見出し画像

2つのオンライン演奏会を聴いて

 コンサートホールから音が消えて約3ヶ月が経ち、再びホールに音が戻り始めている。
 感染者数の減少、緊急事態宣言の解除、都の要請緩和を受けての再開であるが、書いている最中にも首都圏をはじめ全国の感染者数は増加していて、先の緊急事態宣言前のような空気がまた漂い始めている。「ホールに音が戻り始めている」と書き出したものの、来月、それどころか来週の状況ーーコンサートはもちろん、社会全体のーーでさえ、今現在と同じである保証はない。
 そんな中、音楽家は、何とか音楽を届けられないか苦心している。その代表的な取り組みが、演奏会のオンライン配信である。先日、相次いで2つの演奏会のオンライン配信を自宅で視聴した。演奏会のライヴ配信を視聴するのはこれがほぼ初めてだった。
 一つは無観客による文字通りのオンライン演奏会で、ヴァイオリンの寺内詩織さんとピアノの五十嵐沙織さんによるデュオリサイタルである(6月22日、音降りそそぐ武蔵ホール)。曲目は、ベートーヴェン生誕250年を記念して、ソナタ第5番「春」と同第9番「クロイツェル」。
 気心の知れた2人の穏やかなトークに始まって、「春」のあの有名な旋律が、快活なテンポで滑り出した。寺内さんの清い音と思い切りのよさ、五十嵐さんの流麗さによって、爽やかな、しかし挑戦的なものも含んだ推進力が生まれていた。演奏全体に満ちるあの華やぎと音楽の喜びは、聴き手との間に少々の解釈の違いがあったとしても、それを問題にさせないものであっただろう。
 後半の「クロイツェル」はさらに燃焼度の高い演奏で、すべての音、すべての掛け合いに宿った気魄が、これでもかと突き付けられるベートーヴェンの問題意識を受け止め、その両者の対峙が、やがて一つの大きな力となってゆく。この状況下の鬱屈とした気分を束の間晴らしてくれる快演だった。
 もう一つは、対策を講じつつ活動を再開した東京交響楽団の定期演奏会(6月28日、ミューザ川崎シンフォニーホール)で、こちらは正確に言うとオンライン演奏会ではなく、聴衆を入れたうえでのライヴ配信である。来日できなくなった海外演奏家の代役として、指揮は飯守泰次郎さんが、ピアノは私の師でもある田部京子先生が務めた。
 曲目はこちらもベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ほか、協奏曲の前にベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、後半にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。今回はピアノ協奏曲のピアノ演奏についてのみ言及する)。長い序奏を経て、ピアノが音階と主要動機で決然と入ってくるが、それに続くカンタービレが、しなるようなフレーズの描き方といい、音間に宿ったぬくもりといい、どこをとっても田部先生ならではの歌い口で、忽ち先生の世界に惹き込まれた。
 先生の演奏を聴いていていつも感じるのは、作品を包み込む大きな愛である。田部先生が、その心からの愛を持って作品に接すると、その愛の中で、作品は自ら声を発し、歌い始める。今回も、ベートーヴェンの峻厳さが、先生の手によって円みを帯びた光に包まれ、普段はその厳しさのために身構えて聴いてしまいがちなベートーヴェンの音楽にも、親しみをもって向かい合い、寄り添うことができるように感じられた。フィナーレのコーダでは、自然と身体が動き出し、内に大きくあたたかい肯定感が満ち始めた。

