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【「音楽家である前に人間である」とはどういうことか】五十嵐沙織×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第7回 前編

 第7回は、今企画で初めて、はじめましての方との対談です。ピアニストの五十嵐沙織さんです。
 今回五十嵐さんに対談をお願いしようと思ったのは、先月の22日に、第1回の寺内詩織さんがオンラインコンサートに出演された際に共演されていたのが、寺内さんの盟友である五十嵐さんで、そこでの流麗で、人間的な素直な演奏に惹かれたことが始まりでした(その演奏会にも触れているエッセイはこちら)。それから、五十嵐さんのブログを拝読し、そこに綴られていた言葉に共感や興味を抱き、一度も面識がないので悩みましたが、思い切って打診をしたところ、快く応じてくださいました。
今回は、彼女のブログを読んで、これこそいま五十嵐さんが話したいことではないか、と思った【「音楽家である前に人間である」とはどういうことか】をテーマに据えてみました。今般の状況によりオンラインでの初対面ということで、うまく話が運ぶか、私も少々緊張していたのですが、いざ話が始まってみると五十嵐さんの穏やかで明るいお人柄のおかげもあり、予想以上に話が弾み、愉しい対談となりました。

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五十嵐沙織(いがらし さおり)
1989年、東京都出身。小学校3年生で初めて経験した室内楽で、人と演奏することの楽しさに目覚め、在学中より、伴奏や室内楽を中心に、演奏活動を行う。また、演奏における身体の悩みから、自分を識り、身体的に自由に演奏すること、自分らしく在ることを探究しつづけている。
桐朋学園大学研究科を修了。 2017年より上野学園大学•同短期大学部伴奏要員を務める。

ーー「自分の演奏」を探して

篠村 音楽家である前に人間であれ、とはよく言われることですが、それはどういうことなのか。今回はそんなことを中心にお話していければと思います。まず、音楽の話から入っていこうと思うのですが、以前は「自分の演奏」ということを忘れてしまっていて、「自分の演奏」ということを意識できるようになったのは最近のこと…というようなことをブログに書いていらっしゃいましたよね。「自分の演奏」という意識をもつようになったきっかけなど、そのあたりからお聴かせいただけますか。

五十嵐 一番最初は、大学4年のときに、このままだと自分の師匠がいないと本番を迎えられないと思ったことかな。だから、大学を出て次の研究科での2年間を、師匠から離れても自分で本番を迎えられるようになる準備をする期間にしようと思った。高校3年間と大学4年間の7年間は、ちょっと先生も怖かったし(笑)、もともとの性格もあるけれど、私は自分の師匠にものすごく従順で、「自分の演奏をする」というところまで意識がいっていなかった。1から100まで先生の言う通りに演奏していた。そういう要素って、音楽を学んでいる人みんなの中に(程度の差こそあれ)あると思う。先生が良いって言ったらよくて、判断基準が自分の価値観じゃなかった。他人の価値観に評価されることを基準にしていたから、ある意味そのおかげで選抜演奏会で演奏できたりしていたけど、果たしてそれが自分の演奏だったのかという疑問があった。
 私は、(音楽の原体験のなかで)小学校のときの室内楽の経験が一番の喜びだった。だから高校以降もアンサンブルがやりたくて、いろいろな人と合わせてきたのだけれど、そうすると、その合わせる人の先生のレッスンに一緒に行くことがあるでしょう? するとそこには自分の師匠とはまるで違う角度からの意見や、「根本的に何かが違うのでは?」と、自分を全否定されたような気持ちになったこともある。そういう経験が重なって、「自分の演奏」への問いかけが始まった。

篠村 よく音楽の師弟関係について思うのが、生徒が先生に対して、ちょっと信仰心と言ってしまえるほどのものを持ってしまっているということが多いことです。師弟関係は非常に密接ですから、そういうことが起きる危険性は常にあります。そこで大事なのが、無理に納得しないということです。一回、そのアドバイスを考え直してみるくらいの距離間でいた方が、自分の視点というものを失わないまま先生の教えを取り込める。もちろん他者からの助言を受け入れる素直さも大切ですが、他方でそれに対して抱いた疑問に正直になってみるというのも大事です。僕は、教師と生徒という構図が最初にあるから、教師自身がそういうことを言っていかないと、生徒がなかなかそういう自分を肯定できないんじゃないかと思うんです。自分の考え方感じ方とは違うものも受け止める、そういう大きさが指導する者には必要なのではと思います。

五十嵐 そうだと思う…!

