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見えない檻──アレックス・オリエ演出、大野和士指揮のビゼー《カルメン》(「Tiaa Style」連載「耳を澄ます言葉」より第5回)

 昨年オンラインで視聴した、アレックス・オリエ演出、大野和士指揮によるプッチーニのオペラ《トゥーランドット》は、このオペラを荘重な悲劇へと変容させ、格差社会やマチズモ、犠牲を美化する思想への痛烈な批判を展開した、現代的で鮮烈なものだった。
 そのコンビによるビゼー《カルメン》が今年の7月に上演され、10月からオンライン配信が始まった。私はライヴに行くことが叶わなかったので、こちらも配信で視聴した。
 今回の演出では、設定は現代の日本に置き換えられ、自由を勝ち取ろうとするカルメン(ステファニー・ドゥストラック)は、現代に於けるその象徴であるロック歌手に読み直された。その他のあらゆる要素も、現代の何らかを象徴するものとして意味が与えられ、また舞台美術面に於いても構築的なため、シャープだが、無機質な演出だったとは言える。対照的に、大野指揮東京フィルの演奏は、人間的な生命力に満ちたロマン派の香り豊かなもので、これを、無機質な演出に演奏が生き生きとした彩りを与えていると感じるか、演出と演奏とが乖離していると感じるかは紙一重だろう。
 ステージではハバネラを粘りつくような節回しで歌って媚態を示し、熱狂を集めるカルメンだが、登場シーンでは対照的な姿が提示される。暗いセットの裏で煙草を吸おうとするが、ライターの燃料が切れていて火が付かない。ホイールを苛立ちながら独り何度も回す姿には、華々しさの陰で彼女の抱えている孤独が滲み出ていた。彼女の自由への渇望は、自由であることそれ自体に囚われてしまったために決して満たされることはなく、麻薬の密輸に関わるなど堕落してゆく。
 カルメンを取り巻く大衆は徹底して風刺的に描かれる。カルメンとマヌエリータの喧嘩のあと、カルメンを擁護する者たちと責める者たちとが携帯を手に罵り合う様は、ネットの「炎上」を想起させた。また、何らかのフェスティバルに置き換えられた第3幕第2場で、レッドカーペットを歩くモデルや俳優と思われるセレブたちにやはり携帯を向けて寄り集まる大衆も、無邪気ではあるが、大野が合唱とオーケストラを壮麗に響かせるほどに、その滑稽さが際立つ。カルメンに付きまとうドン・ホセ(村上敏明)は、カルメンその人ではなく彼女の艶やかな姿にのみ執着し囚われる者として描かれていて、大衆の心理を象徴するような存在と言っていい。
 物語のすべては、鉄パイプが規則的に組み立てられた、息苦しく冷たい檻のもとで繰り広げられる。カルメンたちの目に、檻は檻として見えていない。最後はホセがカルメンを刺殺し、嬰ヘ長調が悲愴に響き渡る中、檻が完全に閉ざされる。人間はいつも、様々なかたちで何かに囚われ、気付かぬ間に見えない檻に囲まれてしまっているのだろう。

(東京国際芸術協会会報12月号)

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