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連載小説「三角公園」第1話

あらすじ

 早川瑞穂はやかわみずほは努力家で成績優秀だが、容姿には恵まれていない。瑞穂は進学した高校で、才色兼備の日向桜子ひゅうがさくらこと仲良くなる。異国の血を引く魅力的な容姿を持ち、天才型で天真爛漫な桜子は、瑞穂の劣等感と嫉妬心をかきたてる。
 瑞穂はいつしか、桜子、彼女が思いを寄せる英語の非常勤講師 菖蒲瑞人しょうぶみずととの三角関係に取り込まれていく。その関係は高校卒業後も瑞穂を翻弄する。
 三人の関係を通し、その存在だけで、意図せずも誰かを傷つけてしまう悲しい関係が浮き彫りにされる。

創作大賞2023 中間選考通過作品


プロローグ

 先生の細い背中は、どんなに遠くからでも見分けられる。私は、上がっていく心拍数に急きたてられるように足を速める。ぴんと伸びた紺スーツの背中が、少しずつ大きくなる。あと数メートルというところで、決まって桜子さくらこが飛び出してきて、そよ風のような声で「菖蒲しょうぶ先生!」と呼び止めるのだ。私は心のなかで舌打ちする。振り返った先生は、後ろでふてくされている私にも、「やあ、瑞穂みずほ」と物憂げに微笑んでくれる。私はつられるように笑顔をつくってしまう。桜子と私は先生の両脇に並んで歩き出す。桜子に邪魔されたはずなのに、なぜかほっとする。私たちにとっても、彼にとっても、この関係が心地いいのだ。

 桜子がいなくなったいま、もうその時間は永遠に戻ってこない。


 カーテンの隙間から、金色のヴェールのように差しこむ朝日が目を刺した。この夢を見たのは何年ぶりだろう。昨夜、母からの電話で、街の再開発に伴い、あの公園がなくなったと聞いたからだろうか。
 

 私は隣で平和な寝息を立てている夫を起こさないよう、静かにベッドを出る。窓を開けると、朝の澄んだ空気が頬をかする。女子高校生が2人、前の通りを自転車で走り抜けていく。引きしまった空気は、自転車で高校に通っていたころの記憶を呼び覚ます。

 もう30年近く経つのに、鮮やかによみがえる。田圃たんぼに響く蛙の合唱、天を突くように伸びる稲の葉がそよぐ音、黄金色に実った穂のさざめき、物悲しさをかき立てる虫の、霜柱が立つ田圃を吹きわたる北風の叫び。耳の奥から聴こえてくる先生の低い声と、桜子と私の無邪気な声は、和音のように溶けあうことのないまま、時の彼方に消えていく。


 私は夫の額にそっと口づける。つかみとった幸せをかみしめ、同じ空の下にいる先生の幸せを祈る。この夢を見るのは、たぶんこれが最後だろう。


1-1

1993-1994年
 高校に入学し、クラスで初めて言葉を交わしたのが桜子だった。
 桜子は、すらりとしていて、驚くほど手足が長く、顔が小さかった。きりりとした眉と黒目の多い瞳が際立つ彫りの深い顔立ちだが、透けるように白い肌が全体をすっきりと見せていた。彼女の日本人離れした容姿は、写真家として来日した父方の祖父が、英国と中東のハーフだからだと後から知った。


 私は背が低く、ぽっちゃりしていて、浅黒く、顔のパーツには何一つ秀でたところはなかった。中学時代、クラスの男子が作った彼女にしたくない女子リストの筆頭に上げられたこともあり、普通の女の子より一段下に見られてきた。そんな私は、ファッションモデルのような桜子の隣に立つことに、ひどく気後れした。


 非対称的な私と桜子だが、最初に言葉を交わしたことから、行動を共にするようになった。桜子は可憐な容姿からは想像できないほど頭が良く、大して勉強していないのに、学年トップを維持していた。私は人の何倍も努力することで、かろうじて上のほうにしがみついていた。それを反映したように、桜子は天真爛漫で、周囲をほっこりさせる空気をまとっていた。私は努力しても桜子に敵わない嫉妬が募るに連れ、重苦しいものを背負っていった。

