ピアノを拭く人 第3章 (2)
改札を出た彩子は、透と羽生それぞれに買った土産の袋を抱え直した。駅を出ると、冷たいからっ風が、昂ぶった胸に心地よかった。腕時計を見ると、7時を過ぎている。
自分を見た透が、どんな表情を見せてくれるかと想像すると、自然と歩調が速まる。彼をエクスポージャーに向かわせる原動力になったのが、自分だと思うと、今まで味わったことのない幸福感に包まれる。外食も買い物もできなかった彼が、手を消毒せず、汚れたお札や硬貨で会計できたことは、心から嬉しく、誇らしく思っていた。
風で乱れた髪を撫でつけ、はやる思いでフェルセンの扉を開けると、透とマスクを外した大学生くらいの女性が、彼の伴奏でデュエットする姿が目に飛び込んできた。彼女の友人と思われる若い女性3人が、2つのテーブルに別れて座わり、歌を聴いている。テーブルの上には、空になったデザートの皿が乗っている。彩子は、店の利益になるとわかっていたが、この時期に集団で来るなと心の中で毒づいた。
「ア・ホール・ニュー・ワールド」
ディズニー映画『アラジン』で、アラジンとジャスミンが魔法の絨毯に乗り、新しい世界を見に飛び出すときの歌で、たくさんの歌手にカバーされている。
透の声は伸びやかで、張りがあり、冒険心に満ちた少年のような稚気を含んでいる。相手の女性は、高音が頼りなく、低音もかすれるが、歌手気取りで幸せそうに歌う。
客とコミュニケーションをとる透の姿は、もちろん喜ぶべきことだが、気勢を削がれ、行き場のない苛立ちと淋しさが彩子の胸に広がっていく。
彩子は、胸を張って背筋を伸ばし、かつかつとヒールを響かせてカウンターに座った。透に目を遣ると、彼が瞳を輝かせてウインクを送ってきたので、露骨に目を反らした。
「羽生さん、これ東京土産です。奈良漬け、お好きだと伺ったので」
「あー、この店の奈良漬け、東京のデパート行かないと買えないんだよ。ありがとう」
嬉しそうな羽生を見て、彩子は突起のように立ち上がった苛立ちが、鎮まっていく気がした。
「QRコードのメニュー、問題なく表示できてますか?」
「うん、おかげ様で。最近は若いお客様が多いから、みんな携帯でQRコードを読み取って、メニューを見て注文してくれるよ。紙のメニューを出す機会は随分減ったね。便利なもの作ってくれて助かったよ」
「よかったです。何か問題があったらいつでも言ってくださいね」
歌が終わり、4人の女性がピアノの周囲にソーシャルディスタンスを取って集まり、透に話しかけ始めた。透は最初こそ、びくびくしていたものの、1人1人の目を見て、大げさな相槌を打ちながら、話に耳を傾けている。ときどき目尻を下げ、優しい笑みを見せる。彩子の知らなかったその微笑みは、純朴さの奥に、芳醇な色気を隠しているような妖しさがある。
「あの子たち、短大の聖歌隊なんだって。チラシを持って来て、食事とデザートまで、しっかり食べてくれたよ。水沢さんがチラシ配ってくれたエリアだよ」
彩子はさして興味のない素振りで、コーヒーを淹れている羽生の背中に尋ねた。
「透さんって、あの外見ですから、もてるんですよね?」
「うん。若いときは、寄ってくる女性の中から、好みの子を見つけて、口説いてたよ。ピアノと歌を聞かせれば女はイチコロなんて豪語してた。まあ、好きになると一途なんだけどね。女性が音楽の刺激になるみたいで、いい恋愛をしているときは、音楽も充実するわかりやすい奴だよ」
「そんなに、すごかったんですか……。まあ、そうでしょうね」
彩子は内心の動揺を悟られまいと、ポーカーフェイスでつぶやいた。
強迫症に苦しむ透しか知らない彩子は、知らなかった彼の姿を生々しく突き付けられた戸惑いを胸の裡に押し込めた。
「水沢さんのことは、特別に思っているようだから、宜しく頼むよ。大変なことが多いかもしれないけど……」
羽生はカウンター越しに、深く頭を下げた。
「え? あの……」
「だいたい聞いてるよ。透が、そういうことになったから、大切にしたいって」
彩子は気まずさに、視線を落とした。
「ここまでよくしてくれた水沢さんを粗末に扱ったら、ただじゃおかないから、何かあったら遠慮なく相談してね」
「ありがとうございます。私こそ、彼にふさわしくありたいと思います」
羽生は目元に穏やかな笑みを浮かべ、彩子にバニラの香りが漂うコーヒーを出すと、ピアノを囲んでいる女性たちに、ラストオーダーだが、追加はないかと尋ねにいった。
彩子は羽生の気持ちを心から嬉しく思った。だが、透には、義務や義理で自分と一緒にいてほしいとは思わなかった。
女性たちは、透との話に未練を残しながらも、帰り支度をはじめた。
透は会計を済ませた彼女たちを出口まで送り、1人1人に丁寧にあいさつしていた。やや大げさだが、以前のような病的な丁寧さが影を潜めたことは、彩子と羽生を安堵させた。
彩子がコーヒーに口をつけたとき、Lineの通知音が鳴った。アイコンがモーツァルトに変わっていたので、一瞬わからなかったが、「早く2人になりたい」という透からのメッセージだった。
透はピアノに戻ると、彩子に視線を投げてから、ミュージカル『モーツァルト!』の「僕こそ音楽」を弾き歌いはじめた。彩子も大好きな曲だった。
何かから解放されたように、楽しそうに歌う透の姿は、今まで見たことがないほど生き生きとしていた。彩子は、彼は本来この歌詞のような人なのかもしれないと思った。強迫症という頸木から解き放たれ、どこまでも奔放なのに、自己愛が強くて傷つきやすく、音楽そのもののような透が顔を出すのだろうか。