見出し画像

ピアノを拭く人 第3章 (9)

 桐生のカウンセリング室の『睡蓮』は、今日も優しく2人を迎えてくれる。
「お店でのお客様への対応、シンプルにできるようになったんですね。頑張りましたね」
 透が提出した表に目を落としていた桐生は、感慨のこもった眼差しを透に向けた。
「ええ。いま、店の経営が厳しいんです。僕が変な対応をして、お客様が気持ち悪がって来なくなってしまうのはまずいと思いました。僕が働ける場所は他にないので、潰すわけにいかないんです」
「素晴らしいです。水沢さんから見て、どうですか?」
「私が見た限りですが、以前と比べると良くなりました。いつも彼を見ている店のマスターも、お客様に感謝と謝罪を繰り返して、困惑させなくなったと安心しています」
 桐生は満足そうに頷いた。

「ええと……、赤城先生の診察で、買い物で苦労していると相談したんですね。気になることが出てきたら、それを増やしてみることにしたのですね。その後、いかがですか?」
 桐生は電子カルテを参照しながら尋ねた。
「はい。最後に店員さんに『ありがとうございました』と伝えたとき、声が重なってしまったなど、気になることが出てきたときは、別の店でも同じことをしようと思ったのですが……。店員さんのやり方は、それぞれ違うし、レジの込み具合など自分ではコントロールできない要素が出てきたりで、同じ状況を作るのが難しいんです。今度こそと思って、何度も挑戦するのですが……。買い物を繰り返しているうち、焦って商品を逆向きに出してしまうなど、別の気になることが出てきてしまうこともありました。幸運にも、同じ状況が作れても、何回作れば気にならなくなるのかわからなくなって……。結局、際限なく買い物を繰り返してしまいました」
「実は、強迫の患者さんが、似た状況に陥ってしまうことはよくあるんです。広げているうちに、どこまで広げればいいのかと止まらなくなってしまうことがあるんです」
「そうなんですか……」

「吉井さんは、どうしたらうまくいくと思いますか?」
「はい。彼女が考えてくれたのですが。コロナ禍で、僕が何度も買い物をして、店員さんにしつこく御礼や御詫びを言うと、マスクをしていても飛沫を飛ばして、店員さんに迷惑をかけますよね。僕の声は、必死になっているとき、大きくなっているようで、余計に飛沫を飛ばしています。それを意識すれば、強迫行為を止められるかもしれません」
「それ、いいですね! 吉井さんの加害恐怖を利用しているのが創造的です。コロナ禍をエクスポージャーに良い方向に生かしているのもナイスです。コロナ禍で、強迫の症状が悪化してしまう患者さんもいるのに、プラスに利用していて素晴らしいです」
 褒められた透と彩子は、思わず顔を見合わせて微笑み合った。
「お2人は、ERPに理想的なコンビですね」
「いえ、私、彼の強迫に、冷淡すぎると思うんです。彼が呻吟しているのに、強迫行為に走るのを絶対に認めないし」
「それでいいんです。苦しむ患者さんを前に、強迫行為を許さないのは、強い意志が必要です。患者さんに同情して、強迫行為を手伝ってしまうご家族も多いんです。例えば、不潔恐怖の患者さんのご家族が、手洗いのためのハンドソープを患者さんに渡さないと決めていても、懇願されると、かわいそうになって渡してしまうんです。お辛いと思いますが、水沢さんはそのまま頑張ってください」                        「ありがとうございます。これでいいんですね。頑張ります」


 
「さて、水沢方式の他に、私から別の方法を2つ提案しておきます。もしも、水沢方式がうまくいかなかったら、試してみてください。引き出しはたくさん持っておいたほうがいいですからね」
 透と彩子は、同時に頷いた。
「1つ目は、吉井さんが理想とする方法を崩すエクスポージャーです。まず、吉井さんの理想の買い物を再現してみましょう。私が店員さんの役をしますね」

店員  いらっしゃいませ。
   (文字を店員のほうに向けて商品を出して)お願いします。
店員  (商品をスキャン)1000円になります。このままでよろしいですか?
   大丈夫です。ありがとうございます。
店員  かしこまりました。お支払いはどうなさいますか?
   Suicaでお願いします。
店員  Suicaですね。タッチをお願いします。
   (タッチして)ありがとうございます。
店員  レシートのお返しになります。
   (レシートを受け取る)ありがとうございます。
店員  ありがとうございました。
   ありがとうございました。

