【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 前編
──「いかに」の重要性
篠村 「何を」と「いかに」について、僕自身は、大学の頃なんかは断然「何を」の方が大切だと考えていました。そこには、音楽大学という環境の、「どう弾くか」「どう楽譜を読むか」を訓練することにあまりに特化しているようなところに対する反発も含まれていたような気がしています。やっぱり、弾き方や読み方だけ知っていても、その先に描きたいものがなければ、それらは中身のない容器のようなものになってしまうからです。最近はその考えに変化が生じてきて、今では「いかに」の方も同じくらい大切だと考えるようになりました。今日はこの「何を」と「いかに」の関係やバランスについてお話できればと思っています。小林さんはこの両者について、まず総合的にどのように考えていらっしゃいますか?
小林 私は、やっぱり主題、伝えたいものがまず中心にある。でもそれを聴き手に伝わるようにどう表現するのかを考えることは、作曲をする過程では外せないことだと思う。例えば美しいものを表現しようとしたとしても、それは創った本人にしかわからない部分というのもある。それをどこまで伝えられるかとか、それ自体に関して価値を感じてもらえるかどうかとか、作曲者自身はいろいろ考えているけど、耳に届く人たちにとっては、それより前のどう表現されているのかっていうところがまず感覚的に感じられる部分だから、そこが美しくないと、主題まで辿り着いてもらえない。だから、そこはかなり大事になってくると思います。
篠村 確かに、自分の好きな演奏家とか作曲家って、その人の音自体がもう好きなんですよね。映像作品でも、好きな監督はトレーラーの時点ですでに良い(笑)。そこにもうその表現者の個性が出てしまっているんですよね。
いまフィクションの世界で、ある社会問題を扱っているだけでもう合格というか(笑)、そういう見方をしてしまう流れがありますよね。でも、例えば格差の問題を主題にするなら、その格差問題を「どう描くか」「どう扱うのか」ということこそが重要じゃないですか。その描き方に、作者の思想や世界観が表れる。同じことを言っている2つの文章があったとして、言っていることは同じなんだけど、こっちの文体のほうがスッと入ってくるな、納得できるなとか、そういうことってたくさんありますよね。
小林 そうですね。主題はそこに作者本人の熱意とか想いさえあれば、極端な話、割と何でもいいなって思う。主題があるのは当たり前というか、表現において前提であって、そこに縛りは基本的にないから。「HOW」が結局勝負どころ。主題が、これまでそこに目を付ける人はいなかったっていうような相当な意外性のある場合もあるかもしれないとは思うけれど。「創る」「創造する」という点では、「どう描くか」はやっぱりかなり大きい。作曲っていう行為自体は「どう表現するのか」に割いていることがほとんどかもしれませんね。その行為をするまでに「何を表現するのか」があるから。小さいテーマでも、表現の仕方によってはすごく素敵な曲ができる。
篠村 それはほんとにそうですね。あらすじを要約してしまったら何ということはない話でも、描き方によってすごく面白い、深い話になっている、というような例はたくさんあります。
──「踏み込んだ演奏」の是非
篠村 演奏における「いかに」ということに関して、このシリーズでも何度か話題にしているのですが、僕はここ数年、一般的には「異端」だとか「過激」だとか言われることもある、「踏み込んだ演奏」をする演奏家に強い関心を持っています。タイプはさまざまですが、指揮者のアーノンクールとか、歌曲デュオのプレガルディエンとゲースとか。小林さんは、かれらのような演奏について、どのように捉えていますか?
