見出し画像

権力、格差、犠牲の美化への痛烈な批判――アレックス・オリエ演出のプッチーニ『トゥーランドット』

 2019年夏に上演された、アレックス・オリエ演出の『トゥーランドット』(プッチーニ作曲、アルファーノ補筆)は、現代性に富んだ傑出したものだった。
 なぜ昨年の公演の話を今頃取り上げるのかというと、実は私はこの公演を生では観ておらず、昨今の状況を受けて、新国立劇場、および東京文化会館がネットに無料公開してくれたもので初めて観たからである(それぞれ前者から7月20日公演、7月13日公演)。大野和士指揮カタルーニャ州立&バルセロナ交響楽団、および合唱団(新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM少年合唱団)の匂い立つ甘美な響きと厳しく劇的な表現も素晴らしく、演出と演奏の一体感も見事で、どうして生で観なかったのだろうかと、強い後悔を感じた。

 今回のオリエの演出は、もともとは古代中国の北京を舞台とした寓話である『トゥーランドット』を、権力と格差という非常に今日的な問題として捉え直すものであった。
 冒頭では、あの印象的な序奏が始まる前に、女性と幼い少女が遊んでいると、後ろから入ってきた男が少女に手招きをし、少女を庇った女性が、男に暴行を加えられ、凄絶な叫び声を上げながら浚われてしまう…というプロローグが付加されていた。これは明らかに、のちにトゥーランドット自身によって明かされる彼女の所業の理由ーー1000年前、平和に暮らしていたリン姫が、異国の男たちに殺され、その時の姫の叫びが彼女を男への復讐に駆り立てているーーの、その1000年前の出来事を描いたものである。
 観終わってから、オリエのインタビューを読んだが、そこで彼は、この『トゥーランドット』を「権力とトラウマ」についての物語として捉えたということを語っていた。このシーンの付加は、観客に、本編が始まる前に、トゥーランドットの抱えるトラウマの由来を刻印し、また、これから始まる物語は、その叫喚の残響のなかで繰り広げられるものなのだという印象を与える、非常に効果的なものだったように思う。
 北京の民衆は、ボロボロの服装で顔もひどく汚れていて、明らかに貧困層として描かれており、彼ら彼女らを、黒い甲冑を纏った兵士が弾圧している。民衆は、牢獄のような、非常に重苦しい建物に囲まれており、トゥーランドットと皇帝の登場は、上から彼らが乗った大きな台ーーそれ自体がまた一つの建造物であるーーが降りてくる形で演出され、民衆と権力者の圧倒的な格差を鋭く明示する。そして、民衆を取り囲むその建造物は、無数の「階段」によって構成されていて、ここにも「階級」が暗示されている。このように、至る所に「権力と格差」のモチーフが鏤められているのである。
 トゥーランドットの男性への復讐とは、自らに求婚する男に3つの「謎」を出し、それに答えられなければ斬首に処するというものである。正面の高いところには、その「謎」に答えられず、首を切られた者たちの生首が掲げられている。生々しく陰惨な演出であるが、これは、国家による殺人、つまり死刑への批判とも読み取れないこともない。
 かつてタタールの王子であったカラフは、「謎」に答えられなかった者の斬首の際に現れたトゥーランドットの美しさに惹かれ、周囲の引き留めや、父ティムールの付き人のリューが彼に寄せる淡い想いに耳を貸さず、トゥーランドットの「謎」に挑む。「謎」に答えられなかった者の斬首を目にしていながら、「美しさに惹かれて求婚する」という設定は、寓話としてはあり得るだろうが、リアリティの感じられるものではない。オリエはこれを、自身が語るように、カラフが目を奪われているのはトゥーランドットの美しさではなく、彼女の持つ権力であると読み直し、リアリズムを徹底させる。彼女と結ばれることで、かつて自分が手にしていた権力を再びものにしようとしているのである。
 カラフは3つの「謎」を解き明かすが、なおもトゥーランドットは彼の申し出を拒む。そこでカラフは、逆に、夜明けまでに自分の名前を当ててくださいと問いを出し、それに答えられれば私は命を差し出しましょうと言う。トゥーランドットは民衆に、彼の名前が夜明けまでに判明しなければ皆死刑だ、今夜は誰も寝てはならぬ、と言う(ここで前述の、生首が掲げられていることによって打ち出されていた、死刑への批判が思い起こされる)。
