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ピアノを拭く人 第2章 (1)

  彩子さいこは信号待ちをしながら、スーツ姿の男性が、道路に積もった落ち葉を無遠慮に踏みつけ、速足で進むのを横目で追いかけた。風にあおられた落ち葉が、彩子の車のフロントガラスにぶつかり、ワイパーの辺りに落ちた。

とおるさんは、今日カウンセリングしてくれる心理士さんに、もう会ったの?」
 彩子は助手席の透に尋ねた。長身の彼は窮屈な空間で、長い脚を持て余しているように見える。狭い空間で、手が届く距離に長時間一緒にいるのは初めてで、彩子はまだその距離感に馴染めていない。
「いや、俺も今日が初対面。強迫の症例を何百も経験してきた人だって、赤城あかぎ先生が言ってた」
「それは頼もしいね。そういえば、赤城先生って男性?」
「ああ、うん」透は少しだけ下げていた窓を元に戻しながら答えた。
「そうなんだ。忍さんっていう名前、どっちだかわからなかったから。でも、よかったね、薬づけにする先生じゃなくて。1種類しか出なかったんでしょ?」
 透は肯いた。
「強迫だから量が多めで、口が乾くけどな。薬で少し落ち着いたころ、1週間くらい入院して、ERP―エクスポージャーと儀式妨害(Exposure and Ritual Prevention)―を身に付けるって言ってた。あの先生、俺が小さい頃、同じピアノ教室だった……。発表会で連弾したことがある」
「え、それって、いいの? 知り合いだと、まずいんじゃない?」
「何十年も前のことだし、構わないだろう。向こうは覚えてなさそうだったから、俺も何も言わないでおいた」
 透は乱れた髪を直した後、以前彩子がお礼に添えたハンドジェルを取り出し、手に馴染ませた。透のつけているアラミスが、ハンドジェルの香りと混じり、マスクの上から鼻腔をくすぐる。
  透は、自分の顔や体、髪に触れた後は、他人に汚れをつけたくないので、必ず手を消毒する。彩子は、このご時世だから、彼の症状が目立たないのだろうと思った。


「私、赤城先生の診察に同席しなくていいの?」
 彩子は先週の初診に付き添うつもりで、本を何冊か購入して強迫症と治療法を勉強していた。だが、透がこの歳になって恥ずかしいと固辞したので、それも道理だと思い、それ以上は言わなかった。
「ああ、診察は、これからも俺1人で行くから。今日、心理士が症状と治療の説明をするから、できれば協力してくれる人に同席してほしいって言われたんだ。忙しいのに、ありがとう。午後休暇を取らせてしまって、申し訳ない。お昼抜きなんだよな。一緒に来てくれた上に、運転までさせてしまって本当に申し訳ない。今日は本当にありがとう」
 透が過剰な謝罪と感謝とともに、頻りに頭を下げる。
「それやめてよ。されたほうは、どうしたらいいかわからないよ。オフィスの密を避けるために、取れるときに有給を消化することが奨励されてるから問題ないよ」
 彩子は右折のウインカーを出しながら、ぶつぶつ言った。
「ねえ、診察とカウンセリングって同じ日にできないの? 通うの大変じゃない? 受付でお願いしてみようか」
「あ、ああ、いいよ。ドクターが空いてる日と心理士が空いてる日が合わないから、難しいらしい。無理言うのは申し訳ないし。正直、お礼言ったり謝ったりするのがしんどいんだ。十分に言ったかが気になって、言い足りないと、戻って何度も言いたくなるし」
「それなら、私が聞いてみるよ」
「いいよ。そうすると、俺も近くに行って、受付の人に、お礼とお詫びを言わないと気が済まなくなるんだ。今日はただでさえ、初対面の人と50分も話すから緊張してるんだから、余計なストレスを増やさないでくれると大変有難い」


 彩子はため息を飲み込み、ラジオをつけた。
 新型コロナウイルス感染防止対策が続くなか、外食を控える人が増え、飲食店の経営が厳しくなっているという趣旨のニュースが流れてくる。
「フェルセン、大丈夫だよね……?」
「実は、かなり厳しい……。俺以外は切ろうっていう話もある。俺以外はピアノ講師と音大生のバイトだけど」
 透が絞り出すような声で言った。
 羽生に疲労が目立つのは透のことだけではなく、経営悪化のこともあったのだ。彩子は自分の不明を恥じ、改めて新型コロナウイルスが社会に与える打撃に思いを馳せた。
「私、もっと通うね。今度は会社の友達も連れていく。それしかできないのが心苦しいけど」
「ありがとう。心配かけて申し訳ない」
「そうだ。フェルセンって、ぐるなびには入ってるけど、HPないよね。私、作ろうか? こう見えても情報工学専攻だから、本社のITの部署で、HP作成とかシステム構築を担当してたこともあるんだよ。SNSもいいね。きれいなお店だから、インスタ映えすると思う。羽生さんに相談してみるね」
「本当に彩子さんは頼りになるね。俺も頑張らないとな」
「彩子でいいよ。透さんは治療に専念して。ERPは、不安を呼び起こすものや状況にわざと何度もさらして、そこで強迫行為をしなくても、不安が下がることを学習する療法だから、覚悟が必要でしょう。治療がうまくいって、透さんが早く良くなれば、羽生さんも安心すると思うし」
「そうだね。あの店は、羽生さんが数学教師を定年退職した後に、奥さんと一緒に始めたんだ。奥さんが、『ベルサイユのばら』のファンで、フェルセン伯爵が好きだから、そこから店の名前をつけたんだ」
「ああ、やっぱり。そうだと思ってたんだ。ところで、奥さんには、お会いしたことないけど、元気なの?」
「うん。今は、福島にいるお父さんを介護するために、ほとんどそっちに行ってる」
「そう。羽生さん、寂しいだろうね」
「羽生夫妻は去年がんで死んだ俺の母と親しくて、俺を息子同様に気にかけてくれているんだ。俺が人と話すのが怖くて、母のために十分に病院に通えなかったから、代わりによく通ってくれて、医者の説明にも同席してくれた……。本当に頭が上がらない」
「以前、羽生さんも、自分は透さんの親代わりだって言ってたよ」
 透は肯いた。
「彼らがローンを組んでまで店を開いたのは、定年後の生きがいがほしいということもあったけど、俺に音楽を続けさせて、食べられるようにすることも理由だったと思う……。奥さんも家庭科の先生だったから、2人は年金で十分食べていけるのに……。母が亡くなる直前、ゆくゆくは、俺に店を譲るから安心してほしいとまで言ってくれた」
「それなら、何としても、この危機を乗り切ってほしいね」
「だからこそ、俺は病気とはいえ、羽生さんに負担をかけているのが申し訳ない。彼はローンを返済しなくてはならないから、店を閉めるわけにはいかないんだ。俺がしっかりして、立て直す手助けをしなくてはならないのに、逆に重荷になってる……」
「あまり思い詰めないで。彼らは貴方がそれに値する人だから、よくしてくれるんだから」
 彩子は、透の羽生の力になりたい思いが、治療に良い方向に作用することを願った。