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「こちら」と「あちら」の狭間から響く声──ジェシー・ノーマン、クルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団『R.シュトラウス:4つの最後の歌』【名盤への招待状】第14回

 気晴らしや耳のさみしさを埋めるためばかりではでなく、なにかもっと根源的な渇きを潤すためにも音楽を聴いているのだとしたら、その渇きとはつまり厭世観のことであると言っていい。音楽を痛切に求める心性の根本には、つねにこの世界にたいする嫌気や失望があるはずだろう。こうした暗く重たい想念からは、現実とはべつの時間の流れのなかに身を置くことでしか解放されない。
 だから、ある意味、あらゆる音楽の背景にはそうした厭世的なものがあるとも言えるのだが、その現実からの超越願望こそが主題として痛切に込められた作品というものがある。このところ、いつにも増して厭世的な気分の膨らみを実感している私は、その代表的なもののひとつであるリヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』を、いくつかの演奏で久しぶりに聴き返した。
 以前にも書いたことがあるが、この作品との出会いは大学三年のときのソルフェージュの授業だった。授業を担当していた先生が、大胆な転調の一例としてこの第三曲「眠りにつくとき」のさわりをピアノで弾いたのだが、その音楽の官能的な吸引力にたちまち惹き入れられてしまい、授業が終わったあとも耳から離れなくなった。それから全曲を聴いて以来、折に触れて何度となく聴いてきた作品だったが、その文章を書いている短い間に繰り返し聴いてしまったためか、ここ二年ほどは一度も聴いていなかったように思う。
 そのときに聴いていた演奏というのが、今回取り上げるジェシー・ノーマンのソプラノとクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による名盤である。


 数年の時を置いて聴くと、マズアがオーケストラから引き出す音像の深い陰りに改めて耳が引かれる。豊かに息づくバス、目まぐるしい転調をふくよかに描く弦楽器群の和声、ホルンを筆頭に柔らかな管楽器群、そのいずれにおいても暗く重たい音色が基調とされており、それらが重なり合い、鬱蒼とした情念の動きが見えるような響きのうねりが生まれている。ノーマンは、ときにその響きに融け、ときにそこから突き抜ける幅の広さでこの壮大な歌を綿々と歌ってゆくが、彼女の馥郁とした厚みのある声もまた、深く濃やかな陰影に満ちている。
 第一曲「春」、第二曲「九月」、第三曲「眠りにつくとき」までの三曲はヘッセ、最後の第四曲「夕映えのなかで」はアイヒェンドルフの詩によっているが、いずれも死を主題とし、それを人生の重い疲労や苦悩からの解放として描いている。この演奏に溢れる深い陰影は、その解放や救済への甘美な誘いと同時に、それが秘めている深い深淵のような暗い影をつねに意識させる。
 暗さと同時に印象的なのが、ひとつひとつの音価や和声、つまりは時間の一瞬一瞬を限界まで汲み尽くすかのような、じっくりとしたフレージングとテンポ感である。それは、ロマン主義のひとつの極みと言えるこの陶酔的な作品にふさわしく、それを可能にするノーマンの息の長さはやはり圧倒的だ。特に第三曲「眠りにつくとき」と第四曲「夕映えのなかで」では、できるだけこの恍惚の時間を引き延ばそうと、演奏が音楽の流れに抗うかのようですらあり、その拮抗がこちらの官能を撫でる。第三曲「眠りにつくとき」の後半、とめどないゼクエンツを濃密に描くノーマンとマズアたちは高揚とともに声と音を研ぎ澄ませ、音楽の恍惚の度合いを高めてゆく。その大きな波には惑溺せずにはいられない。
 壮麗な和声の変化に即して声色を自在に変える多彩なノーマンの声は、ときに、人間のそれを超えたなにものかの声をも想起させる。このアルバムには、『四つの最後の歌』のほかにもシュトラウスの代表的な歌曲が併録されているが、それが最も感じられるのが名曲「明日」の終結部である。突如ハ長調の属九の和音に転じて、神秘的な和声進行に乗ったレチタティーヴォを歌うノーマンの声。それはなにか、早朝の光にきらめくさざなみの打ち寄せる砂浜に、水平線のはるか彼方から聞こえてくるこの世のものならぬ大きな存在の声を思わせる境地に至っている。
 それははじめてこの演奏を聴いたときから抱いていたイメージだったが、数年ぶりにこの箇所に入った瞬間、私はかつてないほどに慄然とした。私は、「この世のものならぬ大きな存在」などふだんは信じていない。しかしここにそれをイメージし、それに慄然とするほどふるわせられてしまったのは、私がそうした存在をどこかで欲しているということではないか。そしてそれは、やはり厭世的な気分を膨らませていることと、無縁ではないことだろう。
 第四曲「夕映えのなかで」の最後の言葉、つまり曲集の最後の言葉である「tod(死)」を響かせるノーマンの声も、天上へ放たれるかのように透き徹っており、演奏は作品の描く「あちら」への希求を余すところなく体現している。しかし、彼女の声は、完全に「あちら」の世界を体現しようとしていると言うには、あまりに人間的、つまり「こちら」のものだ。ノーマンは、「こちら」と「あちら」の間に立ち、そこから歌声を響かせているように、私には思えるのである。
「眠りにつくとき」では、この世を去って人生の重い疲労から解き放たれて、美しい魔法の世界のなかで「深く、千倍も生き」たいという超越願望が歌われている。これらの作品を聴くとき、この世ならぬ大きな存在に身を委ね、それが招く深淵に沈み込んでしまうことを望んでいるのは否定できない。だがそれは、音楽によってある意味叶えられている。だから、これを聴くことで厭世観は浄化され、現実のほうをこそ「深く、千倍も生きる」ことができるのだとも言えるのだが、しかし聴き終えたあともこの美しくも退廃的な余韻はすぐには去らない。厭世の気分を浄化するほどの力が逆に、それをより膨らませるほうに作用することもあり得るだろう。
 こうして音楽に抱かれながら「こちら」と「あちら」の間を揺れ動くことには、危うい快感がある。なによりそれを求めて、私はこの演奏を繰り返し聴いてしまうのかもしれない。


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