 ここまで触れなかったが、大臣のピン、パン、ポンが、第1幕では、顔が汚れ、ボロボロの服を着ており、明らかに貧困者として描かれ、第2幕では汚れた顔はそのままに作業服を着てカラフの挑戦の場を設えており、そして第3幕ではいきなり大臣らしく白い正装をしている、というのも興味深い。この演出では、彼らは3幕それぞれで別の人物、あるいは立場として登場しているのである。
 第3幕で、ピン、パン、ポンがあの手この手でカラフから名前を聞き出そうとするが、彼は答えない。そうこうしていると、父ティムールとリューが捕らえられてしまう。リューは彼の名を知っていると告白するが、彼への愛のために自分は名前を言わない、トゥーランドットとカラフが結ばれることを願うと歌い、自害してしまう。
 本来は、このリューの愛による自害とカラフの接吻によって、トゥーランドットが愛に目覚め、カラフの想いを受け入れ、北京の民の大合唱によって愛と平和に満ちた世界の訪れが歌われる、という結末である。
 だが、オリエの演出ではそうはならなかった。権力に目を奪われているカラフは、リューの死を悼む様子がほとんどない。一方のトゥーランドットは、対照的にいつまでも死んだリューの側を離れない。そして結末は、カラフの手を取り民衆の前に出るトゥーランドットのもう片方の手には小刀が握られ、音楽の終わりと同時に、彼女は自らの首を切り、舞台が暗転するーーというものになっている。
 この結末が残す印象は非常に鮮烈で、最後のニ長調の合唱を壮麗に響かせる大野の指揮が、破滅的な結末の衝撃を効果的に高めることになっていた。このカタルシスは、芝居だけでも、音楽だけでも感じることのできない、まさにオペラでしか味わえない類のものであろう。
 この悲劇的な結末の意味は何であろうか? それは、犠牲の上に愛や平和が成り立つとする思想への、痛烈な批判ではあるまいか。一部の政治家はその典型的な例だが、戦死者について「尊い犠牲」、「英霊」などという言葉で語る人がいる。ごく最近も、今まさに騒動となっていることで亡くなった著名人の死を「最後の功績」などと形容した政治家がいた。それらはいずれも、死者に対する繊細さを欠く、粗雑で、独善的な言葉である。また、これは余計な補足かもしれないが、彼ら彼女らが、「その立場で」こうした発言をすることが問題なのではない。これらの言葉そのものが浮薄なのである。
 また、トゥーランドットとリューは、対照的ではあるが、男によって深く傷つけられた女性であるという点で通じている。だからトゥーランドットは、自殺したリューの側を離れなかったのだろう。この終盤から結末にかけての演出は、現代においてもなお根強い男性中心的な思想への批判にもなっているのである。今回の演出が、格差を鋭く照射している点から考えても、ここに男性中心主義への批判を見ることは自然な流れだろう。

 最後に、主役を務めたキャストについて少しだけ。7月13日公演と7月20日公演はキャストが異なった。トゥーランドットはジェニファー・ウィルソン(13日)とイレーネ・テオリン(20日)、またカラフはデヴィット・ポメロイ(13日)、テオドール・イリンカイ(20日)がそれぞれ務めたが、トゥーランドットについては柔らかい声色のウィルソン、カラフについてはくせのないイリンカイの方が好みであった。が、「氷のような」と形容されるトゥーランドットとしては、テオリンの硬質で刺すような声が、また権力に目を奪われているカラフとしては、ポメロイの陶酔的な歌い口が、よりそれぞれの役に合っていると言うこともできるかもしれない。そして、砂川涼子(13日)の「細やかな」、中村恵理(20日)の「濃やかな」リューは、それぞれ全キャストの中でも特に際立った存在感を示していた。

 他にも、少しだけ触れた大野の指揮の素晴らしさや、舞台の美術としての美しさなど、語りどころは尽きないが、この新制作の『トゥーランドット』は、ジャンルを問わず、現代において古典を取り上げるときの、一つの理想的なかたちと言えるだろう。    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?