小林 私は小学校の時、グレン・グールドが大好きで、「こんなにカッコよくバッハ弾いちゃうのか」って思って聴いていたことがあって。それはまあ(今にして思えば)ちょっと浅はかな部分もあったけど(笑)、そういう音楽への理解の仕方があってもいいんじゃない、という感じかな。かれらは、的外れなことはしていないと思う。いまコンクールで、「こうすれば新しい解釈でしょ」みたいな、そういう演奏がブームだと聞くことがあるけど、注目を集めるために作曲家よりも自分としての自己表現の方が勝ってしまっているのは本末転倒。私はよく、演奏家は「通訳者」、フランス語で言う「interprète」だと言っているんだけど、それは通訳者ではなくて作家になってしまう。そこを超えなければいい。その演奏家が、自分にとってはこういう演奏がこの作曲家の演奏としてはベストなんだと思っていることが感じられる演奏だったらありだと思いますね。
篠村 ちょっと長くなりますが、社会学者の大澤真幸さんに『〈世界史〉の哲学』というとても面白いシリーズの本があって、その「近代篇2」のなかで、美術における写実主義から印象主義への転換において何か起きたのかを論じている箇所があります。クールベのような、ある対象を可能な限り見たままに忠実に描こうとする動きの写実主義から、どうしていきなりその対極にある、モネのような対象の「印象」を捉えた印象主義が出てきたのか、ということですね。結論だけ言うと、写実主義と印象主義を駆り立てているものは、同じ情熱であると。印象主義は、写実主義以上に、その対象を忠実に描こうとしているのだと大澤さんは論じています。印象主義は、写実主義が捉えなかった、目に見えない太陽の光や陰影までをも含めて画面に描こうとしていて、その結果として、写実主義とは対極にあるようなものが生まれている、というわけです。
つまり、再現できないことをも再現しようとすると、事態の表面的な「再現」という観点からすると破綻が生じるということです。僕はこれを読んで深く納得すると同時に、「踏み込んだ演奏」についても、これと同じことが言えるのではないかと思いました。作曲家が楽譜に記号として書き切れなかったもの、たとえば楽譜に音を置く前の混沌としたようなものまでをも演奏に体現しようとした結果、アレグレットがレントになったり、休符の長さが異様に長くなったりする、表面的には楽譜から逸脱するような演奏が生まれるというわけです。異論反論はあるでしょうが、ほんとうに作品の核心に迫ったときに、正確性というものが崩れることがあるのかもしれません。
小林 わからないけれど、それを実行しようとするのは、演奏家としての範囲を一歩抜けているなという風には感じるかな。良い悪いは別として、ある種コンポーズしていることにはなる。それに嫌悪感を抱くかどうか、というところかな。難しいところだよね。何を(演奏から)聴いているのかにもよるし。私は例えばバッハを聴くときは、やっぱり構築美みたいなものを感じたい。そうなったときに、楽譜から逸脱しすぎた時に、それが感じられなくなってしまうことがある。それを保ったまま一歩踏み出す演奏というのは、なかなかできる人はいない。そういう構築美の観点で聴いてない作曲家も私はいるけど、すべての作曲家をバッハを聴くときのような感覚で聴いている人もいる。
篠村 僕が「ベートーヴェンはあまり良くないけど、ショパンを弾かせたらほんとに素晴らしい」と思う演奏家に対して、逆の感想や、ベートーヴェンも素晴らしいと思う人もいます。縦を優先するのか横を優先するのか。拍を優先するのか旋律線を優先するのか。それこそ「いかに弾くか」の話ですが、解釈以前のその段階ですでに演奏家の個性は出てしまうんですね。
──「新しさ」への興味
篠村 ただ、自分が全くのオリジナルな作品を創るという仕方でこの世界に関わっていないから思うことなのかもしれませんが、僕は手法的な「新しさ」にそれほど興味がないみたいなんですよね。作曲家の方って、「新しい音」の発見に並々ならぬ情熱を持たれている方が少なくないじゃないですか。それは音楽を創る側としては当然の感覚なのかもしれませんが、僕はそこに関してはあまり関心がないんです。だから、解釈に関しても、さっきの話とは矛盾するようですが、別に新奇な解釈をことさら求めているわけでもないし、演奏するときも意識的にこれまでになかったアプローチをしようと思うことはほぼありません。別に新しくはなくても、自分という場に響くものがあったらもうそれで十分という感じなんです。小林さんは、やはり「新しさ」にはこだわりがありますか?
小林 私はもともとはすごくあったよ(笑)。未来を見るのと過去を見るのと、どっちが好きかにもよると思うんだけど、宇宙に行ったことのない人が、宇宙に行って月に到達したらどんな風になるんだろうっていうのと同じような感覚かなあ。感動には技術的な感動と人間の心に来る感動といろいろあるなかで、それは技術的な感動にあてはまるものだと思っていて。私は割とそれをワクワク感じるタイプではあるかな。でもそれって、過去に起きていたことをひも解いて知っていく考古学者とかが、過去の人類を新たに知っていくワクワクと、ある意味方向が違うだけで似ているんじゃないかと思う。人間が未知のものを知るっていう、そういった感動。それに、新しい技術が増えるということは、どう表現するかのパレットが増えるということでもあるから、それは嬉しいことだよね。最近は、渋谷のネオンとか、ああいう光をどうやったら音楽で、電子を使わずに表現できるんだろうって考えています。ああいうぎらぎらした感じはアコースティックの音楽でできるのかできないのかって(笑)。
篠村 ああ、そう言われると僕にもそういう感覚は確かにありますね。ただ、そういう感動のなかには、専門家には伝わるけど、そうでない門外漢からすると「だから何?」って思われるだろうものもありますよね(笑)。もちろんだからと言って意味がないわけではないですが、そういう外側の視点というのは常に意識していないととは思いますね。
後編につづく(こちら)
(構成・文:篠村友輝哉)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?