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連載小説「クラリセージの調べ」5-4

 ベランダに下げた風鈴のが夜風に流れる。涼やかな音を聞くと、夫に裕美の言動を報告しようと意気込む気持ちが少しだけ鎮まっていく。

 我が家の冷やし中華は、具を自分で選んで乗せる。錦糸卵、きゅうり、貝割れ大根、トマト、焼き豚、きくらげが乗った大皿をテーブルの中央に出す。

「来月から、絹姉ちゃんが里帰り出産で帰ってくるよ。皇太郎も一緒」

 夫は好物の錦糸卵と貝割れ大根をたっぷり乗せながら、顔をほころばせる。

「もう、そんな時期……」
 想像しただけで、飲み込んだばかりの酸味のあるタレが逆流してくる。

「ああ。予定日は8月だけど、産休に入ったら、早めにこっちに来るらしい。産まれるのは男の子だって」

「絹さんがこっちに来てしまうと、やまとさんは大変だね。同居しているお義母さんは家事もままならないんでしょう?」

「そうらしいな。でも、皇太郎をこっちに連れてくれば、自分と親のことぐらいできるだろ? 姉ちゃんも、たまには様子見にいくだろうし」

「そうだね。皇太郎くんにとっては、お母さんを独り占めできる貴重な期間になるね」

「確かにそうだな。俺は物心ついたときから、姉ちゃん二人がいたけど、皇太郎は今まで一人っ子のように育ってきたからな」

 夫は思い出したように言い添える。
「前に、絹姉ちゃんが出産で入院してる間、夜は皇太郎をうちで預かることにしたよな。できるだけ、澪に迷惑かけないようにするけど、俺では行き届かない部分はサポートを頼む。子供ができたときの練習だと思えばいい」

「いいけど……、基本的には結翔くんが面倒見てね」

「任せとけ」
 夫は皿に残っていた麺の残りを豪快にすする。

「麺、おかわりする?」

「頼む」

 麺の皿を受け取りながら、夫は弾んだ声で言う。
「コロナも落ち着いたし、今年の夏休みは賑やかになりそうだな」

「賑やか?」

「うん。ここ数年はコロナで自粛してたけど、うちは夏休みに姉ちゃんたちが家族で泊まりに来て、わいわいやるのが恒例なんだ。今年はようやく解禁だ。おやじとおふくろも張り切ってるよ」

「楽しそうだね……」

「うん。俺たちが子供の頃も、夏休みは従弟いとこたちがうちに泊まりにきた。草野球、蝉取り、花火、夏祭り、ナイターのテレビ観戦とか、楽しかったな。近所の子が混ざるときもあった。
 皇太郎と悠も、夏休み中も親は仕事だから、うちで楽しい思い出をたくさん作ってやりたい。澪も母屋で姉ちゃんたちと楽しくやるといい。大人数で食事の支度とか大変だから、澪がいると助かると思うよ」

「そうだね。でも、お義姉さんたちも水入らずのほうがいいと思うし、私はどうしてもお手伝いが必要なときだけにしようかな……」

 この夏は看護学校の入試に向け、苦手な数学を復習したい。
 臨月の絹さんは無理は禁物なので、紬さんと私が、子供の世話や食事の準備に奔走するのは目に見えている。紬さんには悪いが、嫌味を浴びながら、こき使われるのは御免蒙ごめんこうむりたい。

 夫の黒々とした瞳が冷たい光を帯びる。
「水入らずって、澪は家族だろ。どうして、自分から距離をとるんだよ」

「絹さんに子供が生まれるし、どうしても子供の話題になるでしょう。私がいると、みんな気を遣うと思うから」

「縮こまっているから、腫れ物に触るようになってしまうんだよ。わいわいやってれば大丈夫だって。それに、俺たちだって、胚がたくさん凍結できたんだから、すぐにできるよ」

 物事を楽観的に捉えられるのは彼の美点だ。だが、今の私には思いやりに欠ける発言にしか聞こえない。

「そのことだけど」
 私は箸を置いて夫を見つめる。
「私、移植する気持ちになれない」

 夫の瞳に戸惑いとかすかなおびえがちらつく。
「どうして……」

「今日、モールの駐車場で裕美さんと偶然会って、お茶に誘われたの。そのときの会話を録音したから聞いてみて」

 テーブルの上に置かれたスマホから、スターバックスでの会話が流れる。夫は会話の進行とともに色を失い、空気が凍り付いていく。

「また無断で録音したのか。あの医者の差し金かよ。もう、縁切ったほうがいいんじゃないか? じいちゃんのところに来るのも止めてもらおう」

「すずくんは関係ないでしょう。問題をすり替えないで」

 唇の端を震わせる夫に冷めた視線を投げ、思いの丈を吐き出す。
「今まで、結翔くんは、お義母さんたちから私を守ってくれたよね。だから、結翔くんと結婚して本当に良かったと思ってきた。大変なことはあっても、結翔くんが私の側についてくれるなら頑張れる気がした。
 今日、彼女から直接話を聞いて、今までの結翔くんの言動の一つ一つに彼女の息がかかっているとわかって、記憶が塗り替えられた……。これからも、私たちの生活に彼女が関わってくると思うと、子供をつくってやっていけると思えない」

「前にも言ったけどっ、俺は澪とうまくやりたかった。だけど、俺は女性の気持ちがわからないから、俺を一番良く知る彼女にアドバイスをもらった。 実際、いま澪が言ったように、彼女の言う通りにしたら上手くいってただろ? 何度も繰り返すけど、俺にとって何よりも大切なのは澪と築く家庭だ」