 私たちの通った女子高は田圃に囲まれていて、「陸の孤島」と揶揄されていた。共学や男子高は電車で三駅先にしかなく、異性と接する機会は乏しかった。だから、男の先生はもてた。ぱっとしない先生でも、生徒に十重二十重とえはたえに囲まれ、手作り弁当やお菓子をプレゼントされていた。少し前に、高校の生物教師と女子高校生が恋仲になるテレビドラマがヒットした影響もあり、夢を抱いていた子は多かった。私は、そんな騒ぎを冷めた目で見ていた。そもそも、心ときめく先生がいなかった。仮に好きな先生ができ、付き合えたとしても、先生はずっと女生徒に囲まれ続ける。自分のような子が、後から後から湧いてくると思うと、心休まる暇なんてないだろう。それに、一年生なのに、先生につきまとうと、先輩に靴を隠されたり、自転車を壊されたりすると聞いてぞっとした。中学のとき、陸上部の先輩との厳しい人間関係に神経をすり減らした私は、先輩とのごたごたに巻き込まれるのは、もうごめんだった。


 菖蒲先生は英語を教えていた。正確に言えば、彼は水曜と土曜だけ教えに来る非常勤講師だった。あの頃は、まだ週休二日制が定着していなくて、土曜にも半日授業があったのだ。当時の私たちにとって、常勤でも非常勤でも先生であることに違いはなく、先生が大学院生だということも意識していなかった。


 菖蒲先生は、瞳や唇の色素が薄く、いつも疲れた顔をしているせいか、27歳という年齢よりも、ずいぶん老けて見えた。167センチの桜子よりも背が低く、風は吹けば折れてしまいそうなほど細かった。それでも、若かったせいか、それなりにファンがいた。


 桜子が菖蒲先生への恋心を私に告白したのは、一学期の中間テストを控えた昼休みだった。彼女の趣味が変わっているのは、クラスで有名だった。皆が首を傾げるような容姿の芸能人に夢中になり、きゃーきゃー騒ぐことはよくあったが、あの先生はないと思った。
「はあぁ? どうしちゃったわけ!」
 私はPekoeミルクティーの缶を片手に、頓狂な声を上げた。
 テスト前ということもあり、教室はぴりぴりしていた。生物の教科書を見ながら、弁当を食べていた子が、迷惑そうな視線を投げてきた。異性の目を気にせずに済む女子高で、そこそこの進学校だったので、休み時間に教科書や参考書を広げるのはめずらしくない光景だった。
「先生狙うなら、音楽の香月にしとけば? 背が高くて、顔もいいし、ピアノも歌も上手いじゃん。面食いだって噂だけど、桜子ならいけそうだよ」
「菖蒲先生以外、考えられないよ~」
 頬を染めた桜子を見て、女子校の先生は美味しい仕事だと思った。
 
 桜子はもてた。五月にあった学園祭には、桜子目当ての男子が何人もきた。男子高の学園祭に行ったときは、何人もの男子から連絡先を聞かれていた。桜子が囲まれているあいだ、私はぽつんと取り残された。そんな状況には慣れていたはずでも、ひどく惨めになった。
 桜子に限りない選択肢があることを思うと、風采の上がらない先生に熱を上げているのが滑稽だった。たしかに、菖蒲先生の英語の授業は、生徒を飽きさせないようにめりはりがつけられていて、発音にも品があった。質問にも丁寧に答えてくれた。だが、いつも心ここにあらずの目をしていて、若い先生が放つ覇気が感じられなかった。何度教室に来ても、居心地が悪そうで、ここに馴染んでしまうことを拒む強固な意志が働いているかのようだった。


「何で菖蒲がいいと思ったの?」
 桜子は「きゃー、恥かしい!」と嬌声を上げ、私の背中をばんばん叩くと、つぶつぶいちごポッキーを勢いよくかじった。
 桜子の言動は子供じみていて、派手だった。だが、そこに計算された狡猾さは微塵もなく、湧きあがる感情をそのまま表出しているような力強さがあった。空気を読まない反応をして、周囲を凍りつかせることもあったが、桜子だから仕方ないと周囲に受け入れさせてしまう不思議な魅力があった。私はそんな桜子を、どこか冷ややかな目で見るようになった。
 桜子は長い睫毛を蝶の羽のようにしばたたかせ、大切な思い出を取り出すように話し出した。
「英語のテストが返された日、私、風邪で休んだじゃない。だから、職員室に受け取りに行ったの」
「ああ、先生が90点代は桜子だけって言ってたよ。私、すっごい勉強したのに、90点台に届かなくてさ。悔しかったな……」
 
