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「カモメと富士山」20

エピローグ
2021年3月
 不織布のマスクをずらし、実家から送られてきたみかんを一房口に入れる。ほどよい酸味が、舌の上でしゅっと弾けて口内に広がる。マスク生活も一年を過ぎ、手抜きメイクとともに、すっかり馴染んだ。出勤してくる同僚にマスクのなかで挨拶しながら、朝1番で国会議員にレクチャーする内容を見直す。

 外務省に入省した私は、本省と在外公館での勤務を重ねてきた。日英の出版翻訳家になった夫のジョージは、どこでも仕事ができるので、私の海外赴任にもついてきてくれる。
 最も幸運だったのは、30代前半にロサンゼルス総領事館に赴任し、日本企業の支援や日本から来た議員団と日系人会の交流に関われたことだ。
 着任してすぐに、ジョージと共に、自宅療養中の義祖父カズヤさんを訪ねた。互いに再会を喜び、親戚付き合いが続いた。赴任中に、93歳のカズヤさんを夫と一緒に看取ることができた。日米の経済交流に功績を残した彼の葬儀には、総領事を始め、多くの日系企業の関係者が参列してくれた。

 現在は本省の北米局第2課で、日米間の貿易・投資分析に携わっている。昨年から始まった新型コロナウイルスのパンデミックは、世界中で生活習慣を変えた。それに伴う経済的打撃は計り知れず、失業者も増加している。欧米諸国では、そうしたストレスのはけ口として、アジア系へのヘイトクライムが増えている。

 アメリカでも、トランプ大統領が新型コロナウイルスを中国チャイナウイルスと呼んだことがヘイトを煽り、アジア系に対するヘイトクライムが激増している。特に、高齢者や女性が多く被害に遭っている。ジョージは状況を知ると、私と息子の反対を聞かずに渡米してしまい、アリシアたちとともに防止対策や被害者支援、世論の啓発に携わっている。ジョージの身を案じつつも、彼らしいと誇らしさが湧いてくる。

 実際、事態は深刻だ。2020年にアジア系・太平洋諸島系へのヘイトクライム増加を受けて設立されたSTOP AAPI Hateによると、2020年3月から2021年2月までに、3795件もの被害報告が寄せられている。被害の4割は、カリフォルニア州に集中し、被害者の4割は中国系だ。日本人も被害に遭っていて、在外公館が注意を喚起している。

 現地のジョージから送られてくる情報は、胸が痛むものばかりだ。先日送られてきた動画は衝撃的だった。3月17日に、サンフランシスコのマーケット通りで、76歳の中国系アメリカ人の女性が、見知らぬ白人男性に顔を殴られた。女性は落ちていた棒で果敢に反撃した。救急車が呼ばれたが、担架に乗せられたのは加害者の白人だった。女性は、左目から出血が続き、物が見えないという。

 リトル・トーキョーでも、投石の被害が多く、昨年の夏には全米日系人博物館の入り口付近の窓ガラスに穴が空き、入り口のガラス戸にも蜘蛛の巣状の亀裂が入った。今年の2月25日には、東本願寺ロサンゼルス別院で、2つの提灯台に火がつけられ、灯籠とうろう2基がなぎ倒された。

 ジョージは、カズヤさんがどんなに胸を痛めているかと悲しくなり、墓前でヘイトクライムの防止と被害者支援、啓発に力を入れると誓った。
 私も、戦争や経済摩擦以外が理由で、再び日系がヘイトクライムに遭う事態を予想していなかっただけに、ショックと無力感にとらわれている。9・11後に、ジョージが、いまイスラム教徒や中東・南アジア系に向いているヘイトが、国際情勢が変われば日系に向けられる可能性があると言っていたことが深く胸に刺さる。

 アメリカで、非常事に、事態に関連する国や地域と血縁のあるエスニックグループがヘイトクライムの標的になるのは変わらない。そして、標的になるエスニックグループと外見が似ているグループも標的にされることも変わらない。

