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コラボ小説 「ピンポンマムの約束」2

 本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。

※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


  翌日の朝食後、主治医のキム先生、海宝さん、いつもと違う心理士が揃ってあたしの病室に来た。

 金先生は眼鏡の奥の切れ長の目で、ベッドに腰かけて生気のない目をしているあたしを見下ろす。色素の薄い虹彩からは、まったく感情が読み取れない。近づき難い人だが、変に詮索されている気がしないのはありがたい。

紫藤しどうさん、私はあなたの治療方針を誤っていたかもしれません」
 金先生の声から、やや居心地の悪さが伝わる。
「あなたをうつ病だと思って治療してきましたが、海宝さんから話を聞いて、強迫症きょうはくしょうの可能性があると思いました」

「きょうはく?」

 聞きなれない言葉に、あたしは先生のニキビ跡の残る顔を見ながら、首を傾げる。

 金先生は、ぽかんとしているあたしに、かみくだいた説明を始める。
「強迫症は、簡単に言うと、些細なことが気になって、どうしようもなくなる病気です。わかりやすい症状だと、何度手を洗っても清潔になったと思えず、手洗いをやめられなくなったりします。ガスを消したか、電気を消したか、鍵をかけたかなどが気になって確認を止められず、家から出られなくなってしまったり」

「あたし、そういうことはありませんけど……」

「症状は人それぞれですが、普通の人から見たら取るに足らないことが異常に気になり、不安を解消する行動をしたり、安心するために頭の中で延々と考え続けてしまいます。あなたの場合は、自分が幸福だと感じることを極端に恐れているようですね。カウンセリングで、自分は幸せに値する人間ではないと取り乱したと聞いています」

「そうです……。あたしは生まれてこなければよかった人間で、何も取り柄がなくて、数えきれないほどの人に迷惑をかけて、不幸にしてきたんです。いつからかは正確にわからないけど、あたしのせいで他人が不幸になったことがすーっと頭に浮かんで離れなくなって、ぞっとして、怖くて、怖くて……。こんなことをした私は、幸せになっちゃいけないって言われてる気がして。だから、ちょっとでも幸せを感じると、胸がぞわぞわして、自分からめちゃめちゃにしてしまいます」

 隠してきたおかしな症状を言葉にしようと試みたことで、涙が出てしまい、海宝さんが背中をさすってくれる。けれど、優しくしてもらうと、あたしはそれに値しないという感情が湧き上がってきて、「大丈夫です!」と振り払ってしまう。

「いま、あなたのせいで誰かが不幸になったことが頭に浮かんでくるとおっしゃいましたね。それは、強迫観念と呼ばれるもので、とてもしつこくあなたを苦しめているでしょう。あなたは、その不安から逃れたくて、頭のなかで自分が不幸の原因ではない理由を探したり、こんなことをした自分は幸福になるに値しないと幸福を壊す強迫行為に走ってしまう。その繰り返しで、あなたは追い詰められ、死にたいと思っている?」

 淀みなく続く言葉は的を得ていて、あたしは涙を拭いながら頷く。

 先生は泣いている私を前にしながら、感情の起伏のないAIのような口調で尋ねる。

「どんな強迫観念が浮かんできますか? あなたがどんなことをしたから他人が不幸になったのですか?」

 あたしは口に出すのが恐ろしく、体が震えてきたが、辛うじて叫びだすのを堪えた。だが、そんな私を見ても、無理に話さなくてもいいと言ってくれる人はいなかった。

 三人は、あたしが話し出すまで辛抱強く待ち続ける。

「身体が弱かった母さんは、あたしを産んだせいで死んだ。だから、あたしは死んだ母さんのためにも、父さんやじいちゃん、ばあちゃんのためにも、いい子じゃなくちゃだめだった……。なのに、あたしは、勉強も運動もだめで、性格も暗くて、友達できなくて、いじめられて何度も不登校になって、よくない人たちと付き合って、警察のお世話になって、高校中退して、家族に心配ばかりかけてきた。父さんは、あたしのことで会社を休んだり、早退しなくてはいけなくて、会社の人に迷惑かけて、出世が遅れた……。ばあちゃんは、そんな父さんが気の毒だと嫌味を言って、あたしを邪魔ものにするようになった。じいちゃんは、あたしのことで苦労して心臓を悪くして、死んじゃって……。子供のときは、毎日生きるのに必死で、あたしのせいだとか考えなかったけど、たぶん中学くらいからこういう考えがすーっと浮かんで、誰かに囁かれてるような気がして、全部あたしがいなければよかったんだって言われてるみたいで……!」

 感情が昂ったあたしは、涙と鼻水をだらだら流しながら、しゃくりあげていた。3人は私が落ち着くのを待ち、続けるように促す。

「あたしを虐めた子が気に入らなくて、バチが当たればいいと思っていたら、その子は交通事故に遭って鎖骨を折っちゃって……。そういうことは何度もあって……。あたしがこんなこと考えなければって……! 他人を不幸にした私は、幸せになっちゃいけないって思うんです!!」