 桜子は教科書を写真のように焼き付けて覚えてしまう。手が痛くなるほどノートに書いて暗記し、試験直前に見直すためにリングカードを作っていた私には、羨ましかった。持って生まれた脳の違いは悲しいと、嫌と言うほど思い知らされてきた。
「そのとき、菖蒲先生に、日向ひゅうがは将来何になりたいかと聞かれたの」
「あ、それ、私も興味ある」
「何となくやりたいことはあるんだけど、具体的に、自分に何ができるかはまだわからないの。だから、まずは、いい大学に行きたいって……」
「それで、菖蒲は何て?」
「先生が真剣な目で言ったの。日向は何にでもなれると思う。僕は日向が、その頭脳を社会を良くするために生かしてくれたら嬉しいって。欧米のエリートは、私益を追求するだけではなくて、社会にも責任を持つように教育されるんだって。志はあっても、高い能力に恵まれない人もいるんだから、日向はその能力を適切に使ってほしいって……」


 私の頭脳では、そんなことを言われることは一生ないと思うと、腹の中で嫉妬が突起のように立ち上がった。私は才能がないくせに、向上心だけは持ち合わせている面倒な性格だった。そんな私は、桜子といると、嫉妬という毒が全身に回っていった。


「あの日から、自分がどうしたら社会のためになれるか真剣に考えるようになったの。それから、先生のことが気になって、気になって……」
「はあ……」
「私、先生が好きっ……! こんなに人を好きになったの初めて。先生の彼女になりたいっ!」
 桜子の黒目の多い瞳が、少女漫画のヒロインのように光を放ち、赤みの強い唇が艶っぽく輝いた。女の私でも、どきりとするほどだった。
「ねえ、瑞穂ちゃん。先生、いつもラジカセを運ぶのが大変そうじゃない? 私たちが手伝おうよ! そうすれば、仲良くなれるよ」
 
 真っ先に浮かんだのは、先輩に目をつけられたら面倒だということだった。だが、あの魂が抜けたような先生が、桜子のアプローチにどう反応するかという好奇心が勝った。英語は受験の最重要科目だし、英語の先生と仲良くなっておくのも悪くないという下心もあり、桜子に協力した。


1-2

 桜子と私は、すぐに菖蒲先生と仲良くなり、ラジカセの運搬は私たちの仕事になった。あの頃、先生方は、桜子の華やかな容姿と、秀でた頭脳を前に、どこか恐れるような態度で接していた。そんな桜子と一緒にいれば、私も先生に覚えてもらえた。だが、桜子と私の扱いが明らかに違う先生もいて、何度も卑屈になった。だから、菖蒲先生が、二人を対等に扱ってくれたことは素直に嬉しかった。

 桜子と私は、水曜日の放課後、桜子の手作りお菓子を持って職員室を訪ねた。ただでさえ目立つ桜子が、昼休みに屋上で菖蒲先生とお昼を食べていた三年生を刺激しないよう、私が助言した結果だった。桜子の作るクッキーやパウンドケーキ、みたらし団子は、ファンならお金を払ってでも手に入れたかっただろう。菖蒲先生はそんなプレミア付きのお菓子を前に、放課後三人で食べようと提案した。私が遠慮すると、先生は「それなら、これは二人で食べるといいよ」と穏やかに言った。桜子に潤んだ目で懇願され、断ることなどできなかった。私が奇妙な関係に取り込まれ始めたのは、この時だった。

 私達がお菓子を食べていたのは、帰り道の公園だった。二本の道がY字のように交わり、高校の最寄り駅へと続いていた。その二本の道に挟まれた二等辺三角形の土地が公園になっていて、私たちは三角公園と呼んでいた。小さな公園だが、春には桜、梅雨時には濃紺の紫陽花が咲き、秋は金木犀、冬は椿が香った。テラスの下に石造りの椅子とテーブルがあり、そこが私達の定位置になった。桜子のお菓子が、ぱさぱさしていたり、粉がダマになっていたり、甘すぎたことはあった。それでも、放課後になると異常にお腹が空いた私には、美味しかった記憶の方が強い。

 菖蒲先生が、今は恋人をつくる気がないことは、すぐに聞き出せた。その理由は、いくら尋ねても教えてくれなかった。私は桜子のために、先生の好きなタイプや昔の恋愛について尋ねたり、桜子のモテぶりを話題にしてみた。桜子は、見ている私が恥かしくなるほど「好きです」オーラを放っていたので、大人である先生が気付かなかったはずはない。それなのに先生は、恋愛話になると、興味なさそうに口を閉ざし、話題が変わるのを辛抱強く待っていた。それがうまくいかないと、アメリカ英語が世界を席巻する時代に日本の英語教育はどうあるべきか、知識人とはどうあるべきかなどをまくしたて、私達を圧倒した。

