見出し画像

「カモメと富士山」18

「戦後、進駐軍として来日したのですよね?」

 カズヤは私の問いに頷き、サイドボードの上の写真立てを一つ持ってくる。軍服姿の若いカズヤが写るモノクロ写真だ。

「1946年1月、東京に入った頃の私だ。背後は瓦礫がれきばかりだろう。戦前の帝都を知る私は、瓦礫とバラックだらけの光景に言葉を失った。
 進駐軍に接収された建物には、煌々こうこうあかりがともっていた。マッカーサー連合国軍最高司令官がいた第一生命ビルをはじめ、接収された建物のまわりを進駐軍が肩で風を切るように闊歩していた。私は連合軍翻訳通訳部(ATIS)が拠点を置くNYK(日本郵船)ビルで勤務した。皇居と反対方向に直進すると、空襲でドームを吹き飛ばされた東京駅があった。そこには、戦災孤児や家を失った人が空腹を抱えてたむろし、地方に買い出しにいく切符を求める人が長い列をなしていた。あの頃の東京の食料事情は最悪で、餓死者や伝染病の蔓延が危惧された冬だった」

「祖母に会いに行ったのでしょうか?」

「大沢家を訪ねたのは、日本に進駐して最初の週末。その頃の私は、収容所に入れられたために大学を中退せざるをえず、西ロサンゼルスの家も失い、アメリカ人としての誇りをずたずたにされていた。戦死した戦友の話をたくさん耳にし、心がすさんでいた。唯一の希望は、富士子さんとの再会だった。
 私はPXと呼ばれる軍の売店で買い集めた缶詰や石鹸、チョコレート、煙草などを両手に持てるだけ持っていった。買い出しに出る人と復員兵でごったがえした列車を降り、記憶をたどりながら大沢家を探した。磯の匂いが鼻をくすぐり、見覚えのある風景が現れると、自然と早足になった。離れも母屋も残っているのを目にしたときは、神に祈りを捧げた。立派だった庭には野菜畑が作られ、食料事情の悪さを物語っていた」

 地主だった大沢家は、戦後の農地改革で打撃を受け、祖父母は困窮したと聞いている。それを考えると、彼の目に入った窮状は、序章だったのかもしれない。

「玄関で声をかけると、出てきた父親は進駐軍の軍服を着た私におののき、おずおずと誰何すいかした。ほころびの目立つ国民服を着た彼は、脊中が丸くなり、かつての威厳は失われていた。私が名乗ると、くぼんだ目を見開き『上がりなさい』としゃがれ声で促した。慌てて出てきた母親も気の毒なほどやつれていて、持っていった物資を渡すと涙を流して礼を言った。
 モンペ姿の富士子さんが姿を現したとき、私は生きて再び会えた感慨で言葉が出なかった。痩せたせいで、あごの輪郭がくっきりし、以前より美しさを増していた。彼女も言葉が出ないという表情で、両手で口元を抑えた。私は万感の思いを込め、会いたかったと目で語りかけた。早く2人になって、今後のことを話したかったが、彼女は視線をそらして台所に駆けていってしまった。このときは、両親の前だからだろうと深く考えなかった。

 居間に通されると、仏壇に並んだ遺影が目に飛び込んできた。まさかと目を疑った。よろめくように仏壇に近づくと、軍服姿の岳史さんと佳史くんだった……。がくりと両膝が落ち、体が硬直していった。

 父親が、れた声で言った。
―岳史は支那で、佳史はどこぞやで艦を沈められて戦死です。あんたも米軍なのですな。移民の倅が進駐軍とは、時代も変わったものです。

 行き場のない怒りをにじませた一言が、鋭利な刃物のように私の胸をえぐった。アメリカ軍として戦ったことの対価を突き付けられた瞬間だ。私は親友を殺した側の人間だと思い知らされた。

 こみ上げてくる嗚咽おえつを抑えられなかった。父親はそんな私を一瞥いちべつし、無言で部屋を出ていった。

 富士子さんが入れてくれた温かいお茶が胃袋にしみわたり、どうにか正気を取り戻した。母親は夫の非礼を詫び、息子に線香を上げてくれないかと頼んだ。私が線香をあけると、母親は言葉少なに戦時中のことを語った。

