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コラボ小説「ピンポンマムの約束」3

 本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。

※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


 カウンセリングの日は、朝から緊張していた。胃の辺りが気持ち悪くて、朝ごはんは牛乳とデザートしか喉を通らず、年配の看護師さんと若い看護助手さんに心配された。優しくされると、ぞわぞわが出てきてしまい、ベッドの中で海老のようになっていた。

 ベッドからはい出すと、白いシーツに、ブラインドの隙間からもれる光の筋ができていた。窓から注ぐ日が目を射す。桜が散り、青々と茂る若葉がまぶしい。うぐいすがきれいな声で歌っている。廊下を闊歩する医者や看護師の足音が聞こえる。世界は止まることなく進んでいる。あたしだけが、切り離されている。あたしの魂はあの世とつながり、身体だけとどまっている気がしてくる。

 昨日、頭に浮かんでくる嫌な考えをちょっと話しただけで、取り乱して大泣きするほどしんどかった。ERPというのは、もっと辛いに違いない。流れでやると言ってしまったけど……。もし治っても、あたしが生きていたら、また誰かを不幸にする。今だって、ゆっくり療養できるようにと個室に入れてもらっていて、父さんに金銭的な負担をかけている。治療で入院が長引けば、もっと負担をかける。あたしには、そこまでして生きる価値なんてないのに……。

 けど、このままだと、頭に次々と浮かんでくる変な考えに一日中苦しめられ、何もできずに寝ている日々が続く。そして、心身共に耐えられなくなって、手首を切る。その繰り返しだ。今度は首を吊ろうか。うまくいくだろうか。また未遂は嫌だ。もう疲れた。

 ほんの少しでも、楽になれるなら治療を頑張るしかないのかな……。

 心が決まらないまま、持ってくるよう言われたスマホと、どうせ泣くだろうからハンドタオルを持って病室を出た。カウンセリング室をノックすると、ラルフローレンのシャツを着た米田先生が迎えてくれた。胸ポケットから加熱式たばこのケースがのぞいている。

 海宝さんは、他の患者さんのケアが長引いたらしく、時間ギリギリに飛び込んできた。

 机を挟んで私の正面に米田心理士が座った。体が大きく筋肉質なので、向かい合って座ると結構圧迫感がある。海宝さんは、窓際の小さな机にラップトップを置き、パイプ椅子に座わった。

「改めまして、米田です。宜しく」
 米田先生の血色のよい肌、薄くなった頭頂部まで日焼けしているのを見ると、スポーツマンなのだろうと思った。机上には、半分ほど空になった1.5リットルの水のペットボトルが、でんと置かれている。

 あたしは、口の中で「宜しくお願いします」と言い、小さく頭を下げる。

 先生はあたしに質問がたくさん並んだシートを渡し、当てはまる選択肢を選ぶよう促した。あたしの強迫症状と強迫行為、強迫症状の程度を調べるY-BOCSというリストらしい。

 列挙されている強迫症状と強迫行為に、あたしの症状にぴったりのものはなく、何となくあてはまるものにいくつか〇をつける。これを見ると、他の病院で、強迫症だと言われなかったのがわかる気がした。でも、強迫症状の程度は、かなり重症になる感触が残った。

「『病的な疑念』に〇がついていますね。その強迫観念に苦しめられて、自分を責め、幸せを壊してしまう強迫行為につながるのですね」
 記入済の用紙に目を走らせながら米田先生が尋ねる。

 あたしが頷くと、先生はペットボトルの水を一口含んでから続ける。

「症状の強さは、0から40まであります。26以上が重症ですが、紫藤さんは36です。相当苦しいでしょうね」

 死ぬほど苦しめられてきた症状を数字で測られるのが、不思議な気がした。でも、目に見えないものにかたちを与えられた気がして、なぜかほっとした。

「紫藤さんは、幸福恐怖ということですが、どんなことが嫌だったり、怖かったりしますか? 思いつくまま教えてください」

 自分の症状を話そうとすると、身体が石のように強張ってくる。ぞわぞわが降りてくるのが怖く、あたしは貝のように口を噤んでしまう。

 先生は追い打ちをかけるように続ける。
「では、一番怖いことから伺いましょう。どんなことが一番怖いですか?」
 口調は穏やかだが、瞳に挑発するような光が浮かんでいる。あたしは毎日苦しくて死にそうなのに、それを茶化されているようでかちんときた。