 だが、それを許さない運動も健在だ。先日、久々にミナさんからメールをもらった。彼女は、3月27日に、ロサンゼルス市庁舎前で行われたアジア系ヘイトを止めるよう訴えるデモに、夫と、友人のアリシアやジョージと共に参加した。ミナさんの夫は、押したり引いたりを5年続けてミナさんの心をつかみ、現在はロサンゼルスの現地法人に勤める朔くんだ。朔くんの両親は、初めはミナさんとの結婚に大反対していたが、最後にはロスまでやって来て、息子と結婚してほしいとミナさんに懇願した。そんな夫妻は、いま行動しなくてはいけないと認識し、デモに参加したという。
 2人とアリシアは、ジョージがヘイトクライム被害者の支援と世論への啓発活動のために立ち上げたクラウドファンディングに、大口の寄付をしてくれた。私も寄付をし、友人知人にも呼び掛けている。20年前にマンザナ―に行ったメンバーに、カズヤさんの精神は確かに引き継がれている。
 そして、似た目的のクラウドファンディングは、たくさん立ち上がっている。ジョージが立ち上げたものも含め、目標額を遥かに上回る資金が集まっているクラウドファンディングを見ると、アメリカ社会がエスニック問題で確実に前進していると感じさせてくれる。こうした民意は連邦議会議員に届き、いずれ連邦法として実を結ぶだろう。

 議員にレクチャーを行う時間が近づき、書類とノートパソコンを持って席を立つ。みかんの皮から立ち上がった芳香がふんわりと香る。祖母の面影が浮かび、気持ちをしゃきりとさせてくれる。

(完)


※ 本作品はフィクションです。実在する人物、団体とは一切関係ありません。

主要参考文献、URL、映像資料  
Anny Bakalian and Mehdi Bozorgmehr, Backlash 9/11: Middle Eastern and Muslim Americans Respond, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 2009. 

Aladdin Elaasar. Silent Victims: The Plight of Arab & Muslim Americans in Post 9/11 America, Bloomington: Author House, 2004.  

Little Tokyo Historical Society, Los Angeles's Little Tokyo, Charleston: Arcadia Publishing, 2010.  

James Mcnaughton, Nisei Linguists: Japanese Americans in the Military Intelligence Service During World War II, United States Govt Printing Office;2007. 

Max Vanzi with contributions from Kate Sproul and John D. Cox, The PATRIOT Act, Other Post-9/11 Enforcement Powers and the Impact on California's Muslim Communities, Senate Office of Research, 2004.   

9066 to 9/11(2004) 

飯野正子『もう一つの日米関係史 ― 紛争と協調のなかの日系アメリカ人』(有斐閣、2000年)

今村茂男(大島謙訳)『神風特攻隊員になった日系二世』(草思社、2003年)

児玉博『日本株式会社の顧問弁護士―村瀬次郎の二つの祖国』(文春新書、2017年)

竹沢泰子『日系アメリカ人のエスニシティ―強制収容と補償運動による変遷』(東京大学出版会、1994年)

蓑原俊洋『アメリカの排日運動と日米関係-「排日移民法はなぜ成立したのか」』(朝日新聞出版、2016年)

ジョーゼフ・D・ハリントン(妹尾作太男訳)『ヤンキー・サムライ―太平洋戦争における日系二世兵士』(ハヤカワノンフィクション、1981年)

安井健一『「正義の国」の日本人―なぜアメリカの日系人は日本が嫌いなのか』(アスキー新書、2007年)

若山牧水 -Official Web Site- (bokusui.jp)

ディスカバー・ニッケイ (discovernikkei.org)

アメリカで苛烈化する「アジア人ヘイト」の実態 東本願寺別院の放火で見えたロサンゼルスの今 | 新型コロナ、長期戦の混沌 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

日本人が知らない「アジア系女性差別」酷い実態 ヘイト犯罪デモに集まった人たちに話を聞いた | アメリカ | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

アジア系ヘイトクライム対策を強化 米法案成立へ:朝日新聞デジタル (asahi.com)