「私と家庭を築くのが一番大事なら、子供がいなくてもいいんじゃない? 夫婦二人でも家庭は築けるし、そういう家庭は星の数ほどある。私の親友も子供を持たないと決めて幸せに暮らしてるよ。
 結局、結翔くんは、男の子をつくって市川家を守る長男の役割が一番大事なんだよ」

 だから、最愛の裕美さんを守れなかったんだよという言葉は胸にしまう。

「長男がどうということよりも、俺は子供が好きだから欲しい。それだけなんだ! 本当のことを言えば、澪の前にも何人か見合いをさせられた。だけど、この女性と子供を育てたいと思えたのは澪だけなんだよ」

「ごめん。今は、結翔くんの子供が欲しいとは思えない。だから、今期の移植はできません」

「何でだよ! 今まで、二人でいろいろ乗り越えて、頑張ってきたじゃないか。それを全部、無駄にするっていうのか? 
 なあ、考え直してくれないか? 俺は、じいちゃんに子供を抱かせてやりたいんだ」

 おじいちゃんのことを言われると胸が痛む。だが、今の気持ちで新しい生命に心を傾けられるとは到底思えない。

「女性はお腹で子供を守り育てて、命がけで産んで、途轍もない時間と労力とお金をかけて、育てていくの。
 今の気持ちのままでは、それに向かうエネルギーが湧いてこない。気持ちに蓋をして出産したとしても、母親がそんな気持ちでいるのは子供に申し訳ないと思う」

「澪の気持ちもわかるよ。彼女のことは本当に悪かったと思う。
 でも、凍結した胚は、澪だけではなくて、俺の精子がなければできなかったんだから、俺の気持ちも尊重してくれていいんじゃないか? 
 それに、親父もおふくろも、じいちゃんも子供を待ち望んでいる。治療費も出してくれた。澪のご両親だって楽しみにしてるだろ? そうした人たちの思いを無視して、移植しないなんて言えるのか?」

「さっき、あなたにとって、何よりも大切なのは私と築く家庭と言ったよね。それなら、どうして、身体を危険にさらす私の意思を尊重してくれないの? 結局、あなたは、私を子供を産む道具としてしか見ていない」

「誰がそんなこと言った。話にならねーよ!」

 夫は二階に上がり、身の回りのものを持つと、肩を怒らせて母屋に行ってしまった。いい歳をして、親離れできない男という冷ややかな気持ちしか湧いてこない。

       
  
 一時間半ほどして、凄まじい形相で乗り込んできた義父母をリビングに通す。

 義父はいつものねっとりした視線を封印し、厳しい面持ちで切り出す。
「澪さん、夜分遅く悪いね。大切なことだから、今夜中に話をしたくてね」

 義父が話し終えるのを待ち切れないかのように、義母が弾丸のようにまくしたてる。
「あなた、胚移植を見送るなんて、どういうつもりなのっ? 散々お金をかけてここまできて、年齢的なリミットも迫っているというのに。妊娠率は35歳を境に大きく落ちるんだから、悠長なことを言ってる余裕なんて一刻もないのよ。胚を凍結しておくのだってタダじゃないんだから」

「子供のことは、夫婦で話し合うべき問題です。いい歳をして、夫婦の話し合いを放棄してご両親に頼る結翔さんにはがっかりしました」

「結翔は、心を尽くして話したのに、あなたが譲歩してくれないと言ってたよ。大変な思いをしてできた胚を戻したくないなんて、少し自分勝手じゃないか?」

「結翔さんが、結婚生活へのアドバイスをもらうことを口実に、いつまでも元彼女の裕美さんと会っているので、私の気持ちが折れてしまったのが理由です。私が彼女に、もう夫と会わないでほしいと言ったときも、それはできないと言われました。その時の会話は録音してあります。
 ご存知だと思いますが、姙娠、出産、育児は命懸けです。結翔さんとの信頼関係が壊れた状況では、それに向かう気持ちが湧きません」

「あの女とは、私が縁を切らせるわ。でも、元はと言えば、あなたと上手くやりたいからしていたことでしょう。そのくらい、容認してやりなさいよ。時代錯誤な話だけど、昔の女は夫が外で好き勝手していても、子供を育てて家庭を守ってきたの。多少の我慢もできないと、家は守れないのよ」

「そうだよ。結翔はあなたが一番好きなんだから、大きく構えていればいいんだ」

「繰り返しになりますが、夫婦の問題は、結翔さんと話し合って答えを出します。お義父さんとお義母さんにお願いしたいのは、結翔さんがお二人や元彼女に頼らず、私と話し合うようお伝えいただき、私たちを見守ってくださることです。
 念のため申し上げますが、裕美さんは、お腹に赤ちゃんがいます。彼女の身体にストレスを与えないように、一切接触しないで下さい。常識で考えれば、30半ばの息子のために親が出ていくなど、ありえないと思いますが」

「子供もできないくせに、権利だけは主張するのね。こんな嫁と一緒にいたら、結翔が逃げ出したくなるのもわかるわ。仕事にも障るだろうから、結翔は暫くうちに居させるわ」

「かしこまりました」

 ベランダで夜風にあたりながら、これから夫と私はどうなるのかと考えると、不安で崩れ落ちそうになる。凍結された胚は、私のお腹に戻される日がくるのだろうか。月の見えない空は吸い込まれそうなほど暗く、孤独を深めていく。