 そんな先生を知れば知るほど、私の中で輪郭がぼやけ、遠のいていった。確かなのは、この人の居場所が高校ではないことだった。彼と同じ土俵に立つには、精神的に途轍もなく遠くまでいかなければならない気がした。桜子は大変な人を好きになってしまったと思い、気の毒になった。こんな何を考えているかわからない人に時間を割くより、寄ってくる他校の男子と付き合えば、ずっと楽しい高校生活が送れると思った。それでも、桜子は先生の傍にいたいと言い張り、水曜日のためにお菓子を作り続けた。

 先生の恋愛への無関心を前に、私たちの間でいつしか恋愛ネタは影を潜め、大学のことがよく話題になった。あの頃の私と桜子には、大学は途轍もなく楽しいことが待っている場所に思えた。私と桜子は、どこのキャンパスがきれいか、学食が美味しいか、どこの女子大生がもてるかを話題に、無邪気に盛り上がっていた。

 先生は、そんな私たちに蔑むような眼差しを向け、大学に行きたいなら、本ぐらい読みなさいと諭した。先生は私たちに、夏目漱石『こころ』、武者小路実篤『友情』などの古典と言われる作品や、新書などを読ませて感想を尋ねた。桜子の感想は、天真爛漫な人柄を反映して、高校生らしく純粋でやわらかかった。私と意見が違っても、感情的になって反論することはなく、「瑞穂ちゃん、よく考えてるね」と無邪気に笑っていた。

 そんな桜子が、たった一度だけ、感情を剥き出しにしたことがあった。
精神科医フランクルがナチスの強制収容所での経験をまとめた『夜と霧』の感想を話しているときだった。
 きっかけは、私がふと口にしたことだった。
「これだけ過酷な迫害を受けたユダヤ人だから、イスラエルのように強い国をつくれたんだろうね」
 以前、イスラエルのドキュメンタリー番組を見て、危機意識の高さや、諜報機関モサドの強さが印象に残っていたことから出た何気ない一言だった。
 桜子は形のいい眉をきっと上げ、いつもより低い声で尋ねた。
「ユダヤ人は、ずっとそこに住んでいたアラブ人を追い出して、イスラエルを建国したんだよ。瑞穂ちゃんは、ユダヤ人が彼らを難民にしたことをどう思うの? ずっと迫害されてきたからって、他の人に同じ思いをさせることが正しいと思うの?」
 私が言葉に詰まったのは、答えるだけの知識を持ち合わせていなかったからではない。桜子の糾弾するような眼差しと気迫に、たじろいだからだった。
 桜子はそんな私を一瞥し、先生に突っかかるように尋ねた。
「先生、どうして世界はイスラエルに味方するの? 何で追われたアラブ人のイメージが悪いの?」
「ユダヤ人が世界中に張り巡らせたネットワークが堅固で、イスラエルに不利な情報は、メディアに出ないようにコントロールされているんだ。ただ、僕はそれがいつまでも許されていいと思わない。パレスチナ人の立場から発言している政治家や知識人はたくさんいるし、その声が届いて、誤りはいつか必ず正される。イスラエルで、彼らが共存できる日がくると信じているよ」
「そうですよね。そうならないと、悲しすぎます。あんなに争ったんだから、両方とも武力を放棄して平和に向かいますよ。ヨーロッパみたいに」
 私は彼らが楽観的すぎる気がし、衝動的に口を挟んだ。
「そんなに単純ではないと思います……。イスラエルは、自分たちの権利を譲ろうとしません。イスラエル人もパレスチナ人も納得のいく共存は、国際社会がかなりの後押しをしないと実現しないと思います。イスラエルが、アメリカも、国際世論も味方につけていることを考えると、そういう共存は難しいと思います。結局、何が正しいかじゃなくて、力のある国とか、アメリカを味方につけた国が正義じゃないですか」
「瑞穂ちゃんって、長い物に巻かれるのが好きだね。優等生って感じ」
「何その言い方? 私は現実的に見ただけだけど」
 桜子は気色ばんだ私を見て、ふっと笑った。言い返したいことが喉元に溢れるように殺到したが、先生の前で醜い争いをしたくない思いが勝った。私と桜子は、互いに消化できない感情を鎮めるように、暫く口を開かなかった。
 