 このように、どちらの配信も楽しんだのだが、正直、実際に会場で聴いたらもっと素晴らしかっただろうという思いは禁じ得なかったし、演奏が進むにつれて、生の演奏会への思いが募る心地がした。人と人との対話においても同じである。オンラインで会話を重ねれば重ねるほど、対面でしか感じられないその人の生の息遣いやぬくもり、微妙な表情の変化が、恋しく感じられるようにはならないだろうか。私は、ライヴ配信は今後も行われて然るべきだと思っているが、それはどこまで行っても生演奏の完全なる代わりにはならないという当然のことを、改めて強く感じた。
 音楽は空気の振動であり、当然その場の空気の本当の揺れ方はそこにいなければ感じられないし、対話における人の息遣い同様、音の温度感なども生で聴かなければ本当のところはわからない。ことクラシック音楽は、多くがアコースティック楽器やマイクを通さない肉声によって演奏されるので、機械を通してしまうと、質感の大きな変化は避けられない。だから、「会場で聴いたらもっと素晴らしかっただろう」と想像してしまうのである。そして、会場にいるすべての人間の集中が音楽に注がれているときに生まれるあの特別な静寂も、いかにVR等を活用したとしても、そこにいなければ体感できるものではない。
 また、別の視点から言えば、演奏会においては、会場に行くまでのプロセスも大切である。開演時間に向けて予定を調整し、精神を「演奏会を聴く」状態に整えて、会場まで足を運ぶ。そうしたある意味での「手間」をかけて、音楽を聴く。そこには、単純ながら、音楽会という催しのある本質的な面があるのではあるまいか。
 オンライン配信では、そのプロセスがほとんどなくなる。自宅という環境であるがゆえに、精神が「演奏会を聴く」状態にならず、演奏会場にいるときのあの緊張感が心と身体に満ちてこない。加えて、それがアーカイブ化されるとなると、ライヴの一回性という価値も失われてしまう。
 そもそも、生の演奏会で音楽を聴くのと、CDなど何らかの媒体を通して音楽を聴くのとでは、聴き方、楽しみ方が違う。煎じ詰めて言えば、ライヴでは「その場限りの何か」が求められ、CDなどではより「完成度」が求められるだろう。だから、例えばある演奏会を聴きに行って、それが後日テレビなどで放送されたときに、ライヴでは気にならなかった(あるいはほとんど気づかなかった)演奏の瑕(きず)が、テレビで聴くと非常に目立って(耳立って?)感じられるということがある。だから、演奏会のライヴ配信においても、CDを聴くような気持ちでライヴ演奏を聴いてしまうということが起きているのかもしれない。
 演奏家にとっても、目の前に聴衆がいて、彼ら彼女らが自分の演奏に集中しているという状況だからできる表現というものがある。舞台に立って聴衆と空間を共にすると、自宅などで独りで弾いているときには思いつかなかったインスピレーションが降りてきたり、怖れと表裏一体の、内面を開放する大胆さを得られるということは、私のような端くれでも経験があることである。演奏会という状況が、新たな表現を呼んでくれるのである。
 私にとって、音楽の最大の魅力は、その作品世界と一体になれる感覚を得られるということにある。優れた音楽、演奏を聴いていると、自分と作品、自分とその演奏が同化したような感覚になる。それはつまり、自分という孤独な存在が、自分以外の世界に受け入れられ、それと溶け合っていると感じられることである。その特別な瞬間は、録音でも感じることはあるが、実際に演奏家と同じ空間にいるときにこそ訪れるものなのである。

 繰り返すが、私はオンライン配信を嫌ったり、それに反対しているわけではない。つい最近、アンコール以外では滅多にソロを弾かないピアニストのマルタ・アルゲリッチが、ショパンのソナタ第3番をオンライン演奏会で弾いて話題になったが、私も情報を知ったときは飛び上がるほど喜んだし、演奏も素晴らしいものだった(アーカイブを視聴)。自分でもオンラインを通じたイベントの開催を考えている。聴けないよりも聴ける方がいいのは確かなのだから、オンラインによるライヴ配信は、今後も継続させ、新しい音楽の楽しみ方としてよりよい在り方を探求してゆくべきである。今回の新型ウイルスの騒動が収束しても、いつまた別の非日常が訪れるとも知れない。そのときに、その度に一斉にイベントが中止になったり、開催はできても、一部の人が会場まで出かけられなくなって演奏を聴けなくなるということが繰り返されていては、音楽文化が疲弊してしまう。
 また、先に演奏会場まで足を運ぶというプロセスも大切であると述べたが、特に都心の演奏会では、演奏会の帰り路で、喧騒に呑まれて演奏の余韻が壊されてしまうということが多々ある。自宅で独りで音楽を楽しむときにはそれがないというのは、オンライン配信の一つの良さだろう。
 オンラインならではの付加価値がなければ、対価を払ってまで視聴しようとは思わないという意見も聞かれるが、私は必ずしもそうは思わない。好きな音楽家の音楽を聴くということは、それがたとえオンラインであっても、私にとっては生きていくうえで必要不可欠なことだからである。そこに、音楽・演奏以外のもの、それ以外の価値を求める必要を、少なくとも私は感じない。もっとも、生の演奏会のチケット料金と同じような金額を払う気持ちになるかというと、それは状況と場合によるだろうが……。
 オンライン配信はまだ発展途上の音楽メディアである。ここに縷々として書き連ねてきたような物足りなさや問題点の中には、私(たち)の馴れの問題も少なからずあるので、時間とともに解決されてゆくものもあるだろう。しかし、今後、どんなに高音質で、臨場感のあるオンライン配信が実現したとしても、生演奏の価値と、それに対する人間の希求は失われない。オンラインでは代えられないものの存在に、テクノロジーの発展が急速に進んでいる今、改めて深く思いを致すべきである。    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?