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【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 後編

(前編はこちら

──「いかに」が大切、とはいえ……

篠村 例えばある演奏について、徹底的に奏法とか身体の使い方、ピアノだったら鍵盤へのコンタクトやペダリングとか、そういうことの分析だけで演奏を記述するレビューや評論に僕はすごく違和感を覚えるんです。その演奏家の音楽の組み立て方とか、演奏において何を優先しているのかとかは、分析するしその必要性を感じるんですが、その演奏家の音や表現のよって来るところをすべて奏法の次元で解明しようとすることには、やっぱり強い違和感があります。僕は確かに、言葉にならないことの「言葉にならなさ」は、それをどうにかして言葉にしてみようとしないことにはわからないと常に考えていますが、でもそれはちょっと違うんじゃないのかなと。

小林 まず思うのは、テクニックで説明することって、簡単だということ。誰が聴いても、「間違っていないこと」だから、とりあえずこの人はある程度わかってるんだと思わせることができる。あとは社会的、文化的に、技術優位性と言うのか、音楽の詩的な部分よりも、そういう技術っていうはっきりしたものについて話した方が評価される現状があるのかな? それを音楽に求めるのは確かに違うんだけど、例えば学会とかで論文を書くとか、そういうことになったときにはそれが使えるのかもしれない。でも、そういう内部の人にしかわからないような(ごく専門的な)ことは、内容が乾燥しているから、一般の方たちにとっては何の魅力もないことかもしれない。あとは、そういうことを言えば、その音楽を何もわかってなかったとしてもある程度話せてしまう可能性もあるよね(笑)。音楽について語っても、そこ(中身)まで言及できない人なのかなと私なら思ってしまう(笑)。ちょっときつい感想になるけど。

篠村 僕は、なんだかんだ言って、一握りの謎というか神秘というか、そういう理屈の通らないものを大切にしたい人間なんでしょうね。すごくあたたかい音を聴いたら、ゆっくりとしたタッチで、指の腹を一杯使って…とかそういうことばかりに注目するのって、面白いのかな?と思います。もちろん、実技のレッスンのときとかにはそういうことは非常に重要です。でもそうではない、聴き手として、人間として音楽を受け取るときには、そのあたたかさによって自分の心の中に何が生じたのかとか、そのあたたかさはその演奏家の人間のあたたかさでもあると信じるとか、そういうことの方が大切なはずです。芸術の捉え方として、あまりにある意味スポーツ的すぎます。今回の対談では、僕は「いかに」もやっぱり大事だという話をしているわけですが、それはそういうことではないんだということははっきりさせておきたかったんです(笑)。

小林 私もそれには同意かな。出てきた音で語ることであって、過程の部分が主ではない。もしも私が評論する側になったらと考えると、やっぱり怖いんだろうなと思う。音楽っていう抽象的なものを評論したりする上で、そこには「正しい」がないから。技術的じゃない部分を語る時って、批判される可能性もあるから、そういう意味では(技術的なことの指摘は)安全だからね。発表する、主張するっていう行為自体、重いことだから。
 最近、演奏会評やCD評をしているの人の話を聞いていたんだけど、読者から「より客観的に書いて下さい」というコメントをもらうことがあるらしい。そもそも主観と客観で話すのは難しいんじゃないかと私は思うんだけど、そのような狭間の中で書いているんだなって知ると、彼らの葛藤を私は全然知らないんだろうね。文学の中では評論は自己表現の一種とされているみたいだけど、音楽の評論は立ち位置が少し違うのかな? でもこれも「何を」「いかに」伝える事だなと思います。話脱線しちゃったね(笑)。

──結局は両者のバランス

篠村 以前拝聴した小林さんの『月光と海月』では、音響によって人間のあいだの溝を超越する、音響空間のなかで自他が一体になる、そういうことへの挑戦のようなものが主題だというのが僕の解釈だったんですが、小林さんのなかではそれはやはり中心的な主題としてありますか?

小林 そうですね。特に当時は、はじめて海外で暮らして……。あの作品のテーマは、詩があるけど、それもテーマが決まってから選んでいて。最初に考えていたのは、距離で愛の表現は変わるのかっていうことだったと思う。目の前にいる人に愛を伝えることと、数千キロ離れているところからインターネットを介して愛を伝えることとの違いとか。あとは「言語の壁」みたいな、人と人とのあいだにあるラインをどう超えるのかということも考えていた時期だった。あの曲も、音列とかいろいろと考えつつ、最終的に音響がどうなるかを考えていた。それでも、結局手法って一番大事なことではない。最初の話とは矛盾するけど(笑)。

篠村 でもそれは、音列っていう横の論理的な連なりではなくて、縦の包容的な全体像、全体的な集合としての響きのほうに力点を置くというのが、小林さんの「やり方」だということではないですか?

