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果てしない夜闇に消えゆく孤高の音──ヴァレリー・アファナシエフ『ショパン:ノクターン集』【名盤への招待状】第1回

 聴衆は、演奏家に「その演奏家にしか弾けない演奏」を求めている。演奏家も、「なぜ私が弾くのか」という問いを常に抱えている。
 名曲の名曲たる所以は、作品世界の多義性にある。一通りの解釈しか不可能な作品は名作とは言えない。その作品が名曲であるならば、その解釈は、演奏家の数だけあるはずであり、さらに、ひとりの演奏家の中にも無数の選択肢がある──つまり、ある意味無限に成立するはずである。同じ作品から、演奏家によって聴きとるものの違いのことを、個性と呼ぶのだろう。
 しかし、「自分にしか聴きとれないものを聴く」ことは、誰もができることではない。とりわけ、演奏史の長い、ポピュラーな作品ほど、パターン化された解釈が染み付いてしまい、真に「自分の耳で聴く」ことが困難になる。また、音楽教育を長く受けていく中で、良くも悪くも身に着いてしまった通念が、「自分の耳で聴く」ことの妨げになることもしばしばである。
 ピアニストのヴァレリー・アファナシエフは、どの作品からも彼にしか聴き取れない闇を聴き、それを演奏に叩きつけ、通念を突き崩す。以前、東京国際芸術協会会報に寄せたアファナシエフについてのエッセイに、「ムンク(画家のエドヴァルド・ムンク)は、「見えるものではなく、見たものを描く」と語ったという。アファナシエフもまた、表面に聞こえている音ではなく、その底に響き渡っている闇の音を聴き続けている」と書いたことがあるが、彼の演奏を聴く度に、未だ聴いたことのない深刻な絶望の響きに接し、その作品に対する自分のイメージが転覆してしまうような衝撃を受ける。彼の演奏がしばしば「エキセントリック」と評されるのはそのためだが、聴き手は、それを好むと好まざるとに拘わらず、その楽曲についての再考と、自らの価値観の反省を迫られる。近い芸風のピアニストに、イーヴォ・ポゴレリッチがいるが、ポゴレリッチが鋭敏で破壊的なのに対して、アファナシエフは鈍重で破滅的である。
 数ある名盤の中から、今回は『ショパン:ノクターン集』(選集)を取り上げることにした。

 まず、聴く前に、CDを手にした段階で驚くのは、裏面に記載されたそれぞれのノクターンの演奏時間である。異様なまでに長い。(アファナシエフの演奏をよくご存じの方には改めて言うまでもないが)彼の演奏の特異さのひとつには、この演奏時間の長さ──つまりテンポの遅さや間(ま)の長さ──があるが、このアルバムはそれが特に顕著なもの(のひとつ)なのではないか。例えば1曲目の作品9-1は、通常5~6分で演奏される作品だが、アファナシエフは8分8秒もかけて弾いている。作品37-1や作品48-2に至っては、なんと10分以上かかっており、ショパンのノクターンの演奏で10分もかかるというのは、いよいよ異様な事態である。
 この異様に遅いテンポと長い間で、和声の緊張感を保つことや旋律線を描き切ることは至難の業であるはずだが、無論アファナシエフは必要なことはすべて成し遂げている。よく聴いていると、どこか否定的なニュアンスを込めて世の中で言われているほど「エキセントリック」な演奏なのだろうか?と思えてくる。好みの分かれる極めて個性的な演奏であることには間違いないだろうが、音楽の秩序は整然と保たれているし、何よりあの孤高の光を纏った音は、奇を衒った演奏家には出せないものだろう。かつての私もそうだったが、彼に貼られた「異端」というレッテルのために聴くことを躊躇してしまっている人こそ、先入観を捨ててじっくり聴いてみて欲しい。
 ひたすらに沈潜してゆくテンポ感と、弛緩しない和声感によって、ノクターンという作品の時間だけでなく、空間までもが押し広げられ、果てしない夜闇が広がってゆき、その空間に向かって、旋律を、孤独が突き刺さったような音で放ってゆく。そしてアファナシエフは、そのひとつひとつが闇に消え切るまで耳を傾け続ける。音の行方を最後まで見届けるその営みは、彼の「音楽は静寂から生まれ、静寂に帰る」という言葉をそのまま体現しているものであろう。
 最後に、これは余計な断りかもしれないが、お分かりの通り、この演奏はショパンのノクターンのスタンダードな解釈とはかけ離れたもので、これから初めてショパンのノクターンを聴くという人が、この演奏からこれらの作品に入るのが「正しい」のかどうかはわからない。私自身は、そういう人がいてもいいし、いるべきだとも思うが、読者の中でノクターンをこれから聴こうとしている方は、この点は少し気に留めていただければと思う。

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