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夜を想う(「Tiaa Style」連載「耳を澄ます言葉」より第4回)

 人と話していて、言葉を探している間に話を進められたり、別の話題に移られてしまうことがよくある。
 たんに私の思考の速度がのろいだけなのかもしれない。しかし現代人が、解決を急ぐあまりに、相手の話をよく聴き自らの内に染み込ませる時間、何かを言う前にそれは語るべきことなのかと立ち止まって自問する時間を失っているのは、間違いないだろう。
 昨今、希望を語る紋切り型の表現が消費され、「寄り添う」や「小さな声を聴く」といった言葉までもが流行語のような浮薄さを帯びてきてしまっているのも、そのためではあるまいか。
 このところ、ショスタコーヴィチの音楽に強く惹かれている。彼の傑作群には、心を圧し潰す暗い世界の中で、本当に聴き取るべきものを聴こうとし、本当に語るべきことを語ろうとした者の厳しい精神が息づいている。峻烈な内省と懐疑のもとに置かれた音は、人間の欺瞞を映し出して暴いてしまうほどに透き徹っている。
 例えば、ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調。第1楽章には、「夜想曲」というタイトルが付いているが、ここには感傷を誘うものとしての夜はなく、ショパンのそれのような伸びやかな歌もない。五嶋みどりさんの、苦しげな慎重さで音を身体の芯から絞り出すような演奏で聴いていると、ショスタコーヴィチが、そのもはや歌える歌など無い夜の底の底にいながらも、そこにまだ微かに響いている歌はないかと耳を傾け続けていることがわかる。
 第2楽章の諧謔も捻じれ、残酷な音が舞い踊っている。五嶋さんは特徴的なリズムを鋭角に切り込んで強調し、クラウディオ・アバド指揮ベルリンフィルと共にそれを狂気にまで高めて聴く者の耳に刻み付ける。ショスタコーヴィチのそうした鋭さは、音楽が情感に流されることを許さないが、続く第3楽章では、厳粛な管弦楽の響きの上で、失われた歌への憧憬のようなものが意外なほど切々と奏でられる。しかしそこにはやはり歌い切ってしまうことへの怖れがあることを、五嶋さんのヴィブラートは明らかにしてゆく。
 弦を擦ることで自らの精神を削ってまでいるかのような彼女の演奏は、カデンツァに入ると凄絶な没入をさらに深め、音が空間を切り裂き、その裂け目から氷のように冷たいほのおが噴出する。そして最高潮を迎えたところで終楽章に突入すると、音楽は激しい自嘲に一変する。苛烈な展開だが、今聴いていると、その嘲笑が、尤もらしいことを語るばかりで内省を忘れた私たちに向けられているように感じられてしまう。
 夜を想い続ける厳しさがなければ、夜明けは訪れない。

(東京国際芸術協会会報11月号)
画像:第一交響曲発表当時のショスタコーヴィチ(1925年)from Wikipedia

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