小林 今回の場合そうだね。あくまでも道筋として音列を使った部分が大きくて、海の中にずっといるような、その場面に覆いかぶさる音響が欲しかった。「何を伝えたいか」というテーマによって自分の中の優先順位が変わるから、それによって「やり方」が決まっていくんだと思う。でもいろいろな表現の仕方、どういう手法を取るのかって、話していくほど陳腐になっていくのが嫌なことだけど(笑)。

篠村 さきほど(前編)はフィクションを例に話しましたが、それとは逆に、最近の音楽には主題がなくて、手法だけで建物を立てているような作品や演奏が多いと感じています。

小林 うんうん、そうだよね。結局は(「何を」と「いかに」の)バランスっていうことになる。例えば緊迫性のある、音楽のなかでぎょっとさせるような場面があったとして、そういうときに技術は必要。その前後関係をどうするか、どうそこに持っていくかとか。いろんなことは確かに考えているけど、表現したいものがまずないと、その工程に意味がない。

篠村 音楽が極めて抽象的なものだから、なんとなく主題を具体的に考える労から逃れてしまいがちなのかもしれません。他の芸術にも、形式だけで成り立っているようなものはありますが、音楽はそれら以上に、手法だけで成り立ちやすい要素を持っているのかもしれません。「これを表現したい」というのがなくても、雰囲気や理論だけでできてしまう。

小林 そういう意味では調性ってすっごく便利じゃない(笑)? それこそ手法としてすごく力を持っていて、私たちの耳としても経験が積まれていて。テーマがなかったとしても、例えばタイトルを付けるだけで聴き手が解釈できてしまうし。

篠村 機能和声の持っている方向性、緊張があって解決があるその引力は強力で、ミステリー的なところがありますね。ミステリーなんかは特に、主題がなくても成り立っている例をイメージしやすいと思うんですが──ある事件の解明のプロセスや犯人の動機を明かしていく快感だけで作品が成り立っていて、特にその物語を通したメッセージはないという──、小林さんの仰る「主題を持たない調性音楽」は、それに近いものがあるかもしれませんね(笑)。
 ただ、僕はやっぱり、表現者っていうのは何か言いたいことがある人、一般的な言語とか概念では表しきれない言いたいことを言うために表現していると考えているので、そういう人間からすると、主題がないのに表現する、というのは正直不思議です。

小林 私はちょっとその気持ちがわかる部分もあって。例えば、ある主題を表現したくても、そのための手段を自分が持っていない場合、主題と手法を繋げられないっていうことがある。そこをなんとか追い付かせなきゃって思ってやっていると、主題を大事にしている暇がなくなってきて、そうしていくうちに、テクニックだけでも褒められるようになって、これでいいんだと思っちゃう。私も留学した時に最初に言われたのが、「君の技術はよくわかったし、よく書けてるけど、君の喜びって何?」だった(笑)。日本ではそれでよかったかもしれないけど、その自分は捨てていいよとも言われて。それでちょっと困ってしまって。年齢を重ねて続けている作曲家は、やっぱりテクニックだけで書いてない。テクニックだけでいくと今度は精神的についていかなくなる。最近は特にそう感じています。

──主題の選択にアイデンティティが反映される

篠村 小林さんが最近まで留学されていたことなどもあって、直近の小林さんの作品に触れられていないので、その上での話になりますが、私の印象では、小林さんの作品は音楽が受肉しているというか、実体のない音楽に肉が与えられている、そこに官能性、身体的な痛み、そういうものが音に落とし込まれているように思います。それは「いかに」して生まれているんでしょうか?

小林 ありがとうございます…! でもそれは、そういう風にしか「書けない」んだよね(笑)。

篠村 分析的に説明しきれないものがそう「させている」と。

小林 やっぱり自分で選ぶでしょう。肉体的な表現がもともと好きなのもあるし、そういう音楽を聴きたいと思うし、そういう音楽を演奏者に演奏してほしいと思ってしまうから、選択してしまうんだよね。あとは、そんなに器用じゃないから(笑)、他の表現をあまりしないというのもある気がするな。それを選択せざるを得ないという感じ。主題に何を持ってくるのかっていうこと自体が、その人が何に惹かれるのかということであるわけだし。でもそれは、作曲家のタイプにもよると思う。私みたいに、音楽の外にあるものを音楽で表現しようとする人と、あくまでも音楽の中にあるものでやろうとする人、作曲家のタイプってこの二つに大きく分かれる。今日の話も、後者の作曲家に訊いたら、どういう答えになるんだろうと思います。

篠村 不純物がないというか、音楽のなかですべてが完結している、人間のいろいろなものがまとわりついていない音楽や演奏は、僕も自分の対極にあるなと感じています。そのなかでも惹かれるものとあまり共感できないものとがあります。