 長男の岳史さんには、1940年の夏に赤紙が来た。1943年10月に、学徒動員で海軍に入った佳史くんは、横須賀の武山海兵団で初年兵訓練と予備学生としての訓練を終え、久里浜の海軍通信学校で暗号士としての訓練を受けた。霞ヶ関の軍令部で勤務した後、艦隊勤務を命じられたが、乗艦が撃沈されたらしく、1945年の夏に戦死公報が届いた。
 卒業後、東京の出版社で働いていた富士子さんは、1945年3月の東京大空襲で職場と下宿を焼かれ、命からがら宇佐美に戻った。地元で教師の職を探したが見つからず、工場に徴用された。戦後、彼女は日々の食料を確保するために野菜を育て、着物を食物と交換するために奔走していた。大沢家は、岳史さんの帰りを待ちわびていたが、その願いも虚しく、1945年9月に戦死公報が届いた。
 続けて聞かされた一家の決断は、私を絶望のどん底に突き落とした。後継ぎを失った大沢家は、富士子さんが婿養子を迎えて家を継ぐことになった。相手はみかん農家の次男で、彼女とは幼馴染。復員した婚約者は、戦地で受けた傷の手術のために入院中で、彼の回復を待って祝言を上げることが決まっていた。私たちの関係を知っていた母親は、こうした事情なので、申し訳ないが娘はあきらめてくれと頭を下げた。

 体中から血の気が引いた。私は日本で家が重視されることを知っていた。彼女が責任を放棄できないことは、理性ではわかっていた」

「グランパ……、それで引き下がったの?」

「情ではあきらめきれず、一縷いちるの望みを引き出そうとあがいた。私は帰り際、送りに出てきた富士子さんに、少し話せないかと頼んだ。彼女は、約束を守れなくて申し訳ございませんと頭を下げ、みかんを1つ持ってきて、『いまの私には、これを守ることがすべてです』と私に握らせた。私が懇願するように腕を掴むと、彼女はその手を振り払い、毅然とした背中を見せて家に入ってしまった。
 立ちつくした私は、これがアメリカ側で戦った報いかとうめいた。真珠湾攻撃の日から、毎日が生きるのに精一杯だったが、どんなに辛くても自分を奮い立たせてきたのは、彼女とアメリカで暮らす希望があったからだ。それを失った私は、強い虚脱感に襲われた。気が付くと、彼女にもらったみかんに爪を深く食い込ませていた。指と背広に甘酸っぱい果汁が飛び散り、芳香が鼻腔をくすぐった。
 責任のある仕事がなければ、廃人になっていただろう。一切の感情を封じて仕事に集中し、くたくたになって眠る日々が続いた。忙しい日々のふとした切れ目に、彼女を思い出してしまうのが辛かった」
 
「祖母とは、それで終わりだったのですか?」

「いや、どうしても諦められなかった私は、意を決して富士子さんを訪ねた。白いみかんの花が咲き誇る季節だった。私は目立たないように、軍服ではなく、母が仕立てたスーツを着ていた。畑で白いみかんの花を愛でていた彼女は、私に気づくと、はっと体を固くした。私は有無を言わさない口調で、『お兄さんの墓参りに来たので案内してほしい』と頼んだ。彼女は拒むわけにいかないと判断したのか、『兄に供えましょう』と花の咲いている枝を折り始めた。彼女は私に背中を向け、動揺を隠すように枝を折り続けていた。

 私は、その背中に語り掛けた。
―お兄さんたちのことは、とても言葉にできない。僕はあなたのお兄さんを殺した側で戦ってしまった。

 彼女は振り返って言った。
―仕方がないことです。あなたはアメリカ人です。私も兄も、あなたを恨んでいません。
 佳史兄さんは、『前川はお前を忘れるようなやつじゃない。戦争が終わったら必ず戻ってくるから、信じて待て』と言い残して戦地に向かいました。その通り、あなたは来てくれた。それだけで十分です。

―ちょっと待って! あなたと僕はこうして生きて会えた。僕たちはこれからじゃないか。あなたはあの時、僕と一緒にアメリカで生きる覚悟を見せてくれた。

―あの時と状況が変わったのはおわかりでしょう? 子供の頃からこの畑と歩んできた私にとって、ここは身体の一部のようなものです。

 彼女は顔を紅潮させて言った。そのことはわかっていた。それでも、人生を一緒に歩みたいと思えるのは彼女以外の誰でもなかった。5年前、彼女が私と生きる覚悟をしてくれたと思うと、自然に言葉が出た。