「あたしが今までどれだけ他人を不幸にしてきたかとか、人を呪わなかったかとかが頭に浮かんできて離れないことです。あたしは、そんなこと思い出したくも、考えたくもないのに。それが辛くて、もう限界で、死んで解放されたいんです……! これ以上、人を不幸にするのが怖いんですっ! 生きてるだけで人を不幸にするあたしが幸せになることは許されないって、言われてる気がするんです!!」 

 意味不明なことを言っていると自分でもわかっているので、恥ずかしくて消えたくなる。頭がおかしいクズのために、まっとうに働いている人たちが時間を割いてくれている。そう思うと、またぞわぞわがおりてきそうになる。

「続けてください」
 米田先生は、こんな場面に慣れているのか、顔色一つ変えずに促す。何だかバカにされている気がし、湧きあがってくる思いを勢いよく吐き出す。

「先生たちは、普通に学校卒業して、資格とって、働いて、まっとうな人生送れてるでしょ。親だって喜んでくれてる。あたしは、そういう当たり前のことが、頑張ってもできなかった! 学校では、バカでとろいから嫌われて、バイキン扱いされて、家では疫病神みたいな扱いされた。こんな変な病気にもなっちゃった。先生たちに、あたしの気持ちなんかわかりませんよ! もし治っても、中卒のあたしはろくな仕事に就けないし、まともな人に結婚してもらえない。未来に何の希望も持てない! こんなあたしは、先生たちの時間を割いて、治してもらっても意味ないんですっ!! 他に助けを必要としている人がたくさんいるのにっ!」

 言葉にしてしまうと、先生たちがあたしのために時間を割いてくれていることが強く自覚され、ぞわぞわ感が全身を走る。追い払おうとしても、脳を乗っ取られたようにそのことしか考えられなくなる。血の気がさあっと引いていく。海宝さんが打つキーの音が癇に障る。このままここに座り、質問に答える余裕なんてない……! 今すぐ出ていきたい!

「なるほど……」
 米田先生はパソコンのキーをかちゃかちゃ打ちながら、何かを掴んだように目を光らせる。

「いま、一番辛いのはどの症状ですか?」

「あたしが誰かを憎むことで、その人が本当に不幸になってしまうこと……!」

 具体的な考えが浮かばないように、心のなかで関係のないことを考える。数を数えたり、思いつく歌をバカみたいに歌ってみたりする。そんな私を見透かすように尋ねられる。

「だから、そういう考えが浮かぶのを避けているのですね? それを回避といいます。これからは、回避せず、怖い考えにどっぷり浸っていただきます」
 先生は、ちらりと腕時計に目を走らせる。

「さて、時間も迫ってきましたので、最初の課題を考えましょう。課題に必要なので、スマホを貸していただけますか?」

 先生はあたしのスマホを受け取ってから続ける。
「紫藤さんは、学校を卒業して、資格をとって、働いている私が気に入らないですか? 憎いですか? この禿げオヤジむかつくと、さっきから猛烈に頭にきているでしょう? 思いっきり憎んでください。憎んで、憎んで、私が無残な姿で死ぬことを想像してください」

「そんなことできるわけないですっ!!」
 あたしは蒼い顔で両耳を塞いだが、米田先生に「しっかり聞いてください」と一喝される。

「千秋さん、私も学校を卒業して、資格をとって、何十年も働いてるのよ。おかげで随分貯金ができたから、夫と旅行できるわ。パリやローマでたくさん買い物して、ハワイで泳ぐの。高級ホテルに泊まって、美味しいものたくさん食べて、海沿いをジョギングしたいわ。さあ、この金持ちばあさんを恨んでちょうだい」
 海宝さんまで楽しそうに言い出し、あたしは泣き叫びそうになる。

