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生の肯定

東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」にて2019年の1年間担当していた連載エッセイ『ピアニストの音の向こう』(1月号~6月号)『音楽と人生が出会うとき』(7月号~12月号)より数篇、noteでも公開することにしました。
今回は、後者の第5回に掲載された、ホアキン・アチューカロのピアノと大野和士さん指揮東京都交響楽団の共演(2019年9月)についてのエッセイを公開します。

 生は不安や苦悩と不可分である。具体的な例示は避けるが、生には保証が何もないからである。それらは、日々胸の裡で膨らみ続けている。私たちは、その存在に気づきながらも、日常を保つために直視せず、平静を装って生きている。
 ホアキン・アチューカロのピアノと大野和士さん指揮東京都交響楽団による、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いた(9月8日、東京芸術劇場)。第1楽章の展開部から主要主題の再現での悲劇的な高揚のあと、その余韻の中でピアノが歌う個所で、涙が溢れた。アチューカロのヒューマンな歌い口に、ラフマニノフの悲しみが染み渡っていて、それが、膨れ上がった不安や苦悩と呼応した。
 アチューカロのピアノの音は、真珠のような柔らかい輝きと丸みを持つ。その珠が、ホールの隅々まで澄んだ響きを広げながら、美しい軌跡を描いて駆けてゆく。声高に感情を訴えることはないが、静謐な中に躍動や情熱を秘めていて、彼が音を重ねてゆくごとに、こちらの心も静かに熱を帯びてくる。
 大野さんの指揮する都響も、おおらかな余裕の中に推進力があり、情感の繊細な移ろいも洩らさずに掬い取る。コンチェルトにおいて、オーケストラを「伴奏」と呼ぶことは誤りだろう。聴いている間、私の心の動きが音楽の心の動きとほとんど一体となっていたが、その感覚は、アチューカロのピアノだけでなく、大野さんの指揮もなければ生まれなかったに違いない。
 全曲の終盤、音楽はハ長調の輝かしい響きへとまっすぐに突き進んでゆく。彼らの演奏にはしかし、単にひた走るのではない、それまでの苦しみをいたわるような優しさが満ちている。コーダで高らかに歌われる副次主題も、歓喜を爆発させるのではなく、柔らかい力強さで聴き手を包み込んでくれる。
 小説家の平野啓一郎さんは、「生きていること自体を肯定的に捉えられる思想を、文学を通じて語っていきたい」と言う。考えてみれば、芸術に触れるという行為自体、生そのものを肯定してくれる何かに出会いたいという願望の表れなのかもしれない。私たちは、何のために生きているのか、なぜ生まれたのか? という悩み方をするが、それがアプリオリに規定されてしまうことの方が苦しいのではないだろうか。生そのものが肯定されるならば、それに伴う不安や苦悩も、受け入れられるかもしれない。
 ハ長調が会場を満たし、生きていてよかった、と思った。    

(初出:東京国際芸術協会会報 2019年11月号)

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