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歩くことは人を豊かにする

皆さま初めまして。
主に信飛トレイルのコンセプトブック編集に関わらせていただいている坂田海馬と申します。
多くの方が「どなた…?」と思われているかと想像しますが、まずはこの無名な僕の自己紹介をしたのちに、僕の歩くこと・トレイル観について語ってみようと思います。
(このNoteをすぐに見ている人は相当なコアなハイカーだと思うので、文章を書きながらとても緊張しているところです。お手柔らかにお願いします。笑)

僕は東京の大学に通う大学4年生で、主に社会学について勉強しています。
人種差別をはじめとした社会の中の構造的不平等や、社会学の質的調査、ひいては近い学問である文化人類学などから、ドイツ語圏の政治や文化などまで、「広く浅く」といった感じで興味を持っています。
また、文章執筆やアート的文脈における写真などにも大学以降取り組んでおり、本や映画、音楽や写真展など様々なメディアが好きです。
自分でも色々とNoteを書いているので、ご関心があればご覧いただけると幸いです!
https://note.com/jpdech

「社会学?アート?山との関連は?」と思われるかもしれませんが、その通り。数年前まで僕の人生にはほとんど山との関わりがありませんでした。
きっかけは大学を休学して2年間スイスで働きながら生活したことでした。

スイス・エッシネン湖

もともと歩くこと自体は好きで、たとえば旅行に行った時には「できるだけ公共交通機関を使わずに歩く」ことをポリシーにしていました。
歩くことは最も自分をその場所にさらす移動手段です。
飛行機や電車、バスなどは基本的に自分と外の空間に障壁を置きながら、その地の時間を早送りして移動しています。
中世からある石畳の硬さ。鼻の奥まで押し寄せる香辛料の香り。少し自分を不安にさせる呪文のような異国の言葉。すれ違う人々の目の中に見えるキラリと光るもの。
歩くという行為は、常に五感を通して知覚する生の環境に身を委ね、自他の境界を揺るがし続けることで、自分の価値観を拡張するものだと、僕は考えています。
そしてスイスに暮らして初めて、歩くフィールドとして「山」が追加されたわけです。
特に夏は毎週末のようにアルプスを歩くことで、圧倒的な自然に魅了されていきました。

元々は転勤族として日本の地方都市を転々としていたものの、人生の半分を東京という大都会で過ごしてきた自分にとって、山の世界は常に非日常です。
都市で生きることが半ば「システムに生かされている」ことに感じていた自分にとって、山で過ごすことは自分と自分の持ち物にすべてを委ね、未知の環境に自分を晒す行為でした。
今もなお、人一人いないスイスの山で初めて野営した時のことを、昨日のことのように覚えています。
麓の村から1000メートル登ってそこで夜を過ごし、翌日降りるという単純な行程だったのにも関わらず、明らかに持っていった水が足りず軽い脱水症状になりました。
このまま誰にも見つからないままスイスの山で帰れなくなるのではないかと思いながら、僕の背中を伝った冷や汗の感覚は、まだ僕の記憶に深く刻まれています。
山の中では別の論理が働いているのだと、身をもって体感した経験でした。

その時の体験とそのすぐ後にスウェーデンで歩いた初めてのロングトレイルの話にご興味ありましたら、以下のNoteをご覧ください!
https://note.com/jpdech/n/ndee9932a4832

スウェーデン・クングスレーデン

60年代に環境問題への警鐘を鳴らす上で大きな役割を果たした生物学者、レイチェル・カーソンは未完の遺作『センス・オブ・ワンダー』の中で、彼女の甥であるロジャーとの日々で感じ取ったことをこのように述べています。

子どもの世界は瑞々しく、いつも新鮮で、美しく、驚きと興奮に満ちています。あのまっすぐな眼差しと、美しくて畏怖すべきものをとらえる真の直観が、大人になるまでにかすみ、ときに失われてしまうことさえあるのは、残念なことです。子どもたちの生を祝福する心優しい妖精に、なにか願いごとができるとするなら、私は世界中のすべての子どもたちに、一生消えないほどたしかな「センス・オブ・ワンダー(驚きと不思議に満ちた開かれた感受性)」を授けてほしいと思います。それは、やがて人生に退屈し、幻滅していくこと、人工物ばかりに不毛に執着していくこと、あるいは、自分の力が本当に湧き出してくる場所から、人を遠ざけてしまうすべての物事に対して、強力な解毒剤となるはずです。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』

僕も仕事で忙しい時に山に救われた一人です。
自分の判断を一つ間違えれば、もしかしたら帰れなくなるかもしれない。
そのように、圧倒的な美の中に「死」が少し顔をのぞかせている環境で、逆に自分の中にあるたくましい「生」の存在を意識する。
人間を超越する世界の中でも、細部を見れば花や鳥、虫といった、自分よりもか弱い「生」が懸命に生きている。
ある程度大人になってから自然に触れた中でも、「センス・オブ・ワンダー」に近い何かを知覚できたと感じています。
このような感覚はカーソンが言うように、生きる上での大きな支えになるでしょう。
そして、歩きながら絶えず自分が前へと進み、目的地に近づいていくという行動自体が、自分に自己肯定感を与えてくれました。
こういった効果は、「生きづらさ」が叫ばれる現代社会において変革をもたらすきっかけになるのではないか。
僕はそのように考えています。