小林 私はあくまでも外から問題意識をもってくるタイプで、そういうことしかできない(笑)。

篠村 その「できない」っていう感覚はすごくよくわかります。よくわからないけど気付いたらそのことばかり考えてしまうんですよね。

小林 やっぱり心に触れない、引っかからないものを書くことはできないから。

──さまざまな「いかに」

小林 あとは、「どう表現するのか」を、「どう伝えるのか」というのも難しいなと思う。

篠村 作曲家はその作業もありますね。

小林 そう。演奏家に伝える必要があるから。楽譜を書くという方法が今後残るのかはわからないけれど、それがある前提で、どう書いたらどう伝わるのかということ。頭のなかで想像したものを楽譜に落とすのだけど、完全一致は絶対にしないから、それをいかに伝えるか。それは経験で学んでいくんだと思うけど、そこでもやっぱり人が出るね。人の楽譜を見て、「ここの表現はこう楽譜書くのか、なるほど」と思わされることもある。小説家にもそういう問題がありそうだなと思います。

篠村 でも小説はいきなり読者に届きますが、やっぱり音楽は演奏家がそこに入るから、ちょっと違ったものがありますね。映画や演劇にも、俳優が入りますが、撮影や稽古の段階で脚本を書き換えたり、俳優に直接演出することができる。音楽は、演奏を創り上げる過程に作曲家が立ち会うこともありますが、基本的にはほとんどを演奏家に委ねるようなかたちですよね。そういう意味では、一番複雑な過程を経て伝達されている表現なのかもしれません。

小林 バルトークくらいの時代から、楽譜文化の意味が一段変わったというか、細かくなった。文化として書かなくてもわかるよね、みたいなものがなくなっていって、そういうなかで作曲家も表記していくか。最近の作曲家には、(どう弾くかを示すための)動画を用意している人もいる。そういうのを見ると、やっぱり私たちも文化の中に生きているんだなと感じますね。

篠村 例えばシューマンはリタルダンドのあとにア・テンポを書かないことが多い人ですが、バルトークの時代以降ではありえないことですよね(笑)。

小林 ありえないね(笑)。
 あとは、「何を伝えるのか」「どう伝えるのか」の他にも、「どうやって届けるのか」という問題もある。どうすれば興味を持って聴いてもらえるのか。そういう「いかに」についても考えないといけないと思います。

篠村 そうですね。それこそ、今日の話もあくまでも音楽や芸術にもすでに関心のある人に向けられているものですからね。あとは、『月光と海月』のところで小林さんもおっしゃった、主題によってふさわしい手法が変わってくることなど、まだまだこの話題で話を広げられそうだなと思いましたが、改めて。ありがとうございました。

(構成・文:篠村友輝哉)

小林瑞季(こばやし みずき)
1993年生まれ、奈良県出身。4歳からピアノ、高校から作曲の勉強を始める。桐朋学園大学音楽学部にて作曲専攻を卒業、声楽(メゾソプラノ)を副専攻として卒業。同学園の研究科修了。ジュネーブ州立高等音楽院作曲科、修士課程を修了。
国際コンピュータ音楽会議に2017年上海、2018年韓国、2019年ニューヨークにて入選。 (2019年はICMA Student Travel Grantとして参加。) 2013年ピティナ編曲オーディションにて、課題曲選出とYAMAHAから楽譜出版されている。これまでに桐朋学園主催作曲作品展、音大作曲科交流演奏会、桐朋木の香りコンサート、7人の作曲家展等において作品を発表。 作曲を香月修、金子仁美、福士則夫、土田英介、Michael Jarrell、コンピュータを莱孝之、Luis Naon、Gilbert Nounoに、ピアノを三輪郁に、声楽を薗田真木子の各氏に師事。Stefano Gervasoni、野平一郎各氏、メキシコ打楽器アンサンブルグループ”Tambuco”によりマスタークラスを受講。スイス政府優秀奨学金奨学生。2021年、2022年Hans Wilsdorf財団、Hélène et Victor Barbour財団奨学生。


篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学大学院音楽研究科修士課程修了。修士論文はシューベルト。これまでにピアノを門脇潤子、菊地邦茂、寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)アジア大会銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、かさま音楽賞受賞。
演奏会では独創的なプログラムに定評があり、2022年12月のハーフリサイタルでも「夜」「闇と光」をテーマとした演目構成が好評を博した。
専門のピアノ音楽を中心に幅広いジャンルの音楽評論を執筆。芸術音楽の魅力や可能性を散文を通して思考、表現する試みを行っている。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間と2021年の半年間、エッセイ・評論の連載を担当、好評を博した。2021年、師である寿明義和氏のアルバム『EINEN NEUEN WEG~新しい道を』のブックレットにエッセイが掲載される。
活動は多岐にわたり、実技指導、音楽講座、コンクール審査なども手掛け、文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
(公式サイト)https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/


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