―わかっている。アメリカに来てくれとは言わない。あのとき、あなたは日本を離れて僕と生きる覚悟を決めてくれた。今度は僕の番だ。僕を婿として、一緒にみかん畑を守らせてくれないか。これでも、愛媛で6年間、みかん畑を手伝っていた。両親の実家もみかん農家で、僕にはその血が流れている。

―カズヤさん……。

 彼女は両手で強く口元をおさえた。嗚咽を堪えるために、凄まじい努力をしているのがわかった。5年前に私が彼女の言葉に陥落したように、私の思いが彼女の理性を突き崩すことを願った。しかし、彼女は息を整え、目元を拭ってから毅然として言った。

―あなたらしくないことをおっしゃらないで。あなたは、アメリカへの忠誠を証明するために入隊したのでしょう? アメリカで生きなければ、戦ったことも無駄になってしまうじゃないですか。
 そして、日米両国を知る日系アメリカ人のあなたは、その能力を生かした仕事をすべきです。

―僕に何ができるだろうか……?

―兄から聞いたわ。あなたは、二世であることを活かして、外交か商社の仕事がしたいと言ったって。

―すっかり忘れていた。商大の学生服に袖を通した頃、希望にあふれてそんなことを言った。

―私もあなたに恥ずかしくないように、みかん畑と家を守って生きていきます。そうだわ、子供ができたら外交官か商社員にするわ。日米関係を良好に保つことに貢献できるような。

―それは、いいな。僕も、日米の友好を促進できる職に就こう。それが、僕たちの愛のかたちだ。

 彼女は瞳に悲壮感を漂わせて言った。
―2つの国が戦争をしないように、日米のあいだに立って友好を促進してください。私たちのように、引き裂かれる恋人たちが出ないように……。兄とあなたのように、敵味方で戦う友人たちが出ないように。

―そうだな。こんな思いはもうごめんだ。

 私たちは、どちらからともなく抱き合った。別の道を進む力を得るための長い抱擁だった。切なさに押し潰されそうだったが、2人とも歯を食いしばって堪えた。

 離れ難い思いを制して抱擁を解くと、彼女は「行って!」と懇願した。どうしても立ち去れない私に、彼女は「お願い!」と悲鳴のような声をあげた。私は悲しみに顔を歪めて踵を返した。今思い出しても、身を切られるように辛い瞬間だった。

 何歩か足を前に進めたが、私はたまらなくなり、振り返って尋ねた。

―富士子さん、カモメを見たら僕を思い出してくれる?
 彼女は気丈に微笑み、そっと頷いた。僕が富士山の方角を指差すと、彼女は満ち足りたような笑みを見せてくれた」

 戦後、たくさんの日本人女性が進駐軍の男性と愛しあい、戦争花嫁としてアメリカに渡った。行動力があった若き日の祖母なら、そうできたはずだ。だが、カズヤは祖母を無理にアメリカに連れていったら、家を捨てた罪の意識に苦しみ続けることが見えていたのかもしれない。祖母も、カズヤが婿養子に入ったら、彼らしい生き方ができないとわかっていた。あまりにも切ない別れだが、互いを大切に思っていたからこそ、できた選択だろう。

 カズヤの思いは、その選択が祖母の生き方だけではなく、母や私の人生まで翻弄したことまでは及ばないだろう……。

 ジョージは、物語の続きを待ち望むように身を乗り出す。
「グランパは除隊後、退役軍人手当を使って大学に入り直した。その後、ロースクールに進学して弁護士になったね。なぜ、その道を選んだの?」

 カズヤは虚空に視線を流し、沈んでいた記憶を掘り起こすように話し始める。
「富士子さんと別れた後、自分が日米関係のために何ができるか考えた。焼野原になった日本を前に、この国がアメリカの軍事的脅威になることはないと思い、軍籍に残る選択肢を外した。脳裡に浮かんだのは、戦前から西海岸に進出していた日系の会社や銀行だ。日本が復興したら、そうした会社は増える。英語も日本語も話せる私は、弁護士になって日系企業のアメリカ進出を支え、日米の経済交流を緊密にしたいと考えた。投資や貿易が増えれば、戦争の抑止力になるだろう。戦争になれば、第2次世界大戦時のように、日本企業の在米資産は凍結されてしまうのだから」