「先程のお話だと、吉井さんの気になることが出たのは、最後の『ありがとうございました』ですよね。ここを、①『どうも』、②会釈のみ、③何も言わないなどに変えてみてはどうですか?」
「そんな、失礼なことできません……」
「挑戦してみましょう。そもそも、お客様に感謝するのは店員さんで、吉井さんはお客様なのですから、大きく構えてください」
「『ありがとうございます』が多すぎませんか?」彩子が口を挟んだ。
 桐生が苦笑いしながら頷く。
「水沢さんもアイディアを出して、吉井さんが理想とするパターンをどんどん崩してください。入院で挑戦したように、わざと汚れた紙幣や硬貨で支払うのもいいですね。ひどく失礼なことをしてしまえば、気になることが出てきても、あんな失礼なことをやってしまったのだから、今更気にすることはないと思えますよ」


「2つ目は、もし強迫行為をしてしまったら、罰ゲームのような課題を加えることです。例えば、買い物で気になったことを放置できずに、やり直してしまったら、寝る前にハイスクワットを100回やるなど、吉井さんが大変だと思うことを加えてください」
「それって、やらないで済ませてしまいませんか?」彩子は尋ねた。
「強迫の方は、思ったより真面目に取り組んでくれるかもしれません。ご家族やパートナーに、きちんとやっているかチェックしてもらうのが理想ですね」
「なるほど。私が見張っていればいいんですね」
 透は戦々恐々として、マスクの中で溜息をついた。

 桐生は時計に目を遣り、前回と同じ表を取り出した。
「次のカウンセリングまでに、買い物に関する課題を考えて、達成度に応じて◎、〇、△を付け、そのときの気持ちを記入してきてください。達成できたときのご褒美も、忘れずに記入してくださいね」
「かしこまりました」


「さて、残りの時間で、吉井さんは病院の前のコンビニに行って、理想の方法を崩して買い物をし、水沢方式がうまくいくか試してみましょう。今回は、最後の『ありがとうございました』を会釈のみに変えましょう。気になって、買い物をやり直してしまったら、買った商品を別の商品に交換してもらう罰ゲームが待っています。私と水沢さんも、一緒に行って見ています」
「私も行っていいんですか? 楽しみです! 成功したら、今夜は彼の好きな鳥のから揚げを作ります」
「出ましたね、達成報酬」

 桐生と彩子は、蒼い顔をした透の背中を押してコンビニに向かった。
「何を買えばいいですか?」
 透が全身に不安をにじませて桐生に尋ねた。
「そうですね……。店員さんに手間をかけて取ってもらうおでんとか、チキンとかのホットフードが理想ですね」
「勘弁してくださいよ。おでんやチキンの匂いのする袋を持って、病院に戻るんですか?」
「それも、迷惑なことをするエクスポージャーですが。まあ、今回は何でもいいことにしましょうか」
 透は胸を撫でおろし、温かい十六茶を手にレジへ向かった。


「いらっしゃいませ」
「お願いします」
「124円になります。このままでいいですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます。Suicaでお願いします」
「タッチをお願いします」
 透はタッチを済ませ、ありがとうございますと丁寧に言った。
「レシートです」
「ありがとうございます」
「ありがとうございました。また、お越しくださいませ」
 透は店員に会釈のみをして、レジを離れた。
 彩子と桐生は、顔を見合わせ、何度も頷き合った。


「できたね! さあ、病院に戻ろう」
 彩子は透の背中を押して店を出た。彼が店内に戻らなければ成功だ。
「吉井さん、すごいじゃないですか! 今日はから揚げが食べられますね。いま、胸はどんな感覚ですか?」
「心臓ばくばくですよ。全身にぞわぞわ感が走ってます」
「それをしっかり感じてください。いま、どんな音が聞こえますか?」
「先生と彼女の靴音です」
「他には?」
「車の音と、木枯らしが吹く音です」
「今、木枯らしは、どの方向に吹いていますか?」
「背中を押されています」
「そうですね。では、左の看板に何が書いてありますか?」
「『駐車場内でのアイドリングはお控えください』です」
 彩子は、桐生の言動を興味深く観察していた。自分のように、強迫行為をするなと懇願するだけではなく、こうしていま起っていることに注意を向けるマインドフルネスを初めて目の当たりにした。彩子は今日のカウンセリングに立ち合えてよかったと心から思った。

 

 カウンセリング室に戻ったとき、透はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「水沢さん、吉井さんが帰りに、あのコンビニに戻らないように見守ってくださいね」
「はい。任せてください! 戻ったら、その十六茶を別の商品に交換させますから。もう、少し冷めているし、コンビニにはすごく迷惑ですよね」
「頼もしいです。次は来年ですね。お2人とも、よいお年をお迎えください」
「はい、先生もよいお年をお迎えください。来年も宜しくお願いします。今日はありがとうございました」
 透と彩子は、桐生に丁寧にお礼を言ってカウンセリング室を出た。
 

 透は言い足りなかったようで、カウンセリング室に戻ろうと踵を返した。
「吉井さん、そのまま帰ってください」
 透はドアの前に立ちはだかった桐生に制され、「ありがとうございました」と深々と頭を下げると、彩子に急き立てられながら廊下を歩きだした。