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「今ここ」ではない場所へ(「Tiaa Style」連載「耳を澄ます言葉」より第3回

 リヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』を知ったのは、大学三年のソルフェージュの授業のときだった。先生が、ピアノで第3曲「眠りにつくとき」の冒頭の一節を、巧みな転調の例として弾いたのである。聴いた瞬間、絡み合う官能的な音が生み出す魔力に惹き込まれ、授業が終わっても旋律と和声が耳から離れなかったのをよく覚えている。
 全篇、ロマン主義の極限と言うべき魅力に満ちた作品だが、中でもその第3曲は格別に私を陶然とさせてくれる作品で、単独で何度聴き返したことか知れない。
 今は、ジェシー・ノーマンのソプラノとクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による名盤で愛聴している。冒頭、全曲を貫くこととなるモチーフが、低弦によって夜の大地の息のように浮かび上がってくる。それが小節ごとにゆっくりと音域を広げながら、空間を静かに響きで満たすと、ノーマンの柔らかく馥郁とした声がそこに加わり、歌い上げる。行き先を求めて転調を重ね、いつしか安らぐべき場所が見えてくると、響きは宙に浮き透明になり、その場所の美しさへの感動のために声を失ったかのように歌が途切れ、ホルンの優しい音に導かれて変ニ長調のそこへ辿り着く。歌の代わりにヴァイオリンのソロが、恍惚とした旋律を綿々と繋いでゆく。やがて歌がそれを受け継ぎ、管弦楽と共に大きく高揚し、壮麗な耽美の世界が立ち昇ってくる。
 そこから、音楽はいよいよ陶酔の度合いを高めてゆく。止め処なく溢れ出すゼクエンツ、7度の悩ましげな跳躍の連続、そしてそれを彩る、脆く濃密な和声。それらが生む交響の一瞬一瞬が、あまりに甘美で、去り難い。匂い立つ精彩を研ぎ澄ませてゆくノーマンとマズアたちの演奏は、まさに過ぎ去ってしまうその一瞬一瞬に留まろうとするかのように、或いは一瞬一瞬を引き延ばそうとするかのように、一つ一つの音の音価を限界まで汲み尽くす。痺れが肌を走り、過ぎ去るものと訪れるものが、音楽と私が、そこで溶け合い同化する。
 ヘルマン・ヘッセによる詩は、私の解釈で要約すれば、人生に疲れた者が深い眠りに入り、夜の神秘の世界に飛び立ってゆき、そのままそこに生きることを選ぶ──つまり現実に於ける死を迎える、というものである。
 音楽に身を委ねて「今ここ」ではない場所へ行く。その体験への願望自体、現実の人生に対する落胆や絶望から生まれているものだろう。シュトラウスの音の魔力の正体は、その美しさに伴っている暗い影なのかもしれない。

(東京国際芸術協会会報10月号)
画像:Photograph of Strauss conducting (about 1900?)From Wikipedia

補足説明:活字になった自分の文章に瑕疵を見つけて、「あれほど読み返したのにどうして気づかなかったんだろう」と落胆するのは、細かいことを含めれば実はほぼ毎度のことだが、この「「今ここ」ではない場所へ」には、気づいた人にとっては少々大きい誤りがある。
 それは最後から二番目の段落、ヘッセの詩の要約の部分である。ヘッセの詩では、この内容が「~を望んでいる」「~しようとしている」などのように、願望形で書かれているのだが、拙稿ではそれらの願望がすべて叶って完了したかのように書いてしまっている。
 あれほど詩の内容を確認したのに、なぜそうなったのか。落胆しながら考えていると、それはまさにシュトラウスの音楽が、詩に歌われている願望を叶えているように私には感じられたからではないかと思った。ヘッセが歌った夜の魔法の世界への希求は、シュトラウスの音楽によって叶えられている。だから、私は詩の内容もその願いが完了したものであるかのように要約してしまったのではないか。
 以上のことから、今回の再掲載にあたって、この誤りは執筆時の私が感じていたことの反映とみなし、訂正しないことにした。

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