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ピアノを拭く人 第4章 (4)

 

 強風で、車まで揺らされる昼下がりだった。どこからか飛んできた白いレジ袋が、彩子の運転するブルーのマーチのボンネット上を勢いよく滑っていった。


「透さん、フェルセンのInstagramとTwitterの更新、年明けから滞ってるでしょ? フォロワーも伸び悩んでる。強迫症の方を励ます配信に熱心なのはいいけど、お店のことも忘れないでね」
 彩子は愛車を右折車線に入れながら言った。
「すまない。今夜あたり、更新するよ。写真撮らないとだな……」
 透は肩を竦め、見ていたスマホをカバンにしまった。


「そうだ。このあいだの診察で、赤城先生に相談したんだ。いくらエクスポージャーを続けても、強迫行為で安心したい衝動は収まらない。そうなると、エクスポージャーを続けるモチベーションが落ちることもあると」
 透は正面を向き、一語一語を噛みしめるように語り出した。
「本当にそうだよね。透さん、すごく頑張っているのにね」
 彩子は戦友のような思いで、透に共感した。
「赤城先生は、自分でコントロールできるのは行動だけだというんだ。ハーバード大の強迫症の治療の権威が言うには、行動を変えた結果、次に感情、その後に思考が変化していくということだ」
「つまり、行動を変えてから、感情と思考が変わるまでには時間差があるということ?」
「うん。行動を変えても、強迫観念を和らげる儀式をしないから、衝動や強迫観念はむしろ悪化することもあるそうだ。だから、エクスポージャーに挑戦しても、感情と思考が変わる前にギブアップしてしまう人が多いらしい。先生が行動、感情、思考の変化率のグラフをコピーしてくれて、挫けそうになったら見てと言ってくれた。根気強くエクスポージャーを続ければ、感情と思考も必ず消失するから頑張れと」
「なるほど。そのグラフ、後で見せてね」
「ああ。俺は強迫観念に苦しめられるたびに、もう治らないんじゃないかと絶望的な気分になった。でも、これを教えてもらって、諦めずに続けようという気持ちになれた。赤城先生に巡り合えて本当に良かった。先生に安心してもらうために、俺は頑張るよ」
 透はさらに言い継いだ。
「配信の話、赤城先生も喜んでくれて、病院のHPにリンクを貼ってもらえることになった。Zoomセミナーにも参加してくれるって。コロナとエクスポージャーをテーマに、赤城先生と加害恐怖の俺、疫病恐怖のシオリで対談しようって。フェルセンから配信して、終わったら御礼も兼ねてちょっとしたパーティーを開くのもいいな」
 彩子は、こんなにうきうきした透を見るのは初めてで、自分の気持ちまで引き上げられた。



「最初は買い物に苦心したようですが……、ここしばらくは順調なようですね」
 桐生は透が持参した表に目を落としたまま、何度も頷いた。しんとしたカウンセリング室には、風が唸る音がかすかに響き、桐生が飲んでいたペパーミントティーの残り香が漂っている。
「はい。気になることができたときは、①放置する、無理なら②広げてしまう方法で対処することにしました。先日は、ずっと避けていた外食に、彼女と行けました」
「和食のコース料理だったんですよ。彼は、料理が運ばれてくるたび、お皿を下げてもらうたびにお礼を言っていました。口に食べ物が入っているときに、店員さんにお礼を言うのは失礼だと、食べるタイミングに気を遣っていて、見ていて気の毒でした。最初からハードルが高かったかと心配だったのですが、いまの方法で、気になることを忘れることができたようです」
「素晴らしいです。吉井さんは、ようやく、強迫観念に対処する独自の手段を見つけましたね。今、とても清々しい顔をしていらっしゃいます。何かきっかけがあったのですか?」
「赤城先生からお聞きかもしれませんが、入院していたときの仲間と、強迫症の症状が重くて外出できない人、コロナで通院できなくなった人たちに向けて、勇気を出して治療を受けるように励ます動画をYou Tubeにアップすることにしたんです」
「もちろん、聞いていますよ。私も参加させていただけるようで……」
「ぜひ、お願いします」
 透は深く頭を下げてから答えた。
「他人を励ます以上、やはり自分がしっかりしなければと思うと、頑張れました。今でも、強迫観念は怖いです。でも、観念に対する向き合い方が以前とは大きく変わったと思います」
「どう変わりましたか?」
「以前は、気になることを放置しようとしても、ずっと頭から離れずに苦しんだ経験が先に浮かんでしまい、そうなるのが怖くて強迫行為に走ってしまいました。でも、放置できた経験が増えていくと、今回も頑張ってみようと思えるようになりました」
「なるほど。成功経験を重ねていくことが自信になったのですね!」
 透は深く肯いた。
「それを続けていくと、以前先生がおっしゃったように、脳のオートマチック・トランスミッションが滑らかに機能するようになる、つまりギアチェンジができるようになるのでしょうか?」
 彩子は桐生に尋ねた。
「根気強く続けていけばそうなります」
 桐生は真摯な瞳で答えた。
「私も彼を強迫行為に走らせないように引き続き頑張ります」