 あたしは、堪えきれずに「うわあーっ!!」と叫んでしまい、ベッドの上で膝を抱えて顔を埋めた。

 金先生は、あたしが少し落ち着くのを待ってから、腹立たしいほど静かな口調で話し出す。

「失礼ですが、あなたの認知は歪んでいますね。認知というのは、物の考え方のことです。あなたを産んだせいでお母さんが亡くなったことに責任を感じるようですが、あなたに責任はありません。常識的に考えて、赤ん坊のあなたが責任を感じる必要は全くないじゃないですか。あなたが、バチが当たればいいと思っていた人が交通事故に遭ったのは単なる偶然です。大多数の人はそう考えます。そうですよね?」

 金先生が、心理士と海宝さんに尋ねると、二人は当然だと言いたげに頷く。

「もしかしたら、あなたは幼いときから周囲の人にあなたのせいだ、あなたが悪いと責められてきたのかもしれません。それが原因で、あなたの認知は歪んでしまった可能性があります。あなたには、認知行動療法という精神療法で認知の歪みを修正することをお勧めします」

「そのニンチなんとかっていうのは、どんなことをするんですか?」
 あたしはタオルで涙を拭いながら、鼻声で尋ねた。

「まず、あなたが恐れていること、それを避けるためにしていることを話していただきます。それを整理した上で、曝露反応妨害法ばくろはんのうぼうがいほう(ERP)に挑戦していただきます」

「バクロ……?」

「あなたは、恐れていることが現実になるのが怖いですね? 例えば、あなたがあんな奴は死ねばいいのにと思ったら、本当にその人が死んでしまうのが怖い。だから、絶対に人を憎んではいけないと思っている。ERPでは、恐れていることに敢えて挑戦します。これを暴露、またはエクスポージャーといいます。今、あなたは、口に出すのも怖かったことを私たちに話してくださいましたね。それも一種のエクスポージャーです。そして、エクスポージャーの後、不安から逃れるための行為、これを強迫行為といいますが、それをしないでいただきます。これを反応妨害や儀式妨害と言います。最初は不安で気が狂いそうになるでしょう。でも、時間が経つに連れ、不安は小さくなり、強迫行為をしなくても恐れていることは起こらないとわかります。その学習を繰り返します」

 先生は、一旦言葉を切り、私を見据えて尋ねる。
「この治療は、紫藤さんにとって辛い治療になります。あなたの覚悟がなければ治療が上手くいきませんので、我々もお勧めできません。どうなさいますか?」

「それ意外に、どういう方法があるんですか?」

「薬で様子をみます。もちろん、ERPをしてもしなくても、いま飲んでいる薬は症状に合わせたものに変えます。よく考えてみてください」

 海宝さんが、私の決断を促す強い視線を送ってくる。それに背中を押されるように私は答える。

「ERPやってみます……」

「わかりました。まず、紫藤さんの症状を整理しましょう。あなたが恐れていること、それを避けるためにしていることを米田よねだ心理士に話してください」

「辛いかもしれませんが、一緒に頑張りましょう! 明日、カウンセリングをしましょう」
 50代後半くらいの米田心理士は、齢の割に快活な声で言った。筋肉質で長身の彼は、その存在だけで人を朗らかにしそうな空気をまとっている。

 金先生が言い添える。
「米田心理士は、お若いとき、強迫症の治療で有名なクリニックで、専門医の薫陶を受けて、たくさんの症例を経験しています。頼りになりますよ」

 金先生は海宝さんを見て続ける。
「ERPは、カウンセリングのときだけでなく、日常生活にも取り入れていただきます。なので、担当看護師の海宝さんもカウンセリングに同席して情報を共有し、エクスポージャーに協力します。もちろん私もすべての情報を共有します。3人がチームで紫藤さんをサポートするので、あなたは話しやすい者に話していただいて構いません」

 金先生はバツが悪そうに言い継ぐ。
「いや、海宝さんが指摘してくださらなければ、私は紫藤さんに強迫症の可能性があるとは思いませんでしたよ。前の病院では、統合失調症と診断されていましたし、私が診察した範囲で強迫のわかりやすい症状は見受けられませんでしたから。でも、あなたを毎日観察してきた彼女が、幸福恐怖じゃないかと譲らないんです」

「いえ、たまたま知人に強迫の方がいたので、詳しかっただけですよ。この病気は、本当にいろいろな症状の方がいらっしゃるんです」
 海宝さんは若い医師を立てて謙遜した。

「私は経験が少ないのでお2人を頼りにしています。このチームで頑張りましょう」

 金医師のインテリ臭は好きになれないが、こうして自分の弱みをさらけ出せるところは流石だ。やはり、医者になる頭脳の人は違うと感心した。

 けれど、彼らがあたしを治療するために体制を整えてくれたことに、ぞわぞわした感情が湧いてきて、すうっと血の気が引いていった。あたしは、動揺に気づかれないよう、自分を抱きしめるように腕を組んで両肘を押さえた。