祈るとは何か?


なぜ人は祈るのだろうか。
祈りってなんなんだろう。

誰かの定義した言葉の意味ではなく、
自分にとっては?
そんなことを改めて考える日々でした。

僕は『祈ること』と密接な家庭で育ちました。

写真にあるように、クリスチャンの家系に生まれました。
母の家系は、三世代続くクリスチャンの家系で
僕は生まれる前にバチカン市国に行き、
ローマ法王から洗礼を受け、
ヨハネ・パウロという洗礼名をもらいました。

当然、自分の意志もなく
クリスチャンとして生まれてきたのですが、
父の家系は、仏教徒で、法事は仏閣。

教育方針もバラバラ。
厳格で世話焼き、教育熱心な母と
とにかく自立を求め、放置する父と

日曜日はミサと祈り。
サッカーに行くことも友達とも遊ぶことも許されない。
見事に小4から不登校気味になり、行っても保健室。

思春期、反抗期には当たり前のように
家出を繰り返しました。
同時に、アナーキスト、パンクバンドで歌い出した頃は、
戦争や争いの中心にいるクリスチャンが
本当に心底大嫌いでした。

世界で起こっている現実と
教会の中で説かれ、祈ることの遠さからくる
ギャップの大きさに苦しみを抱えきれませんでした。

35歳を超えてやっと、
全てを否定したかった
幼少期の宗教を通した
自身の体験から受け取ったのが
「passion」という言葉でした。

パッションと日本で聞くと
情熱という言葉を思い浮かべると思うのですが、
「passion」は語源にあるのは、
『キリストの受難』を指す言葉です。

受難というのは、
みんなから虐げられて魔女狩りのように
何の罪もないのに、自分の弟子にさえ裏切られ、
十字架にかけられるのですが、
それでも、キリストは人々が平和で有りますようにと祈った。

なぜ人は祈るのだろうか。
祈りってなんなんだろう。

といった問いの答えは、
生きてると、傷つくこともあるし、苦しみも、悲しみも大変なこともたくさんあるけれど、

「それでも、なお、あなたがこの世界に願ってやまないみたい世界はなんでしょうか?」
「そのように生きていく強い意志や覚悟、情熱はありますか?」
「そして、それを苦しみの受難の日々でさえも行動で示すことを誓いますか?」

そんなことを僕に問いかけてきているのだろうと思います。

35歳を超えて、やっと、僕は「はい、誓います」と
その道を生きることを約束できるようになったと思います。

自分の中の純真さと繋がり続ける。

そして、そう生きていきたいと願う人たちと繋がり、
共に生きていくために、助け合い、分かち合い、
目の前の人をその時の精一杯で愛します。

Ho,Mitakuye Oyasin
私につながるすべてのものたち
Lokah Samastah Sukhino Bhavantu
世界のすべてが幸せになりますように

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