 やがて桜子は、納得できないものを押し込めるような笑顔を貼りつけ、「何か熱くなっちゃったね」といつもの穏やかな声で言った。先生は安堵したように、そろそろ帰るかと私達を促し、次は中江兆民『三酔人経綸問答』を読もうと言った。

 私達は、夕闇が三角公園を包み始めるころ、駅に続く道を自転車で帰った。私はこの道を三人で走る時間が好きだった。道の両側には、見渡す限り田圃が広がっていた。田植えが近づいた鏡のような水面に、昇り始めた月が映り、蛙の合唱がやかましかった。そこに先生のバリトン、桜子のソプラノ、私のアルトが重なり、三重奏のようだった。


1-3

 私は、大まかに分ければ、桜子と同じ「頭がいい子」に分類された。だが、私は天才型の桜子と、努力型の自分の差をこれでもかというほど思い知らされていた。桜子は、教科書をぺらぺら見るだけで暗記でき、数学に対する天性のセンスでどんな難問でも解いてしまい、先生たちは舌を巻いていた。

 二人の差は、小テストや中間・期末テストでは、大きく表れなかった。それは私が、睡眠時間を削って英単語や構文、生物用語をひたすら書いて覚え、リングカードで復習していたからだ。数学の公式や古典の活用はトイレに貼って暗記し、問題の解き方を何度もノートに写すことで頭に入れ、辛うじて高得点を得ていた。担任は、そんな私たちの違いに気付いていた。
 

 担任は鈴木先生という30代後半の男性で、菖蒲先生が英語の読解リーダーを担当していたのに対し、文法グラマーを担当していた。脂ぎったいかつい顔は、ぎらぎらした野心そのものだった。とにかく一番が好きな担任は、成績でも、クラス対抗のバレーボール大会でも、自分のクラスがトップになることに情熱を注いでいた。バレーボール大会の決勝でミスをした子は、苛立った担任に悪意のこもった言葉をぶつけられて泣いていた。熱い先生なのでファンが多く、父兄の評判も良かったが、私は彼のそんなところが苦手だった。


 夏休みが明け、ようやく体が学校のリズムにもどった土曜日だった。放課後、私と桜子は夏休みに受けた模試の結果を取りに、職員室へ行った。
 第一志望は、桜子と一緒に、東大と書いてみた。桜子は本気だったが、私は書くだけならただという気楽な気分だった。恐る恐る結果を見ると、C判定だった。Eがつくことも覚悟していたので、有頂天になった。早く帰って、親に成績を見せたくて、そわそわしていた。
「先生、思ったよりよかったです。ありがとうございました」
 先生に頭を下げてから桜子を振り返ると、この世の終わりのような顔で項垂れていた。
「どうしよう……。私、受からないかもしれない……」
 桜子は今にも泣き出しそうな顔で、すがるように私の顔を見た。
「おいおい、この時期に東大がA判定なのは日向だけだぞ」
「でも、順位も偏差値も前の模試より落ちちゃって……。これから、どんどん下がりそうな気がして……。このままじゃ……」
「何言ってんだ。早川はやかわなんか、C判定でも浮かれてるんだぞ。なあ、早川?」
 担任は、私が同意するのは当然という口調で尋ねた。
 できた子なら、「そうだよ。桜子に落ちこまれたら、私の立場ないじゃん」と担任に合わせられただろうが、私はそこまで大人ではなかった。
「日向が受からないなら、早川なんか、かすりもしないよなあ?」
 担任は憮然とする私など意に介さず、桜子を安堵させようと続けた。
「おまえたち二人とも、うちのクラスの順位を上げるのに、大いに貢献してくれている。けどな、日向の可能性は、早川とは大違いなんだぞ」
 

 担任の言ったことは、何一つ間違っていなかった。日々感じていたことが、彼の言葉でくっきりと輪郭をもっただけだ。だが、桜子との違いに苦しんできた私の自尊心を、これ以上ないほど傷つけた。担任を怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、僻んだ女が逆上しても余計惨めになるだけだとわかっていた。

「いいか、日向。おまえがどれだけ、ずば抜けているか教えてやるからな」
 担任はパイプ椅子を持ってきて桜子を座らせ、資料を広げた。


 居た堪れなくなった私は、職員室を飛び出し、階段を速足で駆け下りた。ロッカー室で靴を履き替えると、歪んだ顔を隠すように俯き、大股で自転車置き場に向かった。悔しさが全身を稲妻のように駆け巡り、自転車のサドルをこぶしで何度も叩いた。


