「カモメと富士山」3
冷たいシャワーを浴びてベッドに横たわっても、バスローブの下の肌は熱を持ち続けている。
隣のベッドで、ルームメイトのミナさんがパソコンのキーを乱暴に叩く音が耳に障る。カリフォルニアの物件は家賃が高い。寮を選ばない学生は、何人かで部屋をシェアすることが多い。彼女がインターネットの掲示板でシェアメイトを募集していたので、私が日本から応募して成立した。
UCLAのメディカルスクールで研究するミナさんは、かなり年上だ。クールで口数が少なく、自分のことはめったに話さない。だが、アメリカ生活が長く、英語が堪能なので、何か相談したときは親身になってくれる。必要以上に干渉しない距離が私たちに合っていて、いまのところは上手くいっている。それを壊したくないので、キー音は我慢する。
私はジョージに惹かれている……。長身痩躯にさらさらの茶髪、憂いを含む神経質そうな目元、外見からは想像できない底抜けの明るさは、激しく好奇心を刺激する。日本人が好みだという彼は、ミステリアスな魅力で、たくさんの日本人女性を虜にしてきたに違いない。手ごわそうな予感がする。
私は父から長身、母から整った眼鼻立ちを譲り受け、それなりに頭が切れるので、恋人に困ったことはない。手に入れたいと思ったら、全力で自分のものにしてきた。恋人に執着したことはなく、去る者は追わない。この世界には、星の数ほど男性がいると思うと、次に出会える人への期待が寂しさを上回る。
ジョージは私に興味を持っている。渡米してから、アプローチしてくる留学生仲間はいるが、交際に至っていないので問題ない。流れに任せたい衝動が突き上げてくる。うまくいかなかったとしても、1年で帰国するのだから後腐れがなくていい。だが、カズヤだけではなく、亡くなった祖母や大叔父に見張られているような居心地の悪さが気持ちにブレーキをかける。
ジョージはそのためらいを突き破る勢いで距離を縮めてくる。シャワーを浴びた数時間後に電話があり、翌日の午後には2人でサンタモニカのビーチを歩いている。
私の語学学校は午前中で終わる。ジョージも夏休み中なので、日本人相手のツアーガイドのアルバイト以外は予定がない。2人の時間は大海原のように横たわっている。
ビーチを歩きながら、Tシャツとダメージジーンズ姿のジョージに尋ねる。
「今日は英語で話して。私は英語を上達させたいの」
「了解」
「あなた、西洋人の血が入ってる?」
「パパがイタリア系アメリカ人なんだ。ママは日系3世」
「そう。あなたは日本への興味が強いのね。日系人は皆がそうなの?」
彼はポケットに入れていた手を出し、海風に乱された前髪をかき上げながら答える。
「人による。兄弟や従弟の中で日系にこだわってるのは俺だけ」
「あなたは、どうして興味が?」
「子供の頃、グランパが日本アニメのビデオを買ってくれた。それに夢中になって、小学校から日本語を学び始めた。日本のアニメや漫画を日本語で理解できるようになりたかったから」
「日本に行ったことは?」
「まだなんだ。それより、君のことを知りたい。富士美っていう名前、Mt. Fujiと関係あるの?」
「多分ね。この名前は祖母の富士子がつけたの。私は母よりも祖母と容姿や性格が似ていたから、祖母は私を可愛がってくれた」
「なるほど。美しい君にふさわしい名前だ。君は何を専門に勉強してる?」
「Japan-US relations 日米関係」
「なるほど。外交関係?」
「そう。外交史」
「どうして、それを選んだ?」
「そうね……。アメリカへの複雑な思いがあるから。憧れと反発が同居しているような」
「どういうこと? もっと詳しく教えて」
「複雑だから日本語で話すわ。
私は、グローバル化が進行する時代に育ったから、英語やアメリカに憧れていた。ハリウッド映画で、異人種が当然のように一緒に働くオフィス風景を見て、自分もあんな場所に行きたいとわくわくした。だから、国境を越えて活躍するエリートを生み出すアメリカの有名大学に留学したくて、英語を学んでいたの。
でも、アメリカへの追随を余儀なくされる日米関係の構造を考えると、そこに組み込まれていくことに居心地の悪さも感じた。戦後の日本は防衛面でアメリカに依存せざるをえなくて、外交や貿易でも、忠実な同盟国としてアメリカの顔色を伺わなくてはならないのが現実でしょう? 冷戦が終わっても、大きな構造はそう変わらない」
