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ピアノを拭く人 第1章 (14)

 昼過ぎから降り始めた雨は一旦弱まったが、夕方には勢いを増していた。彩子は車のワイパーを最速にした。風に煽られて車を直撃する雨音は、ラジオから流れるピアノ協奏曲の緩徐楽章を聴こえにくくする。助手席には、透のために購入した便箋と封筒を入れた袋が乗っている。彩子は過去にフェルセンに行ったどの日よりも、気がはやっている自分に気づいた。

 フェルセンの扉を開けると、いつもは耳に飛び込んでくるピアノが聴こえてこない。カウンターの後ろにいる羽生の目元に、疲労がにじんでいるのが遠目にもわかる。
「こんばんは」彩子は、がらんとした店内を見回しながらカウンター席につく。
「この大雨で、開店休業状態」
 防音が施された店内には、屋根を打つ雨音が微かに響くだけで、外界から隔離された静寂が広がっている。普段は音に満たされている空間を支配する静けさに、彩子は居心地の悪さを覚えた。
「透さんはお休みですか? 便箋と封筒を頼まれたのですが……」
「ああ、聞いてるよ、いろいろ迷惑かけて本当に申し訳ない。水沢さんが話しを聞いてくれて、行き詰っていた透も楽になったようだよ。今日は、お客様が来ないから、2階で休ませてるんだ。いろいろあって、かなり消耗してるから」
「何かあったんですか?」
「生来のそそっかしさに、連日の疲労が祟って、自分の首を絞めるような失敗をしてしまってね。まーた、手紙を書かなくてはならない相手が増えたようだよ……」
彩子が詳細を尋ねる前に、羽生が思いついたように言った。
「何か食べるでしょ?」
「はい。いつものかけうどんをお願いします」
「うん。透の分も作るから、嫌でなければ、上で一緒に食べてくれるかな」
 羽生は彩子の返事を待たず、2人分のうどんを冷蔵庫から取り出し、鍋を火にかけた。疲労が蓄積しているのか、いつもはぴんと伸びている彼の背中が丸くなっている。
「昨夜、透さんにお会いしましたが、かなりお疲れのようでした。羽生さんと喧嘩をしてしまったようですね。羽生さんもお疲れでしょう」
「うん……。私も毎日のことで、苛々してしまってね……。私も限界に近いけど、透もあの状態が続くと、心も体も壊れてしまう」
 2人の透を案じる思いが重なり、静寂のなかに溶けていった。
「あの、私、詳しくないのですが……。透さん、強迫症じゃないでしょうか……」
「私もそう思ってる。本に載ってるような典型的な症状ではないから、前の医者は、そう言わなかったけどね。透も調べたらしいけど、専門医は都内に行かないといないそうだ。今の彼は、東京に出て初対面の人と話すには多大なエネルギーが必要だから、いくら受診を勧めてもだめだ」
「会社の上司に聞いたのですが、E病院の赤城という先生が、強迫神経症の小学生を治したようです。薬を使わないで治療してくれたとか」
 羽生は疲労の滲む細い目を鋭く見開いた。
「それは良い話だね。ありがとう。後は、透がいよいよ限界になって、自分から病院に行くと言うのを待つしかないね。機会があったら水沢さんからも話してみてください」
 彩子は、羽生が、自分にまで協力を求めざるを得ないことから、彼の心身が悲鳴を上げ、共倒れを恐れていると察した。沈みそうになっている船に引き込まれることに抵抗はなく、むしろ手を差し伸べたいと思った。


 彩子はお盆を持った羽生に導かれ、店の外に設けられた階段で2階に上がった。羽生がドアをノックすると、マスクを外し、ネクタイを緩めた透が顔を出した。彩子の姿を見ると、慌ててマスクをかけ、乱れたオールバックの髪を撫でつける。
「水沢さん、ご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳ございません。こんな雨のなか、来ていただいてすみません」
 羽生は、頻りに頭を下げる透に、「うどんがのびるよ」と言い残し、店に戻った。


 透に招き入れられ、彩子は部屋に足を踏み入れた。部屋には、ベージュのソファが1つと、長方形のテーブルに背もたれの高い椅子が4つあった。マスクの隙間から、透の香水と整髪料の匂いが浸透してきた。

 透はテーブルの上に無造作に置かれた黒いジャケットを慌ててどかし、除菌ティッシュで忙しなく手を拭いた。テーブルの上のモロッコランプが、湯気の立つうどんに、青いほのかな光を注いでいる。            

