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「易しく・分かりやすく」に問題性は無いか

最近自分には、哲学者の千葉雅也さんの言葉が響く。千葉さんは、倫理的なことがらの世俗化を警戒しているように思う。

千葉さんは、「倫理的なうったえかけ」と「消費を促す広告」が同じものに成り、どちらも注目を集めるとしている。千葉氏は「それで良いのだろうか?」と投げかける。そこでは大事な物が骨抜きになっていくと指摘されている。

自分もこの辺のことを問題意識として最近持っている。良かれと思って、仏教を易しく、分かりやすく「漫画にして」説こうと思っていた。しかし、それは世俗を越えようとする教えである仏教(世俗や日常生活がどうでも良いということではない。世俗に居ながら世俗を越えるような視点を持つ教えだということだと考える)を世俗に媚びるような形で喧伝しているようにしかならないのではないか。

資本主義の論理に載って仏教の教えを分かりやすく説こうとすると、そこで間違いなく何かが骨抜きにされていく。具体的に言うと、仏教が「情報の一つ」になってしまうということだ。仏教を世俗を渡っていくための道具、成功哲学や道徳の一つ、としてしまう。世間の通りをよくするための道具・言論に貶めてしまうのではないかという危険性である。

それこそ、仏教の教えによれば、他者に己が「どう見られるか」などという事はどうでもよいはずだ。

唯一、「自我を越える」「傷つけあい・争い合うあり方から出る」ということが目的のはずだ。人からどう見られるかという価値観である「いいねの数」なんてどうでもいいというか、一番遠いものであるはずだ。しかし、仏教を分かりやすく説こうという所には何か「いいねの数を気にする」ことと同根のものがある。僧侶がそういうことをすれば、宗教者として「一気にダメになっていく」予感がある。

やはり、全然違う方向で突き詰めていかないとお話にならないのではないか。SNSなどとは全く違う方向性である。分かりやすく説くなどと言う事以前に、経典と向かい合う。経典の言葉にかじりついて仏と真向かいになって道を求める以外にやるべきことはないのではないか。そういう所に、本当に求めている人が来るわけだし、そういう所で紡がれた言葉だけが誰かを救う事もあるように思う。最初から誰かに受けることを狙った言葉など、情報として5秒で消費されていく。

易しく説く事が悪い事ではない。しかし、のっぴきならない真剣な問い・本質的な問いに答えられるほどに教えと向き合っていないのに何を伝えると言うのか?そもそも求道していない、思想を紡いでいないのに、どうして易しく説く事に意味があるのか。「易しく・分かりやすく説く」などと考えることはあまりに安易ではないか。

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