『考える力をつける本』 読書メモ

著者:轡田隆史(くつわだたかふみ)
三笠書房

力の差とは、力そのものの差であるよりは、自分自身で持っている力の引き出し方の差なのである。
「考える力とは、実は、ものごとの細部にわたって、積極的に意識して行動する力なのであろう。

考えたことは、考えたように実行しなければ、意味がない。
「考える」とは、結局は、人間として恥ずかしくない生き方を、どう選んだらいいのかという問題にゆきつくのであるらしい。

わたしたちは、二つの時間を生きている。
一つは、人間としての自分の時間である。
もう一つは、仕事というものが、否応なしに押し付けてくる時間である。
この二つの時間を区分けして意識するのは、実はなかなか難しい。
たとえば、朝、出勤前にトイレに入る。
これこそ本来ならば、「人間としての自分の時間」であるはずなのだけれど、同時に、電車の時間を気にしながらの、「仕事というものが、否応なしに押しつけてくる時間」でもあるわけだ。
すべての時間が、「人間としての自分の時間」であるような錯覚の中に生きるようになる。

「よく少年時代の苦労はかまわない。晩年楽をすればなどというが、しかし少年時代に、感覚も感情もフレッシュであるとき、面白いことをすれば、老いて多少苦労をしてもいいのではないか、とも考えられると思う。
少年時代に遂げられなかった望みなどというものは、年が寄ってから償いようがないように思う」(作家:永井龍男)


月を区切り、週を分け、年を数え、1日の時間、分、秒を定めることによってのみ、人類は循環する自然の短調さから逃れることができたのである」
(ダニエル・ブアスティン)
「循環する自然の短調さから逃れるために」、「時」を定めた人類はいま、自らが定めた「時」に追われている。
そして、「時間の上手な使い方」が問われているのである。
わたしにおいて、「時間を上手に使う方法」とは、一週間・七日をどう使うかという問題であるのだ。
毎日毎日の一時間を上手に使うのも大事だが、それ以上に重要なのは、一週間・七日という時間を上手に使うことなのである。
毎日毎日の一時間を上手に使うのも大事だが、それ以上に重要なのは、一週間・七日という時間を上手に使うことなのである。
毎日、一時間、一時間を上手に使おうなどと考えないほうがいい。

仕事で行き詰まったら、「目的」から一時的に離れることだ。
代償を求めない無償の行為に転換しなければならない。

「時間を上手に使う方法なんぞにこだわっているうちは、決して上手に使うことはできない。
そんな強迫観念から自由になった時、時間はあなたのものになる。
ここでも求められるのは、思い切りの良さだ。ある種の勇気なのである。

ニュースの本質は、一見「枝葉」のようにしか見えない「細部」にこそ宿っていることも多いのだ。
しかし、より多くの記事、つまり情報を詰め込んで「完成品」を目指す過程で、このように「本質」を示す細部を削ってしまうようなことも、知っておいてほしい。

失敗も読書のうち。
読んで、つまらない、と感じるのは読んだからなのである。
「つまらない」と思っても、それを「失敗」と考えてはいけない。
「つまらない」と判断できたことをむしろ誇るべきなのである。
つまらない本をつまらないと感じられる人は、面白い本を面白いと感じられる人。
失敗を心配するよりも、本質的につまらなく、くだらない本を、面白いと感じているかもしれない事の方を心配すべきなのだ。

読書はリズム。
リズムを崩す最悪の敵は、読みながらメモを取ること。
絶対に避けるべし。メモしたいくだりがあったら、ページの端をちょっと折っておけばいい。

メモには、本、著者、出版社の名前とページを記入することを忘れないように。それと、日付。これは意外に大切で、いずれきっと役立つのである。
読書というのはきわめて個人的な内面の作業だから、世間と隔絶されたところで知恵を働かせているように感じるかもしれない。
しかし、人間は、眠っていても社会というものの中で眠っているのである。自分一人の知の作業も社会と実は隔絶されていない。
一人静かに本を読む人も、実は否応なしに世間の動きに押し包まれているのである。そもそもどんな本を選んだかという、まさにそのこと自身に、社会の有り様が反映しているのである。
人は「日付」の中で暮らしているのである。

わたしの仲間に、「絶対に録音はせずにメモ一本でやる」と宣言して頑張っている人がいる。
録音機があると、「聴く」という緊張感が、どうしても薄れてしまうからだ、という。
緊張感なしに聴けば、緊張感なしに書いてしまうことになりかねないからだ。

「書くこと」は、「読むこと」。
自分の文章を読みながら書き進めるのが、「書く」という作業なのである。観察はほとんど必然的に、「批判」のこころを呼び起こす。
「思ったこと」や「考えたこと」の浅さや甘さを、書いた瞬間に思い知らされるのである。

人はときに、何かを書かなくてはならないのに書くべきことを思いつかないで苦しむ。
ならば書け、「自分にいま書くべきことが見つからないのは、なぜか」を。「書くように考える」べきだと、わたしは説いた。
ならばいう。「なぜ?」という問いこそ、人に考えることをさせ、先へ先へと考えつづけてゆくエネルギーの源なのだと。

私の場合は、分量も時間も厳しく制限されているために、何が何でも削って、時間内に仕上げなければならないから、むしろ「楽」なのである。
間に合う「やり方」が自ずと身に付いてしまう。
実は、「制約」がその作業をしてくれるのである。
問題は、だから、特に「制約」のない、どんなに長く書いてもいい、どんなに時間をかけてもいい人、例えば趣味で文章を書こうというような人にある。そういう立場の人は、自分で自分に「制約」を課せばいい。
400字、1時間、というふうに。厳格にそれを守るように努めれば、なあに心配することは無い、「制約」が文章を書いてくれる。
「制約」が、はじめ自分では気づいていなかった、自分自身の「考え」へと導いてくれるのである。

科学であろうと芸術であろうと、前のものを否定したり肯定したりする中から、「オリジナル」が出てくるのである。
伝統や先人の足跡なしに突然、天才が文字通りの「オリジナル」を生み出すということはない。
アメリカの発明王エジソンは、「天才とは1%のインスピレーション(ひらめき)と99%のパースピレーション(汗)である」と言っている。
「99%の汗」とは、伝統や先人の業績を学んだうえで新しい工夫を凝らす努力をいう。これをいいかえるならば、「オリジナルとは一%のひらめきと99%の伝統を学ぶ努力である」というようになかろうか。

人類はもともと学名ではラテン語で「ホモ・サピエンス」と呼ばれている。「賢いヒト」といったような意味らしい。
もう一つの呼び方、「ホモ・ルーデンス」のほうはなるほどと感じている。「遊ぶヒト」。動物の中で意識して遊ぶのは人間だけというわけなのだろう。人間はもともと「遊ぶ」ようにできているのである。
だから、遊びたくなる自分に思い患う必要はない。
むしろ、遊びたくならなかったら、体や精神のどこかが傷んでいるのではないかと、心配したほうがいい。
だから、遊びたくなったら遊ぶことだ。
こころ動くままに遊んでいたら仕事が間に合わなくなる。
心配はもっともではあるけれど、遊びたいのを我慢しながら勉強しても、仕事をしても、結果はロクなことにならない。緊迫感が足りないからである。

遊びごころを無理やり抑えつけながら、集中力のない仕事を続けるのに、それほどの勇気はいらない。
だが、思い切って遊んでしまうには、それ相応の勇気が求められるのである。

「勇気のない人は、遊ぶべからず」
「知性は、仕事よりもむしろ遊びに宿る」

「遊び上手は、仕事上手」

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