「やはり、お2人は最強のコンビですね」
 桐生が透と彩子に視線を注ぎながら言った。
「ところで、いずれZoomセミナーを開くんですよね。私、お2人にERPを一緒に続けた経験を話していただければと思うんです。強迫は周囲の方まで巻き込む病気ですから、外に出られない患者さんはもちろんですが、それを支える方も疲弊しているので、お2人の経験に励まされると思います。もし、宜しければ、私が司会をさせていただいて、対談していただいても?」
「もちろんです。ぜひ、お願いします!」
 彩子は自分も参加できることが嬉しく、透が答えるよりも先に、身を乗り出して答えてしまい、恥ずかしさに首を竦めた。


「さて、今週もエクスポージャーの課題を決めたいと思いますが、買い物に関する課題は継続することにして、他に何か思いつきますか?」
 桐生はいつもの用紙を取り出し、2人に向き直った。
「あの、彼は店でピアノや歌を担当するだけではなく、調理を手伝うこともあるのですが、加害恐怖のために、ビニール手袋やマスクを何重にも重ねているんです。コロナ禍といっても、やりすぎだと思うので、どうにかしたほうがいいと思うのですが」
「でも、この時期ですから、衛生面で注意するに越したことはないと思います……」
「なるほど。コロナ禍だからこそ、どこまでが普通で、どこまでがやりすぎかがわからなくなるのですね」
 桐生は少し考えてから、思いついたように言った。
「お2人で、厨房が見えるお店に行って、料理人さんがどうしているかを観察してみてください。何が普通かわからない場合、他の人がどうしているかを見るのもいいと思いますよ。そこから、止めるべきことが見えてくるかもしれません。それを課題として書いてみてください」
「なるほど。それは参考になりますね。早速、行ってみます。ありがとうございます」
 彩子は桐生に相談して本当に良かったと思った。

「今日、時間があれば、一緒に近くのお店に行って観察したいところですが、少し厳しいですね。水沢さん、他に加えたほうがいい課題はありますか?」
 彩子は透のオールバックにした髪を見ながら切り出した。           
 「あの、彼、しばらく散髪に行っていないと思うんです。少しハードルが高いかもしれませんが、理容師さんと会話をしなくてはならない散髪に行ってみるのはどうでしょうか?」
「勘弁してくださいよ……。御礼や御詫びを十分に言ったか、声が重ならなかったかが気になるのが怖いんです」
「いいですね。やはり、パートナーがいると課題が見えやすいですね。散髪、歯医者さんの検診、インフルエンザの予防接種など、相手に手間をかけてもらう課題に挑戦してみましょうか。今の吉井さんなら大丈夫ですよ」
 透は不貞腐れたような顔で、マスクの中で溜息をついた。
「それでは、いつものように課題を決めて、達成度を◎、〇、△で記入し、そのとき感じたことも書いてきてください。次は再来週にしましょうか。ウェブか1階の受付で予約してください」
「はい。ありがとうございました」

 いつものように、2人を部屋の外まで送ってきた桐生は、最後に言った。
「Zoomセミナーの件、詳細が決まったら教えてくださいね。カウンセリングのときでも、私のメールに送ってくれても構いません」
「かしこまりました。カルロスたちと話して、先生方にご相談します。今日は本当にありがとうございました」
 桐生にお礼を言い、2人は軽やかな足取りで廊下を歩いた。


 透が1階の自動精算機で会計をしている間、彩子は少し離れた場所で、外来付近を行き交う患者や家族、スタッフの流れを観察していた。
 そのとき、廊下の奥から、目が大きく睫毛の長い女性スタッフが、白衣の裾を翻し、悠然と歩いてくるのが目に入った。肩までの髪には、軽くウェーブがかかっていて、華やかな目元を引き立てている。小柄なのに、妙に存在感のある美しい女性で、彩子は思わず魅入ってしまった。
「彩子、お待たせ。行こうか……」
 会計を終えた透は、近づいてくる女性スタッフに気づくと、気まずそうに目をそらした。
「あら、吉井さん、今日はカウンセリング?」
 女性スタッフは長身の透を見上げるように上を向き、歌うような声で話しかけた。
「ええ……」
 透は血の気の引いた顔で、視線を泳がせながら答える。
「こちらは、もしかして、いつも話してくださる恋人?」
 透が入院でお世話になったスタッフかと思い、彩子は慌てて名乗った。
「初めまして。水沢と申します。いつもお世話になっております」
 そのとき、女性スタッフの胸元のネームプレートが彩子の目に入った。

「医師 赤城 忍」

 彩子は体中の血がすとんと落ちていくような衝撃に襲われた。
「吉井さん、よくあなたのことを話してくださるんですよ。いつ、診察に一緒に来てくださるのかと楽しみにしていました。今日、お会いできてよかったわ」
「すみません。次回はお伺いします。今後とも宜しくお願いいたします」
 彩子は気力で平静を保った。
 赤城は、目元に春風のような笑みを浮かべて会釈し、靴音を響かせて診察室に入っていった。

「どうして嘘をついていたの? 赤城先生は男性って言ったよね」
 彩子はかすれそうな声で透に尋ねた。