篠村 僕はそういう指導者になりたいと思っていますが、ただもし生徒が、作曲家の書いていることをないがしろにするような演奏をしていた場合に、それを厳しく指摘する、というようなことは必要です。生徒自身の感性を伸ばしていくということが芸術の教育にとって最も重要です。その違いが個性なわけですから。
 あと、レッスンの現場で、「音楽以外の芸術にも触れなさい」と言われる場面がありますよね。僕は音楽以外の芸術や表現物も好きで、日々親しんでいますが、でも僕は別に音楽のために他の芸術に触れているわけじゃなくて、あくまでもその芸術自体を楽しんでいるんですね。それが巡り巡って、音楽になにがしかの影響を与えるということであって。人生経験もそうで、もちろん人生経験というのは表現において重要ですが、音楽のために経験があるのではなくて、まず人生というものがあって、それが次第に表現に反映されていく。何か経験したその次の日からいきなりその影響が表れるということはないわけです(笑)。そんなに短絡的なものではないと思いますね、人生と音楽の結びつきって。

五十嵐 そういう経験ってさ、「演奏に生かす」って言われるじゃない? それも私よくわからなくて(笑)。それって、(自発的に生かそうとするものではなくて)自分が本来の姿を表せば表すほど、知らぬ間に出ているものだと思う。音の表面的な部分じゃなくて、その裏の部分に出てくるというか。レッスンではここはフォルテでとか表面的なことを言われることも多いけれど、実は人が聴いているのって、そういう部分だけじゃなくて、むしろその音楽から感じ取る部分というか。

篠村 そうじゃないという人もいますが、僕も音楽に人間というものは出るものだと思っています。聴いていて、その演奏者の顔が見えない演奏は僕はあまり面白いと感じません。そしてそれは、出そうと思って出すものではなくて、ある意味出て「しまう」ものなんですよね。

五十嵐 そう、出て「しまう」ものだよね。

篠村 その演奏者の才能とか技術が優れているほど、それが露わになる。滲み出てくるものだと思います。

五十嵐 それが面白いよね。

ーー自分の意志で音楽をやっているか

篠村 「音楽のために生きている」「音楽のために何かをする」という言い方があんまりしっくりこないんです。僕はむしろ、「生きるために音楽をやっている」という感じなんです。

五十嵐 それは、篠村くん自身がそういう実感をもって音楽をやっているということ?

篠村 そうです。演奏に限らず、音楽を聴くことも、それについて文章を書くこともですが、自分という存在を保つために、音楽が必要だという強烈な実感があります。でも、「音楽のために生きる」っていう言い方というか考え方だと、自分の生を音楽のために犠牲にしていることになりますよね。僕は犠牲の上に何かが成り立つっていう考え方は不健全だと思うんですね。

五十嵐 私もそう思う…!

篠村 やっぱり、音楽が先にあって、そのために自分が生きていると考えてしまうと、音楽をやるということが自分の人生の中でアプリオリに規定されてしまっているような、音楽が「やりたいもの」ではなくて「やらなければならないもの」のように感じられてしまうんですね。それが自分の実感と合わない。今自分が存在しているということにおいて音楽が必要なのであって、音楽のために自分を生かしているというのではないんですね。だから僕は、表現を極めるためには厳しさが必要だとも思っていますが、人間的な生活を音楽のためにないがしろにするというのは、あんまり美談に思えないんです。よく、そういうエピソードが立派なこととして語られるじゃないですか(笑)。