「早川」
 後ろから遠慮がちにかけられた低い声に、飛び上がりそうになった。
 振り返ると、アイスブルーのワイシャツに、濃紺のスラックス姿の菖蒲先生が気遣わしげに立っていた。彼も職員室であの会話を聞いていたと思うと、惨めで顔を上げられなかった。
「大丈夫か?」
 私は反射的に頷いた。
「無理するな……」
 この上なく優しい先生の声に、右目から涙が一筋流れてしまった。私がそれを拭うより先に、先生の骨ばった指が私の頬に触れ、すっと拭っていた。
 驚きで全身が硬直した。この人は、こんなことが自然にできる大人の男性だと意識させられた。先生が触れた右頬が、ぼっと熱を帯び、それが全身に広がっていった。
 

 先生は何もなかったように、ポケットに両手を突っ込み、「鯛焼きを食いに行こう」と言った。戸惑う私を残し、先生は自転車をとりに、すたすたと歩いていってしまった。私は桜子のことが気になり、職員室を見上げた。あれこれ考えているうち、先生の深緑色の自転車が、空気を切り裂くような音を立てて、私の前に止まった。

 残暑の厳しい日だった。先生の細い背中を追いながら、三角公園に着くと、まとわりつくような熱気が息苦しかった。額や首筋に汗が吹き出し、制汗スプレーを吹きかけてくればよかったと思った。木々の黒い影が熱気を放つ地面に伸びていた。蝉が残った命を燃やすように鳴いていた。伸び放題の雑草の茂みのなかでは、こおろぎが囁いていた。


 公園の近くに、腰が曲がったおばあちゃんが一人でやっている鯛焼き屋があった。美味しいと噂だったが、買ったことはなかった。先生は私に座っているように言って、鯛焼きを買いに行った。こんな日は、冷たいものが欲しくなるが、どこかずれているところが先生らしかった。


1-4

 戻ってきた先生は、私の向かいに、どさりと腰を下ろした。リュックを背負っていた背中には汗染みが目立ち、石鹸の香りの香水と汗の匂いが混じって漂ってきた。父とも同級生の男子とも違う男の人の匂いに、下腹がかっと熱くなった。先生は白い紙袋に入った鯛焼きと、ブリックパックの烏龍茶をテーブルに置き、熱いうちに食えと促した。

 遠慮がちに鯛焼きを手に取ると、白い紙袋を通して熱が指に伝わった。いただきますと口の中で呟き、頭から一口かじった。熱い粒あんが、ふんわりと口の中に広がった。舌の上で広がる素朴な甘さが、ささくれ立っていた神経を撫でてくれた。鯛焼きをこんなに美味しいと思ったのは初めてだった。舌を火傷するのも気にせず、額に浮き出る汗を感じながら、ぱくぱく食べた。先生は旺盛な食欲を見せた私に安堵したのか、自分も大口で頬張った。先生は鯛焼きを尻尾から食べると知った。

 生温かい風が出てきて、背中の汗を乾かした。駅に続く道を、同じ制服の子たちが自転車で走り抜けていった。少し落ち着いた私は、急に襲ってきた恥かしさをうやむやにしようと、乱暴に烏龍茶を飲みほした。きんきんに冷えた烏龍茶は、火傷した舌にしみた。ストローで残り少ない中身を吸い上げる、ずずずという音が派手に出てしまって首をすくめた。先生をちらりと窺うと、紺色のバーバリー柄のハンカチで、首筋と額の汗を拭っていた。

 ようやく頭が冷えてくると、先生の優しさが心にしみた。あのまま帰っていたら、家に帰って大泣きしただろう。桜子と一緒にいるのが耐えられず、月曜日に学校に行けなかったかもしれない。
「先生、ありがとうございました。気を遣っていただいて、すみません……」
 先生は食べ終えた鯛焼きの袋を手の中で丸めながら言った。
「鈴木先生が言ったことは気にするな」
 私は複雑な思いで頷いた。気遣ってくれるのは嬉しかったが、鈴木先生の言ったことは本当だ。桜子と一緒にいるかぎり、事あるごとに違いを思い知らされ続けるだろう。

