制度だが、そういうことが実際であり、その中で飼い主の中には、購入してからしばらくしてから、子犬の障害が見つかったり、顕在化したりして、何とかしてほしいと願う人がいるそうだ。しかし、交換はできるが、持っている病気の手術費用や、治療代金は出せない。なぜなら、今飼っているペットを交換した方がずっと安つくからである。しかし、飼い主としては愛情が移ったペットを交換など当然できるはずもなく、しかたなく、何百万と言う治療費を払うことになるという記事だった。しかし恐ろしいのは、「交換」という制度があるということだ。記事の中にも書かれているが、障害が見つかり、交換されたペットのその後のことを想像すると、胸が痛い。私たちはいのちをどのようなものとして見ているのだろうか。繰り返しになるが、このように命を扱う世界において人間の救済とはなにか?それはやはり商売取引のようになってしまわないか。胸底にピューピューと隙間風が吹き込むような救済であろう。だとしたら、人間がうまいこと救われる道などないということが、自己の罪を知らされるという形の救済が唯一あり得ることではないのか?

(終)











































こういう生き方していても、亡くなったら極楽へ行けるから安心と言うのは確かに教義としてはそうなのだが、何かそこをすべてと考えることは違うのではないか。そのような救済は非常に安易である。


本当に私が求めていることは、存在の罪深さや悲しみちゃんと向き合うということだろう。如来の光の中でそれが可能になるのだと思う。如来の救済と言ってもそれは、私がうまいこと救われることではないのであろう。自己の地獄を見せてもらうという形ではないだろうか。
罪を帳消しにして、うまいこと救済されるなんてありえないと思う。地獄を引き受けていくこと、引き受けて行けるものになること、そこに深い願いがあるように思う。
親鸞はどういっているのか、学んでいきたい。

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