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ピアノを拭く人 第3章 (8)

 年の瀬が迫っているが、車は思ったよりスムーズに流れている。新型コロナウイルスの感染者数は日々増加している。例年なら、故郷へ向かう車や、年末年始を迎えるための買い出しに出る車が増え、渋滞に苛立ちを募らせることを思うと、彩子は寂しいような解放されたような複雑な思いにとらわれた。

「羽生さんが、年末年始は1月2日を除いて店を開けるけど、歌は自粛しようって」助手席の透が、手袋をもてあそびながら、寂しさをにじませて言った。
「そう。残念だけど仕方ないね。透さん、マスクして歌ってるのにね。あ、デュエットするお客様は、マスク外して歌ってたか……」
 彩子の脳裏に、いつぞやの短大生の姿が浮かんだ。
「羽生さんが言ってたけど、透さんはコロナの前もマスクをして歌っていたの?」
「うん。強迫になってから、お客様とピアノに飛沫が飛ぶのが気になり始めて……。そのときは、せっかくの歌声が台無しと散々言われた。だが、コロナが流行してからは、飛沫拡散防止と思われるようになったな。まあ、マスクをしていても、完全に飛沫拡散を抑えることはできないが」
「いろいろな面で、新しい環境への適応が求められているね……」
 

 彩子は、クライアントへの営業が始まったオンライン試験監督システムのこと、テレビで見たコロナ禍でも業績を伸ばしている企業の取り組みに思いを巡らせた。その陰に、新たな環境に適応しきれない企業や人材がいると思うと、胸を締め付けられる。
 そのとき、彩子のなかで、透が飛沫拡散を恐れていることと、何度も買い物を続ける姿が、点と点をつなぐように結びついた。


「ねえ、透さん。今は、飛沫を飛ばさないことを第1に考えなくてはならないよね」
 透は肯いた。
「透さんが、気になることができて、何度も買い物をしていたとき、気づいてなかったかもしれないけど、パニックになって、いつもより大きい声でお礼とお詫びを伝えてたよ。それ、店員さんに迷惑じゃない? 人との接触を減らすことが推奨されているのに、何度も買い物をして、大きな声を出して飛沫を飛ばしてるんだよ。それに、この前みたいに、何度も買い物をして、かごをいくつも使えば、お店の人が消毒しなくてはならないかごが増えるんだよ」


 彩子は祈る思いで透の反応を待った。彼が強迫行為をしないと、気になって何もできないと言い張ればそれまでだ。


「それもそうだな。そう考えると、強迫行為をしないでいられそうだ」
 彩子は胸の裡でガッツポーズを繰り出した。
「今度、そうなったとき、試してみるよ。ありがとう、彩子」
 透の目は確かな光を放ち、納得したように頷きを繰り返している。


「実は先日、赤城先生の診察で、気になることが1つだから、そこに意識が集中してしまうのだから、増やせばいいとアドバイスをもらったんだ。なるほどと思って挑戦してみた。うまくいくと思ったんだ」
「どうだったの?」
「うん。不潔恐怖のシオリが汚れを広げていたのを思い出して、俺も買い物で気になることができたときは、同じことを他の店でもやってみた」
「例えば、『ありがとうございます』を言うタイミングが、店員さんと重なってしまったときは、別の店でもわざと重ねるとか?」
「そう。だけど、なかなか店員さんと声が重ならなくて、何度も買い物をする破目になった。買い物を繰り返すうち、また別の気になることが出てくるんだ。慌てていて、商品を逆向きに出してしまったり、何度も買い物をしてSuicaのチャージが切れたのに気づかず、現金で支払うことになったり。買い物を終えた後、Suicaのことで店員さんに手数をかけたことを十分に謝ったか、御礼を言い足りなかったのではないかという強迫観念が、すっと侵入してきて、また買い物に駆り立てられた。その後、さっき出した硬貨が汚れていたという強迫観念がきたので、別の店でも汚れた硬貨で買い物をした。そんな感じで、エコバッグ2つを一杯にして、買い占めをした人みたいないでたちで、はあはあ言いながら帰った。情けないというか、心底自分が嫌になった……」
「そっか……。お疲れ様」


「でも、店員さんに飛沫を飛ばして、危険に曝すことを考えると、強迫観念をそのままにできそうだ!」
「うん。もともと、透さんが気にすることは、相手は何とも思っていないことばかりだから、それでいいんだよ。わかってると思うけど、強迫行為は意味がないことなんだよ」