「思いっきり、怖い話を作りましょう」
 米田先生は、パソコンに向かい、語りながら入力を始める。

「紫藤千秋さんは、失礼なことをたくさん聞く心理士の米田を心底憎んでいました。あのオヤジ、呪い殺してやると思っていました。ある日、帰宅を急ぐ米田が運転する車は、一時停止を忘れて大通りに入ってしまい、直進してきた車と激突します。車はぺっしゃんこ。米田は全身血だらけで意識不明。相手は即死です。米田は救急車で搬送されますが、病院で死亡が確認されます。米田の遺体の損傷があまりにも激しいので、家族は顔を見ないよう言われます。妻も大学生の息子2人も棺に取りすがって泣き叫んでいます。医師や看護師も耳を塞ぐほどの阿鼻叫喚です。米田も妻も保険に入っていなかったので、米田家は慰謝料を請求されて破産。息子2人の学費を払えないことを苦にして妻は自殺。息子2人は大学を中退するしかありません。浪人してまで入った難関国立大だったのに。悲劇はまだ続きます……」

 私は、耐えられなくなって泣き叫んでしまう。
「やめて~、お願いだからっ!! もう耐えられません!」
 
 半狂乱になったあたしを意に介さず、海宝さんが口を挟む。
「まだ時間あるわね、私を恨む話も作りましょうよ」

「いいですね。どうぞ」

「いくわよ。紫藤千秋さんは、人の気持ちを考えられない看護師の海宝みおが大嫌いです。彼女は丑の刻に、白装束で頭にろうそくをつけて、海宝の名前を書いた藁人形を五寸釘で打ち、不幸のどん底に落ちるよう呪っています。簡単に殺すのでは面白くないので、できるだけ苦しませて殺したいと思っています」

 海宝さんは、手を後ろで組み、カウンセリング室を歩き回りながら、楽しそうに話し続ける。米田心理士は、笑いをもらしながら入力していく。

 海宝さんは、タオルで鼻水を拭っているあたしの前にボックスティッシュを置き、ご親切にもゴミ箱を近くに持ってきてくれてから話を続ける。

「なぜそこまで憎むかというと、海宝はとんでもないあばずれ女だからです。若いとき、東京の会社に勤めていた海宝は社内不倫していたのです。海宝は不倫相手の奥さんが、千秋さんと同じ強迫症で苦しんでいるのを知りながら関係を続けていました。その30年後、相手の奥さんが亡くなりました。海宝はすぐに妻の座に座り、幸せに暮らしています。人の死の上に成り立つ幸せを満喫しているのです。奥さんと同じ病気で苦しんでいる千秋さんは絶対に許せず、海宝が離婚されるよう呪い続けます。満願の日、望み通り海宝が離婚されると、千秋さんはさらに不幸になるよう呪い続けます。容赦ない呪いのせいで、海宝は末期の乳がんになってしまいます。抗がん剤の副作用で苦しんでも効果はなく、骨に転移して激痛にもだえ苦しみます。痛み止めの医療麻薬で意識が朦朧としているとき、亡くなった奥さんの幽霊に呪い殺される悪夢に苦しみます。見舞いに来てくれる人など誰もいないなか、海宝は寂しく死んでいきます。身寄りのない海宝の遺体は、病院が手配した葬儀会社の社員に見送られて、荼毘に付されます。遺骨は無縁仏にされます。海宝がこんなことになったのは、全部千秋さんの呪いのせいです。おしまい♪!」

「海宝さん、傑作ですよ。めっちゃいいです!」
 米田先生は涙を流して笑いながら、2つの話をプリントアウトすると、私のスマホの録音機能を立ち上げる。

「紫藤さん、2つの話を吹き込んでおくので、何度も繰り返して聞いてください。そして、嫌な気分を全身で味わってください。このシートに、最初に聞いたときの不安を100としたら、10回聞いたあと、20回聞いたあと……、その都度、不安の強さを記録しておいてください。変化が出るはずです。それからもう一つ課題があります。このシートには、何時頃、どんな強迫観念が浮かんだか、どう対処したかを毎日記録してください」

「私も、時間のあるときは、千秋さんと一緒に録音を聞くわ。呪う相手が近くにいるのも面白いでしょ。私、千秋さんに呪われて、離婚されて、癌になって、死ぬのよ」

 海宝さんの機転で、聞いたふりをして済まそうとしていたあたしの作戦はパーになった。

 米田先生の朗読が続くなか、あたしは泣きながら耳を塞ぎたい衝動と戦っていた。