五十嵐 多いよね、本当に。やることが音楽って決まってて音楽をやっている、自分が音楽家だから音楽をやる、という順序になってしまっている。私自身がそういう生き方をしてきてしまっていたのね。やっぱり本番があって、それに向けて練習して準備をしてというサイクルが、私たちにとっては学生の時から当然になっていて、時に寝る間を惜しんで練習してっていう事実があるじゃない。でも最近は、カレーを作ったり植物を育てたり…(笑)、ピアノ以外のこともたくさんしているけれど、本当に今までの人生で一番豊かになっている。
 思い返すと、研究科を出る頃に、今後どうしていこうと考えたときに、私は大学の嘱託伴奏員の先生方に憧れがあって、伴奏員だったら自分に合っていて、できることかなと考えた。でもそれって、まったく何の条件もなく考えたことではなくて、自分を音楽家という枠に当てはめて考えたときに一番いい答えがそれだった。それで、実際伴奏員になることができて、夢だったんだけど、それが仕事になってみると、まあ消耗するのよ(笑)。

篠村 そうですよね。

五十嵐 だって、誰かに「この曲をやるので伴奏してください」と言われたからやることであって、自分の衝動からくる演奏ではないわけで。その経験も重要だったけれど、いつも葛藤があった。演奏するときは「仕事の音楽」にはならないようにといつも思っていて、それは自分の魂みたいなものが許さない。どんなに忙しくなっても、毎回の演奏で喜びや発見や新鮮さを失わないようにと思っていたのだけど、そもそものスタートが、自分が弾きたいかどうかに関わらない、相手からの依頼だったことに気が付いて。だけど今は、自分(の内面)を第一に考えている。自分のやりたいことや考えていることを注意深く見ていないと、私は人に頼まれたこととかを優先しちゃう性格なんだけれど、それはおかしいなと思って。音楽に限らず、自分を表現するのであれば、それがどういうことなのか、自分はどういう人間なのか、自分の気持ちを聴いてあげる、そういうことが大切だと思う。

篠村 やっぱり、演奏において、自分の内発的なものがないと表現に切実さが生まれませんね。自分がどうしてもやりたいという、表現しなければ自分を保てないというか、そのくらいの欲がないと切実さが失われてしまうと思います。演奏って、準備も含めてすごく大変なことですが、そういう苦しみを負ってまで弾きたいという渇望があることが大切で、演奏が当たり前になってしまうと、その渇望が失われて機械的になっていってしまいます。
 森鷗外という作家は、仕事を「為事」と書くんですね。つまり、鷗外によれば「しごと」は、何かに「仕える」のではなくて、自分が「為(す)る」ことなんですね。だから、音楽に「仕える」のではなく、自分が「為る」ことなんだという意識が大事だと思います。それが結果として、音楽に奉仕していることになる、ということだと思います。

後編に続く)
(構成・文:篠村友輝哉)

五十嵐沙織(いがらし さおり)
1989年、東京都出身。桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学を経て、同大学研究科を修了。
平成19年度高校卒業演奏会に出演。第28回日本ピアノ教育連盟ピアノ・オーディションにて最優秀賞および萩原和子賞受賞。これまでに江藤亜理子、岡本美智子、上野久子、ケマル・ゲキチの各氏に師事。
また、フィンランドにてM•ラウティオ、静岡音楽館AOI主催「第9期ピアニストのためのアンサンブル講座」において野平一郎、ヴァイオリニストの古澤巌の各氏にアンサンブルを学ぶ。
2013年、ソリストとして、「ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第2番」をオーケストラと共演。
弦楽器奏者との室内楽を中心に多くの演奏会を自主開催し、国際コンクールやプロオーケストラオーディションの公式伴奏者なども務める。
また、合唱団の伴奏、『Murder for two』等のミュージカルの稽古ピアノや劇伴ピアノにて演奏。
2017年からは、上野学園大学•同短期大学部 伴奏要員として、管楽器奏者の伴奏機会が増えるなど、活動のジャンルを問わず、幅広く経験。
自身の演奏における身体の悩みから、ヨガや占星術などを用いて自分を識っていくこと、また”潜在的なトラウマを癒し続けること”など、様々な観点から探究している。
演奏においても人生においても、『より自由であること』そして『より自分らしくあること』を大切にし、実践しつづけている。最近の趣味は、スパイスを使ったカレーづくりと、ベランダ菜園。
ブログ https://ameblo.jp/saoriigarashi-pf/
インスタグラム https://www.instagram.com/saorin50/
篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。自らが企画構成した演奏会も定期的に開催している。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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