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コラボ小説「ピンポンマムの約束」1

 本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。

扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。


プロローグ

「これで完成ね!」
 年輩の美容師さんが、仕上げにピンポンマムの髪飾りをつけてくれた。
「髪飾りが色打掛の色と調和してますね。秋にぴったりの色どりだわ」
 美容師さんの陶然とした眼差しを鏡越しに捉える。
「ありがとうございます。どうしても、結婚式を秋に挙げて、この髪飾りをつけたかったんです。だから、色打掛も髪飾りに合う色を選びました」
 彼女の顔に、かすかに怪訝そうな表情が浮かんだが、すぐにスタンプで押したような笑みに変わる。 
「会場の誰よりも綺麗ですよ。さあ、いきましょう」
 彼女はあたしに手を貸して立たせると、ドアまで優しくエスコートしてくれる。

千秋ちあき、綺麗だ……」
 廊下で若い女性スタッフさんとスタンバイしていた新郎のみなとが、眩しそうにあたしを見つめる。
「湊も紋付袴、似合ってる!」
 小柄だが筋肉質の湊は、紋付き袴に身を包むと逞しさが倍増する。

 スタッフさんに誘導され、湊と腕を組んで扉の前に立つ。

 ほんの少し開いている廊下の窓から、金木犀の香りが微かに流れ、あの人と同じように、秋に式を挙げる感慨が胸を満たす。あたしはあの人に心の中で語り掛ける。
海宝かいほうさん、12年もかかってしまったけど、約束通りこの髪飾りつけたよ……」
 そっと髪飾りに触れると、記憶のなかの凛とした眼差しが優しくほころぶ。

「準備はいいですか?」
 スタッフさんの問いかけに私と湊はそろって頷く。

 スタッフさんが扉の脇にしゃがみ、軽く合図のノックをすると、内側からぱっと開いた。スポットライトと視線が私たちに集中し、思わず目をすがめる。
「新郎、新婦の入場です。拍手でお迎えください!!」
 あたしは一瞬怯んだが、胸の内で彼女に呼びかける。
「海宝さん、この空の下、どこかで幸せでいるよねっ? あたし、もう幸せになることを恐れてないよ!」
 あたしはBGMと拍手を浴び、口角をぐっと押し上げる。湊とともにスタッフさんに誘導され、しずしずと歩みを進める。一歩一歩が幸せにつながっていくと信じて。

                  

                ★
 あの人と出会ったのは12年前。21歳のときだ。あたしは何度目かわからない自殺未遂をして、精神科に入院していた。

 あの頃、あたしの精神は尋常じゃなかった。意志に反して、嫌な考えがすっと頭に入ってきて、他に何も考えられなくなってしまう変な症状が何年も続いていた。

 あたしを産まなければ母さんは死ななかった。あたしがいなければ、父さんは自由だった。再婚できたし、育メンにならなくて済んだ。じいちゃん、ばあちゃんも老後を奪われなかった。あたしが苦労をかけなければ、じいちゃんはもっと長生きできた。友達は陰気で面倒なあたしと仲良くしなければ、もっと楽しい学校生活を送れた。歴代の担任は不登校を繰り返すあたしがいなければあれほど苦労しなかった。彼氏は、あたしと付き合わなければ、もっと可愛くて明るい女の子と付き合って、楽しい青春時代を送れた。あたしと結婚すると決めなければ、彼の家族が不和になることもなかった。

 あたしがいるだけで、どれだけたくさんの人を不幸にしただろう。あたしさえいなければよかったんだ……!! 母さん、何であたしを産んだんだよ!
 居るだけで周囲を不幸にしてしまうあたしは幸せになっちゃいけない! あたしのせいで不幸になったたくさんの人に申し訳ない。少しでも幸せを感じると、そんな考えに頭を占拠され、幸せをめちゃめちゃにしてしまう。
 
 嫌な考えがすっと入ってきたときは、血の気がすとんと引いて顔面蒼白になり、心臓がどきどきする。侵入してくる考えを追い払おうと、飛び跳ねたり、音楽をかけて踊ったりするけど、一度入ってきた考えはものすごい力で脳を支配する。獣のようにうわーっと叫び、地団駄を踏み、布団にもぐりこんで、海老のように身体を丸くして堪える。父さんやばあちゃんは、そんな奇行を繰り返すあたしに手を焼いていた。あたしだって、こんなことしたくなかった。でも、嫌な記憶が入ってくると、どうしてもこうなってしまう。
 こんなおかしな症状が続いてたけど、どうにか生きてきた。でも、そのせいで、高校中退。就職活動なんてできなくて、バイトは何度もクビ。こんなダメダメのあたしは、皆が納めた税金で運営される福祉のお世話になる資格なんてない。

 あたしさえ消えてしまえばという思いが、頭のなかでドラムのように鳴り響き、明日を生きるのが怖いほど追い詰められた。そんな日々に疲れ果てて、何度も自殺を試みた。手首の激痛と鮮血のなか、ようやく消えられる安堵に包まれて意識を失うのだ。

 父さんやばあちゃんに見つけられ、何度も救急車で運ばれた。病院で意識を取り戻すたびに、また罪深い人生を生きなくてはならない絶望に呻吟した。

 医者や看護師、心理士はどうして死にたいのか尋ねる。心理士は、あたしをカウンセリング室に呼び、話を聞きだそうとする。
 頭に侵入してくる考えのことは口に出すのも怖かった。例え話せたとしても、中学さえまともに通っていないあたしの語彙力で、あの恐ろしさを他人に伝えられるとは思えない。
 あたしはたくさんの人を不幸にした、だから幸せになる資格はないと言おうとすると、過去にあたしがやったことがフラッシュバックして歯ががちがち鳴るほど震えてしまう。あたしが何かすると誰かを不幸にするかもしれないって伝えようとすると、それが現実になるかもしれない恐怖で叫び出しそうになる。
 頑張って話そうとしても、気持ちが昂り、呼吸が荒くなって、「あたしには生きる価値がないんです!」と叫び、いつも大声で泣いてしまう。そうすると、屈強な男性看護師があたしを押さえ、病室に連れていき、注射を打つのだ。頭がぼーっとすると、ほんの少しだけあの考えがぼんやりする。