アイスランド・ロイガヴェーグル

日本語では「登山」と「ハイキング」にはレベルの差があると認識されているのに対し、(英語でも基本的に同じですが)ドイツ語ではハイキングを意味する「Wanderung」という言葉で、トレイル上の山歩きを包括的に表します。
別の言い方をすれば、ドイツ語圏をはじめとした諸外国において、山歩きの中でピークを踏む重要性は比較的そこまで意識されていない、ということでもあると解釈しています。
すなわち、山頂に向けた登り降りという負荷のかかる運動があるか否かに関わらず「山行」であり、ハイキング・登山が広く家族連れなど、老若男女に楽しまれるものとして理解されているということです。

ここからは信飛トレイルではなく、僕個人の意見になることを明言しておきますが、日本の登山界には様々な閉鎖性が存在していると感じています。
もちろん、気象条件が著しく変わることや、欧米と比較して日照時間が短いこと、急峻な地形によって幕営地が限られることなど、制限を設けざるを得ない様々な地理的要因があります。
しかし、そういった要因を抜きにしても過度に閉鎖性が働いているように感じます。
日本の登山界について深い研究ができているわけではありませんが、その特徴を少し具体化すると以下のようになると考えています。

・形式や規律が過度に信奉され、目的と手段の逆転がしばしば起こること
・新しいものへの排除の傾向があり、そこに分断の構造が生じること
・知識・発言者が限定されており、そこに権力性が働いていること

全然具体的になっていないですし、登山だけではなく社会のいろいろなものに共通しそうです。笑
もっと具体的に書くと10000字くらいの文章になりそうなので、今回は深く言及しませんが、そういった構造の中で常に内向きの力が作用し、裾野が広がらない状況があるという仮説が僕の中にあります。
例えば、日本の国立公園の管理体制に関する構造的問題点は、しばしば雲ノ平山荘の伊藤二朗さんが言及されています。

僕が歩いたことのあるスウェーデンをはじめとした北欧諸国では、広く「自然享受権」という権利が認められています。
この権利について、フィンランド政府観光局のページには以下のように記載されています。
https://www.visitfinland.com/ja/kiji-ichiran/finland-shizen-kenri/

フィンランドでは、自然は野生であり自由です。フィンランド住民、または観光者は、法律に従いながら、自然豊かな地域を歩き回り、採餌をし、釣り糸や竿を使って釣りをし、自然地域のレクリエーションを楽しむ自由が認められています。(もちろん、自然に敬意を持って楽しんでくださいね。)これは「自然享受権」(Jokamiehen oikeudet)と呼ばれる権利です。

一方で以下のように続きます。

しかし、この権利には責任が伴うことを忘れないでください。フィンランドの北極圏の自然、特にラップランドの自然は繊細です。慎重に行動し、荒らすことなく、私有地を避けること。そして、脆弱な環境や野生生物を保護するための場所には立ち入らないようにしてください。ルールが守れない場合は、フィンランド国内のどこにいても、厳しい規則が適用されます。狩猟や釣りも許可なく行うことは、固く禁じられています。責任を持ち、ルールに従うことができれば、フィンランドの美しい自然は、誰でも楽しむことが許されています。

わかりやすく言い換えれば、自然に配慮しながらある程度のルールを守っていれば、好きなところにテントを張れるし、釣りをしてもいいし、周りにあるブルーベリーを食べてもいい、ということです。
高島トレイルのように幕営地に関する制限の少ない稀有な例はありますが、日本でこのような価値観を完全に導入することは、はっきりいって不可能だと考えています。
ただ、このように人々が自然の恵みを享受しやすい価値観から、登山界の閉鎖性を改善するために学べることは多くあるでしょう。

ノルウェー・ロフォーテン諸島

日本のロングトレイル界の外でロングトレイルと出会った自分にとって、日本において「アメリカ的なもの」からの影響が強いという印象を感じます。
例えば信越トレイルやみちのく潮風トレイルは、日本にロングトレイルの概念を持ち込んだ加藤則芳さんや、彼が踏破したアパラチアン・トレイルの影響を色濃く受けています。
彼が日本のロングトレイル界に大きな功績を残したことは紛れもない事実ですが、個人的には他の国の文脈も参考にするような、日本のトレイルの多様性がもう少しあってもいいように感じてしまいます。
別の言い方をすれば、様々な国にロングトレイルの文化が存在している中で、アメリカという国のみを参考にすることにはある種の恣意性があるため、もっと相対化してもいいのではないか、ということです。
数千キロに及ぶアメリカ三大トレイルを歩くような人たちは、(自分も歩くことを視野に入れているので言いますが笑)相当「変わった」人たちです。
そのため、他の影響を反映したトレイルを作ることは、日本における「ハイキング」やロングトレイルへの障壁を緩和し、多様な価値を提示する一つの方法になると考えています。

常に社会に対して興味を持ってきた僕が信飛トレイルを通して行いたいことは、人々と山の間にある距離を縮め、その価値を広めることで社会全体に良い影響をもたらすことです。
そして、そのためにトレイルを老若男女問わず様々な人に歩いてもらうことです。
素人ながらも、既存のロングトレイル界の状況を研究しながら、新しい価値を提示できるように頑張っていきたいと思います!
非常に長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでくれた皆さま、ありがとうございました!


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