「このまま堅実に頑張れば、最後に勝つのは早川だ」

 意味がわからないまま、先生の色素の薄い目を見返した。意外と長い睫毛に、木漏れ日が落ちていた。先生は蚊に刺された腕を気にしながら、穏やかな声で話し出した。
「僕は早川より少しだけ長く生きて、いろんなものを見てきた……。日向のような天才もたくさん見た。本当に敵わないんだよな」
「桜子はすごいです。写真を撮るように、教科書に載っていることを覚えちゃって……。だから、映画をたくさん見ても、ファッション誌をたくさん読んでも、徹夜で漫画を読んでも成績がいいんです。私なんか、書いたり、壁に張ったりして、寝る時間を削って覚えてるのに、テストのときには忘れていたりして。脳の違いって、本当に不公平です!」

 誰にも言えなかったやるせない思いが、こぼれるように口をついた。
「日向みたいな奴はたくさんいたよ。でも、ほとんどは落ちぶれていった。高校の勉強は、中学とは較べものにならないほど情報量が多い。彼らでも、手に負えなくなる可能性が高い。彼らの多くは、こつこつ努力した経験が少ないから、自分なりの覚え方が確立できていない。だから、どうしたらいいかわからなくなる」
「本当にそうなるんですか……?」
「そういう奴は多かった。中学までは神童って言われていたのに、高校で成績が落ちて、希望より随分下のところに行った奴はたくさんいた。結局、最後に勝つのは、地道に努力した者だ。だから、早川はこのまま頑張れ」
 胸を塞いでいたやりきれなさが、すとんと落ちたような解放感があった。
「絶対に腐ったり、やけになったりするなよ」
 私は強く頷いた。今までの自分を肯定された安堵感が、じわじわと全身を満たしていった。

 先生は思いついたように言い継いだ。
「さっき、職員室で、日向が不安だって言ってたな。彼女は、今までのやり方では、通用しないことに気が付いている。いま、苦しいはずだ……。まあ、彼女なら、今から勉強方法を建て直せるだろうが」
 先生が桜子のことを考えていることに、激しい嫉妬が全身を貫いた。
 

 立ちあがった先生は、公園を出て田圃に歩いていくと、稲を一本引き抜いてきた。穂をもてあそびながら、先生は鼻歌を歌い始めた。
「何の歌ですか? 聴いたことがあるような……」
「ベートーヴェンの田園」
 先生は黙って田圃を指さした。黄金色に実った穂がしなり、風にそよいでいた。もうすぐ稲刈りだと思った。子供の頃、弟と一緒に、稲を食べて動きが鈍くなったいなご飛蝗ばったを捕まえた記憶が胸をかすった。
「僕の実家は岩手の農家なんだ。宮沢賢治の故郷が近くて、彼の童話を読んで育った。賢治は無類の音楽好きで、特にベートーヴェンの田園を愛した」
「先生のそういう話、初めて聞きました」
 かすかに目を細めた横顔を見ると、少しだけ先生を近くに感じた。
「この時期の稲穂は、水をたっぷり含んでいる。だから、新米を炊くときは水を少なめにするな」
 母が炊きたての新米で作ってくれた塩にぎりの味が思い出された。
「瑞々しい稲穂は、頭を垂れて台風をやり過ごして、また頭をもたげることがある。僕の父は、そんな稲のように強くなれと、僕を瑞人みずとと名付けた」


 先生は私に向き直り、持っていた稲穂を私に渡した。
「早川のご両親も、そんな思いを込めて瑞穂みずほと名付けたんじゃないか?」
「考えたことなかったです……。めずらしくもない名前だし」
「僕は、早川は、稲穂のようにしなやかな強さを持つ女性だと思う。これからも、そうあってくれると信じている」

 たった一言で恋に落ちてしまった桜子の気持ちが、このとき初めてわかった。

「だったら……」
 反射的に口を開いた私は、すがりつくように先生を見た。
「これからは……、私を、な、名前で呼んでください!」

 先生は軽く眉根を寄せたが、「帰ろうか、瑞穂」とぼそりと言った。
 体の芯に点火されたように、全身が熱くなった。桜子のことは、完全に頭から抜け落ちていた。


1-5

 私の菖蒲先生への恋心が絡んだことで、三人の関係は複雑になった。正確に言えば、私のなかでだけ、複雑になったのかもしれない。

 私の全身は、高感度のセンサーのように、菖蒲先生に反応した。先生が教室に入ってくると心臓は皮膚を突き破りそうな速さで打ち始め、目は一心にその姿を追った。低く理知的な声は、教室が騒がしくても、マイクを通したようにくっきりと耳に届いた。品がいい英語の発音を聞くと、胸がきゅっとした。瑞穂と呼ばれれば、全身の血が全速力で駆け巡り、どんなに気持ちが沈んでいても笑顔になれた。先生が他の生徒と言葉を交わす度に、燃えるような嫉妬を覚えた。恋心をむき出しにした桜子の言動は、とりわけ神経を逆撫でした。私は、以前は気にも留めなかった先生の一挙手一投足に翻弄されるようになっていた。

