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想像力を刺激する音楽の対話──クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース『シューマン:詩人の恋 ほか』【名盤への招待状】第4回

 感動という言葉を、慎重に使うようにしている。あまりに安易に使われていることへの反発心もあれば、ものを書く人間として、感動という言葉に逃げたくないという思いもある。心動かされても、そこにその言葉を使う必然性を相当程度感じない限り、「感動した」と直截的に書くことはあまりない。尤も、日常会話やソーシャルメディアへのちょっとした投稿ではさすがにそこまで拘っていられないので、もっと気軽に使ってしまっているのだが。
 では、私はどういうときに感動という言葉を使う必然性を感じるのか。改めて振り返ってみると、それはやはり、そこに意外性があったかどうかによっていると思う。何かを聴いたり読んだり観たりする前には、人はたいていの場合、意識的にせよ、無意識的にせよ、鑑賞中の自分、或いは鑑賞後の自分がどの位満足しているか、予想しているものだろう。私がどうしても「感動した」と言いたくなったときは、必ずその予想を遥かに超えて、あるいは予想もしなかった思いがけない部分で心が激しく動いたときだった。
 2018年11月9日のテノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによる歌曲リサイタル(トッパンホール)もそうだった。その日はオール・シューマンのプログラムだったのだが、それは前半の最後の曲、《リーダークライス》作品39の最終曲「春の夜」で起こった。
 この曲は好きな作品ではあるが、その日の最大の聴きどころだとまでは思っていなかった。ところがその曲に入って、ピアノの嬰へ長調の和音が降り注ぎ、歌が込み上げてくると、訳も分からず涙が溢れ出した。喜びとも悲しみとも、切なさとも苦しさとも言い切れない、日常を生きる中で凝り固まってしまったあらゆる感情が、音楽によって溶け出したのだろう。震える心を抑えきれず、演奏が終わって拍手を送っている間も、彼らの姿は曇り続けていた。
 ここはその演奏会について詳しく書く場ではないのでこのくらいにしておくが、とにかくその時、私は感動という言葉はこういうときにこそ使われるべきだと思った。そして、この二人の芸術家への敬愛の念をさらに深くしたのだった。
 今回は、彼らの比較的新しい録音で、その日の後半でも演奏されたシューマンの《詩人の恋》をメインに据えたアルバムを取り上げることにした。

 常人なら何事もなかったように通り過ぎてしまうであろう小さな事象の一つ一つに、ときに大きく心をときめかせ、ときに激しく悲しむシューマンの脆く傷つきやすい内面を映し出した、極めてデリケートな演奏である。シューマンには、その和声の吸引力や肉付きをたっぷりと表出する濃厚な演奏もあるが、彼らは、むしろそれらが消えていく儚さの方に心を寄せているように感じられる。
 再生されてからたっぷり4秒ほどの間を取って流れてくる、第1曲「美しい月、5月に」のゲースの序奏は、花びらが瞬間ごとに透明な空気に溶けてゆくよう。ゲースの音は、いつもここではないどこかから聞こえてくるような幻想的な柔らかさを湛えている。そして、詩の音律を丁寧に旋律に乗せてゆくプレガルディエンのおおらかで落ち着いた声は、歌の中に語りがあり、語りの中に歌があるということを感じさせてくれる。
 閃きに満ちたゲースのピアノと、情感豊かでありながらそれに流されないプレガルディエンの歌が織りなす音楽の対話は、ハイネの詩とシューマンの音楽の内奥から無数の色、匂い、肌触りを引き出してゆく。
 悲しみを花の匂いのする夢に溶かしてゆくような第5曲「私は私の心を沈めたい」、声高にせず逆に抑制することで情念の渦を表出する第7曲「私は恨まない」、夢の揺りかごに揺れているような、連ごとの魅惑的な変化に酔う第14曲「毎晩、夢に君を」、そして第16曲「昔の忌まわしい歌」の、まさしく詩人の密やかな息づかいそのもののゲースの後奏……と聴きどころを挙げればきりがない。
 カップリング曲のワーグナー《ヴェーゼンドンク歌曲集》、シューマン《レーナウの詩による6つの歌曲とレクイエム》も無論名演である。前者は神秘的な恍惚をその繊細な表現で描き出し、後者では作品自体の色合いもあり、《詩人の恋》よりも翳の濃い表情を見せ、最後の「レクイエム」では振幅の大きいドラマを聴かせてくれる。
 それを「感動」と呼ぶかどうかはそれぞれだが、聴く者は、彼らの繊細にして大胆な音楽の対話に、想像力を刺激され、心に何事かを喚起せずにはいられないだろう。

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