 そんなあたしは、いつも大量の薬を処方されていた。このまま死にたくて、薬を飲むのを拒否したことがあるので、看護師さんの前で口を開けさせられ、薬のカラを回収され、ちゃんと飲んだか確認される。あたしは無気力に従っていた。薬で気持ち悪くなり、頭がぼうっとすると、ちょっとだけ楽になった。毎晩眠りに落ちるとき、このまま死ねればと願っても、必ず朝はやってきた。病院にいるとお金がかかって父さんに悪いから、良くなったふりをして退院した。そしてまた、あの考えに耐えられなくなり、同じことを繰り返した。

 主治医の指示なのか、あの病棟であたしの担当になった看護師さんは、枕元に座り、手を変え品を変えて、自殺を繰り返す理由を聞き出そうとした。齢が近い方が話しやすいという配慮からか、いつも若い看護師さんがきた。でも、まともな人生を歩み、将来の希望にあふれた同い年ぐらいの男女を見ると、自分との違いを自覚させられて惨めになった。彼らがどんなに親身になってくれても、上から目線に思えて、嫌な態度をとったり、頑なに心を閉ざしてしまった。

 けれど、あの人、海宝かいほうさんは、私の心を開いた。彼女はおばあちゃんくらいの年齢の小柄な人だった。彼女の思慮深い眼差しと凛とした佇まいに、この人の前ではちゃんとしなければという気持ちになった。

 でも、最初から仲良くなったわけじゃない。彼女は毎朝あたしの部屋にくると、背筋を伸ばして、てきぱきと処置をしていた。もの静かな人で、必要なことを尋ねる他に、「今日は天気がいいわね」、「ご飯、いつもより食べられたみたいね」とか、何か一言口にしたけど、若い看護師さんたちのように、しつこく話しかけてこなかった。あたしにはそれが心地よかった。

 彼女との会話が増えたのは、桜が散った頃だった。
 あたしは、首や背中が痒くて、ぼりぼりかいていた。我慢できないほどではないし、気温が上がってきたから痒くなったのだろうと思っていた。

 朝ごはんの後、食後の服薬のチェックにきた海宝さんは、首筋を掻いているあたしを見て、手を止めた。
「ちょっと見せて」
 彼女は静脈の浮き出た手であたしの首を触り、小さく眉を上げた。
「いつから痒いの?」
 黒目がちの瞳に見つめられ、少し考えた。
「たぶん、昨日の夜くらいからかな……」
「昨日薬を変えたわね」
 海宝さんは、すぐにタブレットでカルテをチェックした。
「他のところにもできてる? ちょっと見せてくれる?」
 あたしがパジャマをめくると、首と背中だけだと思っていた湿疹は、腹や腕にも醜く広がっていてぎょっとした。
「薬の副作用の可能性が高いわ。先生に相談してみます」
「え、そうなんですか?」
 今までたくさんの薬を出されたが、そんなことは一度もなかった。

 ナースステーションに走った彼女は、主治医と外来に来ている皮膚科医を連れて戻ってきた。若い主治医は曖昧な態度だったけど、年輩の皮膚科医は薬疹と診断し、すぐに気付いた海宝さんをほめた。診察の後、飲み薬が変更され、塗り薬が追加された。

「自分の身体の変化は、しっかり報告してくれないとだめよ」
 医者二人が出ていった後、海宝さんはめずらしく厳しい口調で言った。
「すみません」
「お薬は呼吸困難や昏睡、排尿障害のような重篤な副作用を起こすことがあるの。身体の変化には敏感になってね」
 彼女は小さく微笑んだ。垂れ目の彼女は、笑うと目尻のしわが目立ったが、醜いとは思わなかった。彼女は、年相応の経験と知識を感じさせる老い方をしていた。

 だけど、あたしは、彼女によくしてもらって、気持ちが上向いたことにはっとした。生きる価値も気力もないあたしは、こんなによくしてもらっちゃいけない、あたしよりいい人なのに具合が悪くても治療が受けられない人がたくさんいるという思いが高波のように全身を飲み込み、ぞわっとした。

「ほっといてくれて良かったんです……!」
 動転していたあたしは、彼女に苛立ちをぶつけてしまった。

「そりゃ、湿疹で死にはしないけど、痒みが治まったほうがいいでしょ」
 ベテラン看護師の貫禄なのか、彼女は気分を害した様子を微塵も見せず、歌うように答えた。

 その口調があたしの神経に障った。
「死んでもいいんだよ! むしろ、死にたくてしょうがないんだよ!! 幸せになるに値する人間じゃないんだからっ!!」

 あたしは血の気の引いた顔で、荒い息をしていた。

 海宝さんの目に鋭い光が射したように見えた。彼女はあたしを正面から見据え、ゆっくりと尋ねた。
「千秋さん、あなた、自分が幸せになるのが怖いの?」

 彼女の黒目がちな瞳には、包み込むような温かさがあり、あたしは顎だけで小さく頷いた。

 海宝さんは、ベッドの上に座って肩で息をしているあたしを抱きしめた。
「千秋さんは必ず良くなる。これから辛い治療になるけど、一緒に頑張りましょう」

 彼女の言葉には、有無を言わせない力がこめられていて、あたしは何も言えなかった。