見出し画像

人類の起源への旅日記 1.ヨハネスブルグとプレトリア

9月7日午前4時 忘備録として今回の旅を振り返る

 

8月27日午前4時 

前日から何度もタクシー予約の電話を試みたのだが、台風10号が接近中ということで、タクシーが予約できなかった。仕方なく、スーツケースを自分の車に積んで大分駅まで運び、幸代と荷物を下ろして、いったん車を自宅のガレージに入庫する。それから駅まで歩くつもりだったのだが、帰りしなにトキハタクシーが走っているのを見かけたので、予約センターに電話して、自宅に配車してもらう。助かった。

5時12分のソニック2号で博多に移動。博多駅から福岡空港国際線はとても近い。タクシーで2000円かからない。

国際線出発ロビーに、福岡教育大学名誉教授田崎徳友先生がお見送りにきてくださっていて、運よくすぐにお目にかかることができた。原監督の三脚を僕の手荷物としてチェックインすることにしていたので、到着ロビーにあるヤマト運輸のカウンターでそれを受け取って、シンガポール航空のカウンターでチェックインしてから、田崎先生とご一緒にコーヒーを飲む。国際線のターミナルに来るだけでも、気分が自由になるという話を伺った。同感だ。たしかに海外に行くとき、全身が期待に震えている気がする。これから起きる奇跡的なできごとへの期待であり、自分がある種の使命に向かっていることの自覚である。おかげで出発前の緊張にうるおいが生まれ、楽しいリラクシングな時間を過ごせた。


10時発のシンガポール航空で、シンガポールへ。映画「マダムウェブ」、映画「ナポレオン」を幸代と一緒にみる。両方の座席の画面が、同時に進行するように「エイっ」と映画を観始める。

シンガポールでは、ヨハネスブルグ便まで10時間以上の待ち時間がある。到着ロビーのラウンジで無為にのんびりと過ごす。

 

8月28日午前0時

シンガポール空港のヨハネスブルグ便の搭乗口で、原監督とスタッフの緒方さんとおちあう。これから9月15日まで、南アで行動をともにする。どうしてこんなことになったかというと、直接のきっかけは、2022年8月6日(土)に別府ブルーバードで原監督の「水俣曼荼羅」を観たことだといえる。上映時間が6時間以上ある映画をみて、監督のトークを聞いて、近くの居酒屋で開かれた少人数の打ち上げにも参加させてもらった。それが原監督との出逢い。それから1年半ぶりの今年1月に突如、原監督から連絡をもらい、耶馬渓での自主上映の打ち合わせのあと、別府で2時間ほどお話をした。

当時僕はクラウドファンディングで、「人類発祥の地南アフリカで人類の起源を明らかにする講演をしたい」というタイトルで、この南ア行きの旅費を集めていて、1月29日の活動報告にそのことが書いてある。それからしばらくして、南アに同行取材をしたいという申し出をもらったのだった。

 

ヨハネスブルグ便は超満員。エコノミーはまったく空席がない。12時間のフライト時間を映画を観て過ごそうと思ったが、「パーフェクトデイズ」はがっかり。でもおかげで少し眠ることができた。

ヨハネスブルグに午前6時半、定刻の到着。荷物を受け取り、Hertzでレンタカーを借りる。

今回のレンタカー予約は二転三転した。はじめは5人乗りの四輪駆動車を借りていたのだが、走行距離を無制限に変更したのち、スーツケースや機材のことを考えて、少し大きめの車の方がいいのではないかと判断して、フォルクスワーゲンのトランスポーターという8人乗りに変更した。後ろのドアを開けると、大型スーツケースを立てたまま3つ4つ載せられる。誰でも運転できるように、オートマチック車で、走行距離制限のないものにした。

なにせ広大な南アフリカ共和国の北端のリンポポ州から、南端の東ケープ州のインド洋岸までドライブして戻ってくるのだ。どれくらい大変なドライブになるのかわからなかったので、レンタカー選びは大変だった。

スマホのカーナビで、ケンプトンパークに住んでいる高達潔さんの自宅に伺う。高達さんは、2002年のWSSDのとき、道祖神の駐在員としてここヨハネスブルグに住んでおられた。僕は道祖神のチケットを10人分くらい買っていたこともあり、ソエトの民宿をみつけてもらったり、闇酒場シェビーンに連れていってもらったりと、大変お世話になった。彼はその後も、ヨハネスブルグに住み続けていて、現在は離婚した相手の連れ子といっしょに空港近くのご自宅に住んでいる。2年前に脳梗塞を起こして、車いす生活をしておられるが、言語障害も少なく、左半身麻痺は右脳の損傷で、やはり言語機能が左脳に遍在するのだろうかと思う。あらかじめリクエストをしてもらっていた日本食(醤油せんべい、水出し緑茶、だし昆布、マルタイラーメン、ユーハイムのバウムクーヘン)を少々お土産に持参。昨年よりも元気になっている気がする。まだ仕事に復帰はできないけれど、来年はもしかしてと思う。

