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巡礼 7-(1)

 帰国した都には、教育実習と卒業に必要な単位の取得が待っていた。どうにか同級生と一緒に卒業できそうな道筋が見えたのは翌年の夏休みだった。教員採用試験の勉強までは、手が回らず、敢え無く敗退した。これから卒論と並行して、私立高校や塾を中心に就職活動をしなければならない。
 都はゼミ担当の教授に、日本に永住を決めた日系アメリカ人二世に関する卒論を書きたいと話した。教授は専門外なので最初は渋り、日系アメリカ人文学なら、何とか指導できるので、そちらはどうかと提案した。だが、最終的にはやりたいことがしっかりしている都を評価し、細部は結城のアドバイスを受けるという条件で承諾してくれた。


 夏休み中に結城の研究室を訪ねると、結城は卒論のアドバイスを快く引き受けてくれた。結城は単位取得と就職活動に追われる都の現状を聞き、帰米二世を受け入れるために設立された教育機関について、文献や一次資料を中心に卒論をまとめたらどうかと提案した。インタビュー調査は、方法を学び、調査の目的と質問事項をまとめ、サンプルを探さなくてはならない。そして、サンプルの予定に合わせてインタビューをしていると、実習や講義に出席するのが難しくなるかもしれない。結城は無理をすることで、すべてが中途半端に終わるのを危惧していた。

 結城の言うことは理解できた。だが、日本に定住した二世の声を記録したかっただけに、煮え切らない思いは残った。そんな都の気持ちを察した結城は、都にその気があるなら大学院の修士過程に入って本格的な聞き取り調査を行い、修士論文を書く道もあると言ってくれた。教員になるにしても、修士号を取得していれば、修士手当がつく。
 都は父に相談した。渡米前は生気がなかった都の瞳は、明らかに光を帯びていた。父は都が自分と同じ研究の道に興味を示したのも嬉しかったらしく、快く進学を許してくれた。結城が教鞭をとる大学院の入試まで、3ヶ月を切っていた。都は卒論より先に、研究計画書の作成と英語の勉強に時間を割かねばならなかった。大学院入試の英語は、英文読解と和訳が中心だった。アメリカにいるあいだに、英語文献の読解に取り組んでおいたのは正解だった。
 


 2000年春、無事に卒業と大学院進学を決めた都は、結城のいる東京郊外の私立大学に籍をおいた。結城はMISに関わった二世のオーラル・ヒストリーを記録するために助成金を得ていたので、都はリサーチ・アシスタントとして資料の複写やテープ起こしを手伝った。夏休みには、結城と東海岸に飛んで二世のインタビューの録音やメモ取りを務めた。結城の傍で、インタビュー手法を学べたのは貴重な経験だった。また、アメリカ国立公文書館で資料収集をする結城を手伝い、資料収集の方法を学べたことも大きな収穫になった。都は空いた時間に、自分の研究に必要となりそうな資料を複写した。


 修士過程1年目は単位取得に時間をとられ、ようやく自分の研究に集中できるようになったのは年末近くだった。都は日本に永住した二世を対象に、2つの国に対する帰属意識の変遷を調査しようとインタビューを開始した。

 まずは、結城に紹介された境遇の異なる5人の二世に会うことになった。
だが、2年越しの念願だったにも関わらず、いざインタビューに向かうとなると、不安と緊張で食事が喉を通らなくなった。結城のインタビューに立ち会い、方法は学んでいた。だが、自分には彼女のような温かさも知性も欠けている。人生の大先輩である彼らのところに、自分のような小娘が訪ねていって、心を開いてもらえるか。彼らが触れられたくない過去を聞き出す力量が、今の自分にあるかと不安は尽きなかった。結城のゼミには、北米の日系新聞の研究をしている先輩がいるが、自分も史料や文献研究を主とした研究テーマを設定すればよかったと少し後悔した。

 それでも、最初に訪ねた広島に住む老女が都を優しく迎えてくれたことで、緊張がほぐれた都は、その勢いでインタビューを続けてきた。結城に紹介された五人から、さらに四人を紹介された都は、最終的に9人の二世に話を聞けた。都の力量不足で心を開いてもらえず、表面的なインタビューになってしまった人物もいたが、彼らはおおむね協力的だった。

 9人目の人物は、都内の老人ホームにいた井沢(いざわ)という82歳の男性だった。父親がサンフランシスコで日本語学校の教師をしていたので、彼はそこで生まれ育った。彼は父親の意向で、二世が日本の大学に入る前に日本語や日本文化を学ぶ東京の日米学院に留学した。アメリカの両親も、日米関係の悪化を憂慮し、彼を追うように帰国したという。彼が慶應義塾大学で学んでいるとき戦争が勃発し、学徒出陣で入団した海軍で通信要員になった。支那で終戦を迎えて復員した後は、アメリカに帰るつもりだったという。だが、亡くなった戦友の家を尋ねるうち、その妹と恋仲になってしまった。男児がいない戦友の両親に懇願され、その家の婿養子になって日本に残ることを決めたという。都は彼から、数奇な運命をたどった二世が沖縄にいることを聞かされ、自分が彼を説得するので是非インタビューをしてほしいと言われた。


 2週間後、都は井沢から沖縄の二世がインタビューを承諾したと連絡を受けた。ただし、論文でその男の名前を出すときは、必ず仮名にするという条件付だった。結城は複雑なケースを予想し、同行しようかと言ってくれた。だが、いくつかインタビューをこなし、少しずつ自信をつけていた都は1人で沖縄に飛んだ。