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限りなく繊細な思慮深さ──ヴィクター・ローゼンバウム『A Beethoven Trilogy』【名盤への招待状】第3回

 人が一生の内に出会える人の数が限られているように、人が一生の内に出会える演奏の数もまた、限られている。音楽好きであれば一度は聴くことになるような演奏家もいるが、音楽好きというだけでは必ずしも聴く機会が訪れない演奏家もいる。自分の知らなかった演奏に出会い、心を震わせる度に、演奏への様々な想いと共に、「ああ、世界には私が一生聴くことのできない素晴らしい演奏が無数にあるのだろうな」と、「まだ出会っていないものへの名残り」を感じる。
 桐朋の修士課程に在籍していたとき、大変な音楽愛好家の知人から、ピアニストのヴィクター・ローゼンバウムのアルバム、『A Beethoven Trilogy』をご恵送いただいた。私はこれでも、音楽誌などで常に取り上げられるわけではない演奏家に(も)関心を持ち、彼ら彼女らの演奏に耳を寄せている方だとは思うが、当時、ローゼンバウムのことは全く知らなかった。
 そしてその演奏は、予想を遥かに上回る、深みに満ちた本当に素晴らしいものだった。調べると、アメリカでは高名なピアニストで、来日も重ねていて、なんと桐朋でもマスタークラスを開いていたことがあったらしい。これほどの演奏をする人のことが、今まさに彼がかつて指導に来たことがある場に在籍している自分の耳にさえ伝わっていない。ある演奏家の知名度はその芸術の深みを表すものでは全くないということを改めて確信し、そういう音楽界の現状を問題に感じた。
 作曲家や演奏家が背負う苦労に比べれば、作品や演奏についてあれこれ述べることのそれはずっと少ないだろう。或いは苦労の種類が違うと言うべきかもしれない。それは演奏を専門に学んできた私自身も実感していることではあるが、しかし批評家や評論家にも同程度の存在意義はある。ここでそれについて詳しく書くことはできないが、書き手の重要な仕事の一つには、こういう演奏家のことを少しでも世に伝えていくことがあるのではないかと私は思う。
 だからこの記事も、その一端を担うことになれればと願って書いている。

 このアルバムに収録されているのは、ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタである。これらの作品は、しばしば「至高の精神性」といった言葉と共に語られることが多いが、ローゼンバウムの演奏は、超越的な世界へと至ろうとするものというより、あくまでも今隣にいる親しい人に内面を静かに語っているような演奏である。ローゼンバウムの息吹によって内から光を広げてゆくような音と、ゆったりとした運びの、しかし沈潜するわけではない落ち着いた語り口には、その隣にいる人に対する思いやりのようなもの──自分が語るだけでなく、こちらの内面にも耳を傾けてくれているような優しさが感じられる。
 第30番や第32番の終楽章では、変奏ごとの曲想を際立たせようとする演奏も少なくない中で、彼は主題の歩みをそのまま引き継いでゆき、その中でひとつひとつの変奏に宿ったものを愛おしむ。第32番第2楽章の第3変奏のような躍動する場面でも、ローゼンバウムの表現はやはり穏やかで慎ましい。しかし力感に乏しいわけではなく、第31番の最後に満ち満ちる柔和でありながらも眩い輝かしさなどは、3作全体の語り口が穏やかなだけに印象的である。
 そして、私が最も魅力的だと感じるのは、その神秘的なまでに美しいピアニッシモである。ベートーヴェンが楽譜にピアニッシモと記した箇所で、ローゼンバウムは、弱音の限界に挑もうとしているようにすら思えるほど声を絞る。そっとそっと、まさにささやくようにして奏でられるピアニッシモは、作品を決して傷つけないように、限りなく繊細な思慮深さで彼がそこに寄り添っていることの表れであろう。
 今という時代には、こういう音楽こそがもっと聴かれるべきなのではないかと、本当に思う。

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