10時半に、ウィッツ大学進化学研究所のバーンハード・ジップフェル先生とアポをとっていたので、車でウィッツ大に向かう。道を間違えたり、混んでいたので、11時になってしまう。ウィッツ大進化学研究所の受付で彼を呼ぶと、出てきてくれ、彼の部屋で早速インタヴュー。


僕の「アウストラロピテクスと現生人類は同じ属になる」という仮説(これはハーバード大学の分類学者エルンスト・メイヤが、ハーバード大学に就職する前に主張していたこと)や、今年発見50周年になる「ルーシー」の化石の由来のいかがわしさ(発見者のドナルド・ジョハンソン自身が、発見は1974年11月24日でメアリとリチャードのリーキー親子が来る直前であったという記述と、11月30日でリーキー親子がきた直後であったという矛盾する記述をしていて、それに対して、リチャード・リーキーはルーシー発見の現場にいたことを沈黙している。)など、その他もろもろを話し合う。

これまで日本のテレビやマスコミでタウングチャイルドのオリジナルが紹介されたことがないということを高達さんから聞いたばかりだったので、それを見せてもらいたかったのだが、現在化石保存庫を改修中ということで、立ち入らせてもらえなかった。世界中から見学者が殺到すると、対応に苦慮するので、あえてそういうことにしたのかもしれない。ちなみに僕はジップフェル先生のおかげで、2015年と2023年にそれと面会させてもらっている。

すぐ近くのPG(卒業生)ハウスで、ランチをご馳走になる。緒方さんはビールも頼まれ、とても美味しそうだった。


2時過ぎに、向かいのオリジンセンターを見学。ここの旧石器の展示は南アの初期人類の進化を物語るので、必見。また様々な原人たちの頭蓋骨のレプリカは、触ってもよいので、おススメ。

午後5時過ぎに、メルビル地区にあるゲストハウスにチェックイン。6thストリートの66番地で、小高い丘の上にあるゲストハウス。眺めもよく、朝食の天然こうぼのパンが滅茶苦茶美味しく、メルビルの商店街にも裏から容易にアクセスできて、「当たり」だった。

ランドの現金を入手し、南アVODACOMの通話料とデータ料をチャージするために幸代と2人で車で、メルビルのショッピングモール「キャンパススクエア」に行き、ドーナツショップで働くカラードの女性に会う。去年この店でドーナツとコーヒーを食べたとき、椅子を出してくれた彼女と連絡先を交換していたのだった。Vodacomにチャージしようとしたが、SIMカードが無効になっていたので、あらたにSIMを購入。そのあと、彼女をブラムフィッシャービルに車で送ることを提案していたのだが、遠慮したのか、警戒したのか、閉店時には姿を消していた。この日の夕ご飯は、PGハウスのランチがたっぷり食べたので、外出せず。やや疲れを感じたので、ひたすら休憩。

 

8月29日 朝食を食べてから、朝のうちに、幸代と2人で、メルビルの商店街を散策。去年みつけたザンビア人のママがやっているクリーニング屋兼洋服仕立て屋をひやかす。まずお店の中に額がかけられているケネス・カウンダ大統領にご挨拶。さっそくおススメのシャツを提案されて購入。

原監督と緒方さんが朝食を食べたあと、僕はSAHRAと電話会議で、撮影許可について話し合うことになっていた。SAHRAには6月に撮影許可を取得するために挨拶状を送っていたのだが、メールが梨のつぶてで、ようやくシンガポールで連絡が取れたのだった。電話は通じたが、どう申請するのかがいまひとつわからないまま。これがタウングのときに、大問題となる。

電話会議の間に幸代が緒方さんと原監督をこのクリーニング屋にご案内する。緒方さんは気に入られたようで、毎日訪れて、あれこれと買っていた。

昼過ぎに、キャンパススクエアのドーナツショップで、去年お友達になったカラードの女性に再会。お子様たちのためのお菓子を提供。緒方さんはクレカでキャッシング。道中のためにジュースを買う。

 

南アフリカ二日目はヨハネスブルグ北西にある人類のゆりかごのマロペンセンターに行く。ここはウィッツ大学と世界遺産を管理する組織が経営する展示施設。車いすでも、子供でも入れるようになっている。去年ここに行ったとき、警備担当の副所長にあって、「人類のゆりかご」という名称を「初期人類のゆりかご」に改称するように説得したことを思いだす。今年の僕は、初期人類も現生人類もともに「人類」であり、言語以前の人類と、言語獲得した人類という区分がよいと考えている。そのあたりの僕の仮説の進化をお伝えしたかったのだが、この副所長は6月に警備会社が契約更改されなかったために、もうマロペンにはいなかった。