「じゃあ、俺も日本語で話す。
確かにそうだね。でも、俺は日本にとって、悪いことではないと思う。アメリカのペリーが黒船で日本に行って、日本は国をオープンにした。黒船にショックを受けた日本は、植民地化されないように頑張った。アメリカやヨーロッパの技術や文化をすごいスピードで吸収して、軍も強くなって、アジアに植民地をつくった。
でも、日本のやり過ぎは、アメリカやヨーロッパを怒らせた。だから、日本は世界を相手に戦わなくてはならなかった。手痛い敗北で懲りた日本は、アメリカの忠実な同盟国として、顔色を伺いながら行動するようになった。
アメリカの寛容なサポートを受けて経済的に成長した日本は、アメリカに日本製品を大量に輸出して貿易摩擦を起こして、バッシングを受けた。やりすぎて叩かれるをリピートした日本は賢くなったんじゃないの? それに、日本が防衛をアメリカに任せているから、日本に侵略されたアジアの国々も安心して日本を受け入れてくれている」
彼の言うことはもっともだ。だが、アメリカ人の口から語られると、どうしても上から目線に聞こえ、苛立ちが突起のように立ち上がる。結局、アメリカは、日本が従順な弟でいる限りは寛容に受け入れるが、その関係を逸脱しようとすると潰しにかかる。アメリカにひざまずき続ける日本という構図が、構造化されてしまう。
「そのことはわかってるわ。
軍事面や経済面の依存と同様に、英語を身につけなくてはならないプレッシャーもずっとあるでしょう。
グローバル化が進んで英語は世界の共通語になった。だから、国は英語教育に力を入れた。それを反映するように、街には英会話教室が乱立して、英語教材は洪水のように出版されている。大学入試でも英語に比重が置かれて、入学後も英語を実用レベルに高めなければという切迫感につきまとわれている。結局、言語でもアメリカに従属させられている」
「俺は富士美が言ったこと全部理解できてないと思う。でも、英語が話せるメリットはある。日本語でどんなに素晴らしいことを発進しても、日本人と日本語がわかる僅かな外国人にしか届かない。でも、翻訳して英語で発信すれば、世界中の英語がわかる人に届く。だから、俺は日本文学を英訳して世界に発信したい」
彼の言うことは何も間違っていないが、言いようのない虚しさが、蜘蛛の巣のように胸に広がっていく。
日本の大学で受けた講義で、アメリカ外交史の教授が、高名なアメリカ人教授の著作の一部を読み上げ、自分は15年前に同じことを論文に書いていたとぼやいた。その教授の論文は、日本語で書かれたものだった……。今までに、どれだけの日本語で執筆された学術論文が、英語で発表されなかったが故に、相当な国際的評価を逃したのだろうか。
思考したことを適切な英語で話し、書く力は、簡単に身につくものではない。母語が英語ではない国に生まれたが故に、英語のハンディキャップを克服するために多大な時間と金を費やし、精神的苦痛も味あわねばならない現実が悲しくなる。その思いを吐露しても、アメリカ人のジョージには同じように理解してもらえないだろう。
その感情に蓋をして答える。
「そうね……。英語が十分ではない私のひがみでしかないのはわかってる。
だから、私は流暢な英語でアメリカと対等に渡り合って、アメリカとの密接な関係を利用して戦略的に日本の国益を推進できる外交官になれれば、この複雑な思いを克服できる気がする」
「ガイコウカンって、ディプロマットか……。それなら、文学とかアニメのcultural relationsも大切だよ。日本のアニメや漫画、文学、伝統芸能とかレベルが高いし、軍事力や経済力のようなハードパワーとは違うソフトパワーとして、日本の魅力を発信できる。それも、戦略的に日本の国益を推進することに貢献するだろう? 俺は日系アメリカ人として、そこに貢献したい」
「そうね。正直、そちらのほうは詳しくないの。文化や文学も苦手で、政治外交史の勉強ばかりしてしまう」
「ハハハ、はっきり言い切るのは気持ちいいね」
「格好つけても仕方ないでしょう」
「そういうところも気持ちいい。ところで、富士美は、いつもどんな本を読んでるんだい?」