「そういう考えだったのか。最初は、日系の先輩がダウンタウンに開いた弁護士事務所で働いていたんだよね。そこでパラリーガルをしていたグランマと出会って結婚した。彼女が言ってたよ。グランパは法務にとどまらず、日本企業の駐在員の住居探しから車の契約、財布を盗まれた際の警察への届け出まで世話を焼いていたって」

「ああ。休日でも夜中でも、駐在員が交通事故を起こして金を巻き上げられそうだとか、ヘルプの電話を受けるたびに出ていった。そうそう、朔くんの父親の会社の駐在員が、泥酔して警察に保護されたときは、私が引き取りにいった」

「だから、グランパは信頼されたんだね。ところで、グランパは独立して、白人の弁護士とソーテルに事務所を立ち上げたね。どうして、ずっと彼と組んでたの? 僕のママは、グランパが白人に媚びてばかりだと憤ってたよ」

 カズヤはサイドボードから、写真立てを一つ持ってくる。がっしりとした体型の白人とカズヤが、事務所の前に立っている。堂々とした体躯のカズヤも、プロレスラーのような体型の白人と並ぶと小さく見える。

「ケニーは宣教師の息子で日本育ち。日本語はセミネイティブ。見ての通りの白人だ。日本企業が訴えられたとき、黄色い顔の私より、白人が弁護人席に座ったほうが、裁判官や陪審員にプラスに作用する。なかなか、アメリカのやり方に馴染んでくれない頑固な日本企業に助言するときも、私が言うより、体が大きく、金髪で青い目の彼が言ったほうが、すんなり受け入れてもらえた。日米貿易摩擦のとき、彼は法廷でも日本企業側に立って、大いに働いてくれた。あの厳しい時代を乗り越えられたのは、彼のサポートが大きい。彼にいてもらうために、彼の配分を多くした。グレースが何と言おうと、そのほうが上手くいったんだ」

「グランパ、アメリカ社会をよくわかってるね」

 ジョージは写真に目を注いだ後、カズヤに視線を移す。
「グランパは、富士子さんとの約束を守ったね。日本企業の経済活動を支えることで、良好な日米関係の推進に貢献した」

 カズヤはジョージと私の目を見返して尋ねる。
「そう思って、いいのだろうか……?」

「もちろんだよ。長年、グランパの事務所でパラリーガルをしていたシグが言ってた。西海岸に進出した日本企業、西海岸のアメリカ企業とジョイント・ベンチャーをしたい日本企業の多くは、『カズさん』の世話になったって。グランパがいたから、たくさんの日本企業がアメリカでビジネスができた」

 立ち上がったジョージは、サイドボードの上から大きな長方形の写真立てを手に取る。ふーっと息を吹きかけ、大きな掌で埃を拭ってから、テーブルに置く。そこには、カズヤが日本企業の役員や駐在員、ビジネスパートナーシップを結んだ日米の企業の役員と撮ったらしい写真が、コラージュのように貼りつけてある。

「グランパが築いた人脈だね。俺はよく知らないけど、日本企業の有名な人と写っているんだろうな。ここは、日本の総領事館?」

「そう。彼は総領事。領事館で開かれる日系企業の懇親会にはよく顔を出した」

「グランパは、1991年に事務所を引退した。何かきっかけがあったの?」

「1988年に市民の自由法が可決され、強制収容に対する謝罪と補償がなされ、不正義が正されるのを見た。だが、人種や信条に基づく不正義は、この先もなくなることはないと思った。これからは、アメリカ憲法に違反すること、アメリカ的ではない不正義を正すことに関わっていこうと思った。それは、日系アメリカ人の将来にも、在米日本人のそれにも結び付いている」

「だから、法の適正な手続きに則らずに国外追放される人たちや、ヘイトクライムやヘイトスピーチの被害に遭った人をサポートしてきたんだね。9・11テロの後は、忙しくなってしまったね」

「残念ながら、そのようだ。だが、ジョージやアリシアのように、同じ志の若い世代がいると思うと安心だ」

 2階につるされた風鈴が大きく揺れ、カズヤを称えるように長い残響を残していく。