去年、僕たちを展示室に案内してくれたツィーツィは、僕の説明をとても喜んでくれたので、今年も連絡をとると、「あいにく児童がたくさん来ていて、忙しい」という。それでも、「ツィーツィはいますか」と入口で尋ねたところ、喜んで会ってくれた。僕の2本のポスターを謹呈し、休憩スペースにあるテーブルで1時間以上話し込んだ。そのあと、センター屋上でも周囲の景観をみながら、説明してくれた。

夕方、ゲストハウスに戻り、夕食は宿に近いメルビルのイタリアンで食べた。

 

8月30日

プレトリアの南ア自然史博物館で、南アの鉱物と初期人類遺跡の見学をする。他にもいろいろな展示があったのだが、歩き回ると疲れそうで、鉱物と哺乳類進化の2つに厳選した。

南アは石油以外はすべての鉱物、レアメタルを産出する資源大国。鉱石標本は圧巻だった。

その後、哺乳類と初期人類の展示をみる。1994年以降は、学芸員・研究員がいないのか、新しいものの展示がない。また、現生人類の展示もまったくない。残念な展示であった。博物館のショップも閉鎖されていて、資料や本を買うことができない。これは寂しい、残念。

その後、プレトリア北方にある22万年前の隕石衝突跡、ツワインクレーターまで車を走らせる。運転は幸代に頼み、僕は後部座席で仮眠。

何も目につくものがない、荒涼とした平原に、隕石衝突跡はある。実はここには2012年のクリスマスイブに訪れている。直径1130mのすり鉢状の地形は、聖地としての風格をもつ。はじめ縁にある眺めのよい高台から、下を見下ろす。それから、すり鉢の斜面にそって下まで歩く。午後の光、青空に浮かぶ雲、いい気分。

池の側を歩くと、水鳥が驚いたように飛んでいく。水の側で幸代が法螺貝を吹くと、残響がすごい。

 

隕石衝突跡のあと、西にドライブして、2012年8月16日におきたマリカナ虐殺の現場に行こうかとも思ったのだが、すでに夕方で暗くなりかけていた。まったく知らない土地にいって彷徨うのは危険と判断して、ソエトに行くことにした。ソエトのプロテアグレンでは、9年前の9月に、モザンビークに帰るノルウェー人のヤンと待ち合わせしたときに、彼の親戚が住んでいた狭い家の床の上に直接寝た。そのときの若者フランシスコとは、フェイスブックでアドレス交換をしていた。せっかく近くまできたのだから顔を合わせようと、連絡をとってみた。

9年前には殺伐として何もなかったプロテアグレンだったのだが、彼の住んでいた家の前には二階建てのシェビーンができていて、週末だけ営業しているという。彼が今住んでいるのは、小さな家の裏に建てられた物置のようなひと間だけの部屋。そこに彼女と二人で住んでいる。ベッドとわずかな衣類があるだけ。彼はユーバーの配達員をしていて、少しして仕事から帰ってきた。

彼のおばさんにあたるモザンビーク人の女性と、ノルウェー人のヤンが結婚していて、その関係で9年前、彼らはヨハネスブルグで同じ敷地にある二間だけのRDP住宅に泊めてもらっていたのだった。

モザンビークに帰る車に便乗させてもらうにあたって、どこで待ち合わせするかを話し合ったのだけど、お互いに待ち合わせする場所が思いつかず、埒が明かなかった。それで、泊まるスペースはないと言われたにもかかわらず、彼らの泊まっているところに前日夜行くということにしたのだった。

ヨハネスブルグの駅から乗り合いタクシーで16ランド払って、プロテアグレンにきたのだが、どこに行けばよいのかわからない。とりあえずショッピングモールで車を降りて、数時間暇をつぶした。そして夜8時過ぎに、この家にきたのだけど、本当に泊まるスペースはどこにもなかった。僕とヤンは、食卓の下の床に寝て、薄い上がけ一枚で眠った。だけど、朝方の夢で、宇宙旅行をしているような夢をみた。うまれてこのかた、こんな素晴らしい夢をみたことがないと思うほど、神々しい夢だった。

そして、その日の朝、僕たちはモザンビークに向かう高速道路から、ヤンの奥さんが運転を誤って、車が後ろ向きに落ちるのだけど、幸いなことに、EXITに向かう側道と本線の間にある斜面を滑り落ちて、人も車もかすり傷ひとつなかった。神様が護ってくれたのだろう。

フランシスコは食事を買いに行くというので、ついていくと、僕が時間をつぶしたプロテアグレンのショッピングモールのケンタッキー・フライド・チキンにたどりついた。これは日本にもあるからといって、NANDOでテイクアウトした。僕たちの夕食も一緒に買った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?