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聞こえる音ではなく聴いた音を弾く―ヴァレリー・アファナシエフ

東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」にて2019年の1年間担当していた連載エッセイ『ピアニストの音の向こう』(1月号~6月号)『音楽と人生が出会うとき』(7月号~12月号)より数篇、noteでも公開することにしました。
今回は、前者の第4回に掲載された、ピアニストのヴァレリー・アファナシエフについてのエッセイを公開します。

 裸の男女が、どこかの部屋でカーテンも閉めずに抱き合い、口づけを交わしている。互いに自らの孤独から逃れたいかのように、激しく相手を求め合っている官能の瞬間が、凄絶なマチエールによって刻まれている。
 昨年秋から今年の1月にかけて開催された「ムンク展」(東京都美術館)で観た『接吻』(エッチング)。その男女の姿は、ムンク自身の姿でもあるのだろう。ムンクは、自らの不安や絶望をそのまま取り出して描き出し、私たちが普段目を逸らしているこの世の闇を突きつける。

 ヴァレリー・アファナシエフの弾くピアノは、日常がひた隠しにしている人間の生の声を徹底的に抉り出している。録音で彼の演奏を初めて聴いたとき、シューベルトであれ、ショパンであれ、それらの作品に対して抱いていたイメージは悉く崩壊していった。暗い音、退廃さえ漂う遅いテンポと長い間(ま)、既成概念を突き崩すダイナミクス…音楽はきれいなもの、癒しを与えてくれるものだなどという言説が何と安易なものであるか、彼の演奏を聴く度に思う。
 アファナシエフは、その芸風ゆえにしばしば異端と呼ばれるが、それは人と違うことをやってやろうという類の浅薄な作為などではない。そのことは、昨年10月9日にサントリーホールで開かれた、オール・シューベルトのリサイタルでも明らかだった。
 前半の「3つのピアノ曲」が始まってすぐに、響きの芯を捉えて逃さない美しい音に驚いた。だがそれは、通俗的なきれいさとは無縁の、危うさを孕んだ美である。
 第2曲の中ほど、変イ短調のエピソードを、アファナシエフは悲しみで染め上げられたようなピアニッシモでゆっくりと弾いた。悲痛な静寂が満ちてゆく中に、シューベルトの痛みにアファナシエフが自身の痛みをもって寄り添う苛烈さがある。
 後半のソナタ第21番では、シューベルトの音楽から絶望が引き出され、フィナーレに至ってはニヒリズムすら感じさせた。それにしても、聴く者の精神を音楽へ収斂させてゆく求心力は圧巻である。

 ムンクは、「見えるものではなく、見たものを描く」と語ったという。アファナシエフもまた、その極度に繊細で尖った感性と耳で、表面に聞こえる音ではなく、その底に響き渡っている闇の音を聴き続けている。   

(初出:東京国際芸術協会会報 2019年4月号。一部加筆修正)

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