「外交史以外の本では、外交官や政治家の回顧録が好き。アメリカ大統領や外交官の回顧録は結構読んでいるの。外交官に教養が必要なのは知っているから、夏目漱石とかも少し読んだけど、文学は苦手。あなたに教えてほしい」
「もちろん。好きな作家はいる?」
「法学部出身の三島由紀夫は、構成がしっかりしているから許容範囲。散文調だったり、叙述が延々と続く文学作品は無理」
「俺は堅苦しい政治外交が苦手。だから、俺たちはバランスが良い」
「ふふ、そうかもしれない」
「富士美、君は美しいだけじゃなくて、とてもスマートだ」
ジョージは歩みを止める。私の肩に手を置き、あごをくいとすくい上げると、最初は清らかに、2度目は甘く情熱的に口付ける。海に沈み始めた夕日に見守られ、私とジョージは唇を重ね続ける。潮風に乱された私の黒髪と、彼のさらさらの茶髪が2人の顔に絡みつく。波音と旋回するカモメの鳴き声が、私たちを祝福するように響く。
始まりになる言葉はなかった。だが、とても自然に始まった。燦燦と降り注ぐカリフォルニアの太陽とひょろりと伸びる椰子の木の下で、私の心と身体は大胆になる。ユニバーサルスタジオ、グリフィス天文台、ディズニーランド、サンディエゴシーワールドでのデートは、非日常感を醸し出し、私たちの関係は深まっていく。
★
図書館で語学学校の課題に取り組みながら、ふと目を上げると、まぶしすぎる陽の光が目を刺す。日本よりもからっとして、日差しの強い気候に、ようやく身体が慣れてきた。強烈な紫外線から肌を守るために、スキンケアは今まで以上に念を入れなくてはならない。
「水野さん」
背後から日本語で声を掛けられ、びくっとして振り向くと、見慣れた浅黒い顔が乾いた表情を浮かべている。
「課題終わりましたか?」
「大体ね。明日の予習もしないと」
朔くんは、同じ大学のラクロス部の後輩だ。交換留学先が同じになり、一緒に過ごす時間が増えた。彼は、向かいの椅子にだらりと腰を下ろす。
「真面目なんですね」
「真面目にやらないと、ついていけないでしょう」
「まあね。大学始まっても一緒だし、宜しくお願いしますよ」
「こちらこそ。いろいろ助けてもらうと思うけど」
彼は以前から私に好意を示している。大手ゼネコン社長の三男という恵まれた生い立ちからくる鷹揚な物腰と、ラクロスで鍛えた剛健な身体で、それなりにもてるらしい。
朔くんは口角だけ上げ、笑っていない目を向ける。
「アメ人の彼氏できたでしょう?」
彼は私の反応を探るような視線を向ける。
「俺も含め、ラブラブなのを見た奴がいるんです。日本人仲間のあいだで噂になってますよ」
ジョージは人目を憚らずにスキンシップをし、異国の空の下で大胆になっている私もそれに応じてしまう。狭い日本人留学生仲間のあいだで噂になるのは避けたかったが、頭のねじが緩んでいたらしい。
自己嫌悪に陥っていると、彼がホワイトニングを施したような歯でにかっと笑う。
「気にすることないですよ。水野さんは、堂々としているのが似合う」
「でも……」
「語学研修の奴らは、もうすぐ帰国します。留学組だって、羨ましいだけなんです」
彼は立ち直りきれない私に、さらっとした口調で続ける。
「気になるなら、奴と別れて俺と付き合いませんか? あのチンコがデカそうな男より、俺のほうがフィットしますよ。1回、試してみません?」
閉口する私に、彼は追い打ちをかけるように言い継ぐ。
「そのうち、イクときに、Oh Yeahと言うようになって、日本人とやるとき、外人と付き合ってたのがばれちゃいますよ。あそこもガバガバになります」
「いい加減にして! これから1年間、いろいろ助け合う同志になるんだから、そういう関係にならないほうがいいでしょう」
私が予習に戻ろうとテキストに視線を落とすと、彼は気だるい笑みを口元に浮かべる。
「わかりました。ラブラブのときには邪魔しません」
「何それ」
「俺に乗り換えたいときは、いつでも言ってくださいね」
こんなとき、ジョージなら相手の気持ちなど考えずに、ぐいぐい押してくるだろう。今の私には、見込みのない勝負を挑まない朔くんの緩さと賢明さがありがたい。
「そういうの誰にでも言ってるんでしょ?」
「そう見えます?」
私が頷くと、彼は一瞬心外だと言いたげな顔を見せたが、すぐに気の抜けた笑みが浮かぶ。
「まあいいか。明日、ランチご一緒しましょう」
「了解」
去っていく背中を目で追いながら、彼といれば日本語が話せて、肩肘張らずに付き合えると思うが、その考えを胸の底に沈める。
