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片栗の花に気づく―田部京子

東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」にて2019年の1年間担当していた連載エッセイ『ピアニストの音の向こう』(1月号~6月号)『音楽と人生が出会うとき』(7月号~12月号)より数篇、noteでも公開することにしました。
今回は、前者の第3回に掲載された、師であるピアニストの田部京子先生についてのエッセイを公開します。

 高校の時、担任の先生が学校通信に「片栗の花にも気づく人となってください」と書いていた。文化や人の感情までもが流行として矢継ぎ早に消費され、喧騒に満ちているこの時代に身を置いていると、片栗の花を通り過ぎてしまう。片栗の花に気づき得る精神は今、失われつつあるものだろう。
 田部京子先生の弾くピアノの音には、静けさが染み透っている。以前、東日本大震災の犠牲者への、また、未来への祈りとして捧げられたリサイタル(2016年3月11日)を聴いたとき、その1曲目、カッチーニ(吉松隆編曲)の「アヴェ・マリア」の最初の1音から、涙が溢れた。ひとつひとつの音が、静けさが染み透るほど澄み渡っているがゆえに傷を負っていて、その傷ついた祈りに、心にしまいこんで固まっていた苦しみが、溶け溢れだした。
 先生の演奏は、常にそうした傷や心の翳を映し出しているが、昨年9月28日、グリーグのピアノ協奏曲の第1楽章のカデンツァを聴いたとき、改めて先生が宿しているものの深さに接した気がした。
 そこで田部先生は、満腔の孤独を表出していた。内面の激情が地の底から燃え立ち、やがて奔流のように放たれる。グリーグの叫びを正面から引き受けてゆく毅然とした壮麗さに、孤独が際立つ。
 昨年はCDデビュー25周年にあたり、12月19日には記念リサイタルが開かれた。ショパンの前奏曲作品45、シューマンの交響的練習曲、シューベルトのソナタ第21番が演奏され、夾雑物のない透明感と、情感を汲み尽くす濃密さとが共存する、先生の世界の1つの極みを聴くことができた。
 聴いていて、時間がゆっくりと流れてゆく。それは、先生が作曲家の心のささやきを聴き逃さないように、一心に耳を傾けていることの表れであろう。
 その根底には、悠揚迫らざる精神の流れがある。もし精神の流れが乱れていたり、性急であれば、ささやきなど耳に入らない。和声の移ろいの機微や、旋律を織り成す音と音の間に秘められた作曲家のささやきを、その静謐な音ですくい取り、傷を知っている大きな愛で包み込む。聴いているこちらも、先生の精神のゆるやかさに浸され、聴き逃していた声、見逃していたものに気づき、胸の内側からあたたかな静けさが広がってゆく。
 田部先生の演奏は、私が通り過ぎてしまっている片栗の花の存在に、気づかせてくれる。    

(初出:東京国際芸術協会会報 2019年3月号。一部加筆修正)

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