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ピアノを拭く人 第2章 (6)

「透、お客様がいなくても、勤務中だ」

 羽生が、いつになく険しい声で言い放った。透は入口の前に立ち尽くし、荒い息を吐いている。
 

 羽生は老女のコーヒーカップを片付け、大股でカウンターの裏に入っていった。

 彩子は険悪な空気をどうにかしなくてはと頭をめぐらせた。

「透さん、クリスマスソング、聴かせてくれる?」
 彩子は透の背中にそっと手をまわし、ピアノの前に導いた。
 椅子に座らせ、「終わったら、話聞くから」と耳元で囁き、優しく背中をさすった。
 心ここにあらずでも、透が「ホワイト・クリスマス」を弾き始めたことに胸を撫でおろした。
 透の奏でるホワイト・クリスマスは、甘い色気を漂わせながらも、真冬の透きとおった空気に染みわたっていくような清らかさもある。


「羽生さん、パンケーキまだですか?」
 カウンター席に戻った彩子は、苛立ちをにじませる羽生の背中に、つとめて明るく声を掛けた。
「ごめんね。だめにしちゃったよ」
 羽生は焦げたパンケーキを皿に出し、新しい材料をボールに入れ、泡だて器でせかせかと混ぜ始めた。

 彩子は羽生の苛立ちと失望が痛いほどわかった。ようやく、透が病院に行き、事態が好転すると期待していただけに、以前と変わらない症状を目の当たりにさせられたショックは大きかったに違いない。
 彩子は、いまの透は、ギアチェンジのできない車なのだと自分に言い聞かせた。彼は根気強くエクスポージャーを続け、脳のオートマチック・トランスミッションを回復させなければならない。彩子は、それを羽生に説明し、一緒に辛抱強く透の回復を支えようと決意を新たにした。



 フェルセンが閉店した後、彩子はピアノを拭き終えた透を自分の車の助手席に座らせた。からっ風が電線を渡る音が、いつもよりくっきりと耳に届く。
「今日はエクスポージャー頑張ったね。気になったことがあっても、藤岡さんに謝らなかった。クリスマスソングも、すごく素敵だったよ」
 透は憮然とした面持ちで体を固くしている。
「そう言えば、桐生先生の宿題が上手くいったときのご褒美、まだ決めてなかったよね。何にする? あ、もう決めたのかな?」

「我慢した先に何があるんだ……?」透が、ぞっとするほど低い声で吐き捨てた言葉は、塊のようにぼとりと落ちた。
「え?」
「気になることをそのままにするエクスポージャーの先に、何があるんだ?」
「時間が経つにつれて、不安が弱まっていって、強迫行為をしなくても大丈夫だということが学べるんじゃないの? 強迫行為をして一時的な安心感を得ると、次も同じようにしたくなる。それを続けていたら、強迫観念と強迫行為のループから永遠に脱出できなくなるよ。透さん、手紙を書いて一時的に安心しても、また次の観念に襲われるって言ってたよね」

「大丈夫になるのに、どれくらいの時間が必要なんだ? 俺は、何か月も、何年も気になることを抱えてるんだよ! 俺の気になるっていう思いはコントロールできないほど強いんだ。危篤の母の枕元で、母が死ぬことを悲しむよりも、さっき話した看護師と話すタイミングが被ってしまったことが気になって、彼女を探して謝ってすっきりすることを考えていたほどだ」
 彩子はどう返していいかわからず、息苦しいほどの沈黙が車内を支配した。

「怖いんだよ……」
 透は窓の外に視線を移し、かすれた声で呟いた。
「以前、些細なことが何か月も何か月も気になって、それを抱えて明日を生きることさえ怖くなって、死にたくなるほど追い詰められた。また、そういう状態になったらと考えると、ERPに挑戦する意味があるのかと思えてきて、強迫行為をしてすっきりするほうに走ってしまう……。俺がADHDで、衝動性が強くて、せっかちなせいかもしれないけど」

 彩子は運転席から身を乗り出し、透の右手に自分の右手をそっと重ねた。透の手の甲は、ピアノを弾いているせいか、しっかりした筋肉がついている。
「今はそのときと同じじゃないよ。透さんは病院に行ってるし、お薬も飲んでる。赤城先生も桐生先生もついてるし、羽生さんも私もいる。明後日から入院でしょ。先生方を信じて、頑張ってみようよ」


 彩子は透が抱える不安の100分の1でも自分が背負えればと願いながら、彼を抱擁した。
「退院したら、私がご飯作るから、うちで一緒に食べよう」


「彩子、◎が10個ついたら、定食メニューみたいな和食を作ってくれないか?」
「いいよ。私、こう見えて、結構料理上手いんだよ」

 彩子は、背中に感じる透の長い指の感触に身を委ねた。