 あの日から、先生は私だけではなく、桜子も名前で呼ぶようになった。そのとき、はっきりとわかった。先生は決して、どちらか一人と仲良くしない。私も桜子も、先生との距離は対等なのだ。

 二人が一緒にいられなくなれば、先生との関係も壊れてしまう。だから、私は桜子に気持ちを気づかれないように細心の注意を払った。

 それは簡単ではなかった。桜子と私は、先生が渡り廊下を通る授業のあいだの休み時間に、手を振るためにベランダに出ると決めていた。私の目は、職員室に戻る細い背中を瞬時に見つけてしまう。それは桜子も同じで、私は桜子と視線が重ならないように、目を伏せるのが癖になった。桜子が「菖蒲先生~!」と無邪気に叫ぶと、先生はさっと右手を上げて答えてくれた。先生の憂いを帯びた眼差しを見れば、頬がぼっと熱を帯びてしまう。だから、私は目を伏せ続けた。

 桜子との帰り道、稲刈りが終わってしまったのに気付くと、鼻の奥がつんとし、目頭が熱くなった。桜子に気付かれまいと、自転車をこぎながら空を仰いだ。鱗雲が浮かぶ空が悲しいほど美しく、余計に泣きたくなった。

 スーパーに旬の林檎が並ぶと、桜子はアップルパイを焼いてきた。先生は、それが気に入り、「すごい美味いよ」と絶賛した。桜子は「本当ですかあ」と頬を染め、蕩けそうな顔をした。私なら、具から水が出ないように工夫して焼けると言いたかったが、腹のなかに飲み込んだ。先生が好きだという素振りを微塵も見せず、居心地のいい空気をつくることに心を砕いた。それが、先生の傍にいられる唯一の方法だとわかっていたからだ。

 私はショートだった髪を伸ばし、ダイエットを開始し、毎朝石鹸の香りのフレグランスを吹きかけるようになった。勉強にも力が入った。相変わらず、桜子には敵わなかった。だが、以前ほど思い詰めなくなったのは、先生のおかげだった。私が腐らないで頑張るのは、先生との約束だと信じていた。私の成績が上がれば、先生は喜んでくれる、好きになってくれるかもしれないと期待した。先生が私を好きになってしまえば、桜子も文句を言えまい。そんな妄想が行き場のない心を支えていた。

 三角公園の銀杏の葉がひらひらと舞い落ちる頃、私の髪は、後ろで束ねられるくらいに伸びていた。剛くてボリュームのある髪は、桜子の髪のようにさらさらと風になびかなかった。体重は3キロだけ落ちたが、私の変化に気付いた人は誰もいなかった。

 南東の空に、冬の大三角が瞬くころ、私たちは駅の待合室でお菓子を食べることにした。暖房の効いた待合室は人目が気になったが、週に一度、三人でお菓子を食べながら話しているだけなので、特に噂になることもなかった。

 クリスマスに、桜子はグレイの毛糸でマフラーを編んで、先生に贈った。桜子に遠慮し、プレゼントを渡さなかった私は、やり切れない思いを吐き出すように、毛先と前髪に内巻きパーマをかけた。少しだけ、顔全体が華やかになったのが嬉しかった。先生は私と桜子に、サイゼリアで海老ドリアをご馳走してくれた。

 バレンタインには、桜子の家で一緒にチョコレートを作り、ラッピングして、それぞれ先生に渡した。先生からは、二人に同じクッキーの詰め合わせが返ってきた。そのことは、もどかしくもあったが、救いでもあった。

 何一つ桜子に勝てるものがない私でも、先生との距離だけは対等だと確認させてくれたからだ。
 

 桜子の成績が下がり始めたのは、一年の終わり頃だった。期末テストの順位が下がり、私との差が縮まった。桜子は休み時間に教科書を広げるようになり、思い詰めた顔で勉強していた。そんな桜子を見て、先生の洞察力に驚愕した。彼が11歳も年上で、決して対等になれないことを思い知らされた。


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