★
夏休みが終わるころ、ジョージは私が前から行きたいと言っていたレストラン「チーズケーキファクトリー」に連れてきてくれた。
私はマグロの乗ったサラダをジョージの皿に取り分ける。
「ねえ、Ahi Tunaって、どういう意味? これ、キハダマグロでしょう?」
「日本語では、キハダマグロと言うんだね。ハワイ語でAhiはTuna。だから、わかりやすいように、Ahi Tunaと書いてある」
「そうなんだ。覚えておくわ」
「さ、食おうぜ」
ジョージがブラウンレンズの眼鏡の奥から微笑む。黙っていれば、影のあるハンサムという言葉が似つかわしく、うっとりするくらい魅力的だ。
「そういえば、9月15日は富士美のバースデイだろ?」
「ええ」
私はクレオールソースで味付けられたサーモンを口に運ぶ。鮭にこんな味付けがあるのは驚きだが、とても美味しい。
「富士美の行きたい場所に出かけようぜ。どこ行きたい?」
「わあ、嬉しい。どこでもいいの?」
ジョージは、にっと笑い、ルパン3世の口調に早変わりする。
「ふーじみちゃんの願いなら、どこにでもさらっていくぜ」
「それなら、サンディエゴのホテル デル コロナドに行きたい。このあいだ、サンディエゴをドライブしたとき、車窓からちょっと見えたけど、とても興味あるの。歴代の大統領も宿泊したでしょう。館内を見て回るだけでいいの」
「いいな。これから大学で忙しくなって、ゆっくり会えなくなる。一泊しようか?」
「え、でも高いでしょう?」
「心配ご無用。ゴージャスナイトにしようぜ、ふーじみちゃん」
「あはは、嬉しい!」
「ハーイ」と鼻にかかる声がし、浅黒い肌に豊かな黒髪、パンツスーツ姿の女性がピンヒールをかつかつ鳴らしてテーブルの前にやってくる。
「ヘイ、アリシア!」
ジョージの顔に、陽が射すような笑みが広がり、さっと立ち上がる。二人はとても自然にハグをする。
「めずらしいじゃないか。コーヒー?」
「クライアントと打ち合わせを兼ねてね」
「相変わらず、忙しいのかい? グランパが、この間のチキンは最高だったと言ってたぜ」
「本当? じゃあ、また持っていくわ。カズに宜しく」
「ああ、またディナーにおいでよ」
ジョージの英語は、私と話しているときとは比べものにならないほど自然で、音楽が流れるように会話が進む。疎外感を覚え、一刻も早く彼女が立ち去ってくれることを祈る。
「ジョー、こちらは?」
会話が一段落した頃、女が斜に構えた視線を私に向ける。
「ガールフレンドの富士美 UCに交換留学で来てる」
「あら、初めまして。アリシアよ」
「富士美です、初めまして……」
「ジャパニーズ?」
「はい」
「今までのガールフレンドと同じように、ピュアでシャイなジャパニーズガールね。ジョーは、そういうお人形さんを可愛がるのが好きね」
アリシアは顔色を変えたジョージに構わず、私にふっと微笑む。
「あなたには必要ないかもしれないけど、ビザが必要なときは相談に乗るわ」
彼女はビジネスカードをさっと取り出してテーブルに置き、憐れむような眼差しを投げて去っていく。
「友達? とても親密だったね」
「近所に住んでるんだ。彼女はイラン系二世。移民、公民権を扱う弁護士で、困っている人は無償で支援してる。うちのグランパも弁護士で、引退後は憎悪犯罪や公民権関連の弁護を引き受けているから、たまに食事に招いて情報交換している」
「知的で格好いい人ね」
「そうだろ。スタンフォードのロースクール出身。ヘイトクライムの被害に遭ったイスラム教徒や中東出身者の弁護を積極的に引き受けている。彼女はペルシャ語とアラビア語が堪能だから、英語が話せない人でも安心して依頼できる」
「そう」
楽しみにしていたチーズケーキが運ばれてきたが、味わう気力が失せてしまう。ケーキと同じ高さに花びらのように盛りつけられたクリームが鬱陶しく映る。
「どうした、妬いてるのかい? 俺は富士美を大切に守りたいと思っているよ」
「ありがとう……」
英語さえまともに操れない私など足元にも及ばない学歴とキャリアを見せつけられ、ひどく打ちのめされてしまう。本来、私が理想とするのはアリシアのような立ち位置で、日本ではそこに立っていられた。ここでは、「ピュアでシャイなジャパニーズガール」と十把一絡げにされてしまうのだ。