 透は彩子に椅子を勧め、自分は対角線上に座わった。
 屋根を強く打つ雨音が、ぎこちない空気を埋めていく。
「昨夜はドリアをご馳走様でした。便箋と封筒を買ってきました」
 彩子は雨に濡れないように注意して持ってきた紙袋を差し出した。
「ご丁寧に、ありがとうございます。本当に助かりました。お手数をおかけしてしまって、大変申し訳ございません。この雨のなか、本当に申し訳ございませんでした。いろいろありがとうございました。いくらでしたか?」
「大した額ではないので、お気になさらないでください。ドリアをご馳走していただきましたし」
「そういうわけにはいきません。この雨のなか、買って来てくださったのですから。この時期に、現金の受け渡しで申し訳ございませんが……」
 押し問答の末、彩子が千円札を受け取ると、透は安堵からくる穏やかな声で促した。
「のびないうちに、どうぞお召し上がりください」


 時を刻む秒針と雨音に、マスクを外した2人がうどんをすする音が重なる。透との物理的な距離の近さに、彩子は箸を持つ手が微かに震え、心臓が早鐘を打ち始めるのを感じていた。温かいうどんによる体の火照りが、緊張で赤らむ顔をごまかしてくれる。
「使いますか?」透が除菌ティッシュで手を拭ってから、飛沫が飛ばないように口元を抑え、七味を手に取って尋ねる。至近距離で見る長くすらりとした指が美しく、彩子は思わず目を伏せる。
「いえ、御出汁がとてもやさしい味なので、味わいたいんです」
「僕も同じです。何度食べても飽きない味ですよね」
 目を細めた透の表情が、あまりにも端正で、彩子の頬は、ぼっと熱を帯びた。

 

 透が片付けに階下に降り、番茶を持ってきてくれた。
「お手紙は書けましたか?」彩子は群青色の湯飲みを両手で包んで尋ねる。ほのかに伝わる温かさと、火照った指先の熱が溶けあっていく。
 透はマスクをかけてから話し出す。
「はい、おかげ様で今朝方。けれど、僕はそそっかしいので、封筒に間違えて葉書用の切手を貼ってしまったんです。投函して、何時間か経ってから気づいて、慌ててポストに走りましたが、集荷された後でした。意を決し、郵便局に電話して、回収の手続きをお願いしました。苦労して書いた手紙が台無しです。これから、手紙の特徴を聞いて回収手続きをしてくれたオペレーターさん、手紙を探してくれた局員さんに御礼状を書かなくてはなりません。手紙の封筒も書き直さないといけません」
 透は長い睫毛を伏せ、肩を落として溜息をつく。
「お疲れだったのですから仕方ないですよ。本当にお疲れ様でした。電話が苦手なのですか?」
「ええ。僕はせっかちで、気を付けていても、相手と話すタイミングが被ったり、相手の話の途中で話してしまうことがあるんです。そのことを謝ったか、十分に御礼と御詫びを言ったかが気になるんです。電話を切った後、十分でなかった点がすうっと頭に侵入してきて、全身がぞわっとして居ても立ってもいられなくなると、もっともらしい理由をつけてかけ直して、伝えないと落ち着かないんです。伝言を頼むときは、伝えてもらう人へのお礼と御詫びも十分に伝えないとだめなんです。お礼やお詫びを伝えるファックスを送ることもあります。そのファックスを対象の人に渡してくれる人への御礼と御詫びも必ず書かないと落ち着きません。こういうことがあるから、電話は嫌なんです」
「お気持ちはわかりますが、透さんがかけ直した電話を受ける人の時間をとってしまい、逆に迷惑じゃありませんか?」
「そうなんですよね。そう言っていただくと楽になります。わかってはいるのですが、今の僕は頭がおかしくて、どうしても言わないと落ち着かなくて。どうにか自分が楽になることを考えてしまうんです」
「御礼状を書くのも丁寧で良いことだと思いますが、もらった方がお返事を書かなくてはならないと思ってしまい、逆に負担になってしまうかもしれませんよ」
「そうですよね。僕の気持ちが落ち着けばいいのですが……」
「それに、お礼やお詫びを過剰に伝えると、フェルセンのお客様が困ってしまうと思います。むしろ、怖いですよ。折角の素敵な演奏の余韻が台無しになってしまって、悲しくなります」
 透は肩を竦めて俯いた。
「すみません。偉そうにいろいろ言ってしまって……」
 彩子は彼が少しでも楽になるようにと饒舌になってしまったが、さすがに言い過ぎてしまったと自分を呪った。
「とんでもないです。もっともなことなんです。今の僕は、頭がおかしいんです。いくら言っても十分ではない気がするんです。十分に言ったと思っても、後から十分でなかった点がすっと頭に侵入してくるんです。それに加えて、相手に伝える御礼と御詫びの言葉がセットになっていて、どれかが欠けると気になって仕方がないのです。それを変えることはできないかと以前診てもらった精神科の先生に言われました。変えたいんですが、自分ではどうにもならないのです。その方法を教えてほしかったのですが……」
 彩子は、彼の認知を修正するには、専門家の力が必要だと痛感した。今のままでは、彼を知りたくていくら手を伸ばしても、その魂に触れることはできない。


「透さん、私はあなたと実のあるコミュニケーションがしたいです。今のままでは、御礼と御詫びの儀式に参加させられているようで寂しいです」