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【「演奏家の仕事」とは何か】山縣郁音×篠村友輝哉「音楽人のことば」第10回 後編

(前編はこちら

ーー音楽に「力」はあるのか

篠村 哲学者のカントが『判断力批判』のなかで、芸術について論じているんですが、そこで当然音楽についても触れていて、彼は音楽を、感覚的な快さとか「瞬間的な」感動をもたらすものとしては、芸術の中で最上位にあるものと位置付けています。しかしその一方で、芸術の持つ、それに触れることで連想力が働かされたり、心的な能力が開発されるという面においては、最下位だと言っているんです。音楽を聴いて何かを連想したり、そこから何か概念やメッセージを受け取ったとしても、それは「機械的連想」にすぎないと。僕はこれを最初読んだときは、非常に反発したんですね。カントの言いたいことを完璧に理解できているとも思いませんが、やっぱり僕自身は、音楽を聴いてきたこと、音楽と向き合ってきたことで、人間理解や自分自身の人間性も深まったし、それによって実存を救われてきたという体験と強い実感がありますから。
 でも、カントの言っていることも正しいのかもしれない、と思ってしまう部分もあるんです。この感染症が広がり始めて、演奏会が軒並み中止になった昨年の3月4月ごろ、音楽、ないし芸術は人間にとって必要なのかという議論が盛んになされましたよね。でも、6月ごろに少しずつ演奏会が再開され始めると、少なくとも音楽業界ではその問いにどう答えるのかが、結局曖昧なままになってしまったと思います。もちろん、答えを出す必要はないんですが、音楽界全体として徹底的に向き合ったとは言えない印象があります。音楽家にもいろいろな方がいますから、概して言えませんが、少なくとも大きな印象としては、純音楽的な感銘とか感動は日々追求していても、音楽が人間や社会に対して与える影響力というところまで意識が及んでいる人は多いとは言えないのが、今の音楽界なんじゃないかと僕は正直なところ感じています。だから、「芸術は本当に必要なのか」という問いに対しても、正面から考え抜けなのではないかと。
 そういう音楽業界を見ているなかで、今言ったカントのその定義を読むと、一理あるような気がしてきてしまったんです。カント的な音楽のよさについてはみんな自覚的だけど、カントが「音楽にはない」という芸術の効能に関しては、確かにあまり考えられていない。
 長くなりましたが(笑)、もちろん、「必要」なものだけがすべてじゃないという考え方も、僕自身も持っていますし、一つの芸術家的な態度だと思います。でもどこかで、常に「音楽は必要なものなんだ」と信じる一方で「本当にそうだろうか?」と疑うという、そういう問い直しも続けていかないと、信念の基盤みたいなものが固まらないような気がするんですね。

山縣 確かに人に影響をダイレクトに与えるのは難しいのかもしれない。今、社会が0か100かみたいな、すごく極端で、しかもこんがらがっているという状況で、それを何が解決できるかということは難しい問題じゃないですか。そういう問題と、芸術には何の意味があるのかという問いは似ているところがあると思っていて。それを解決するためには、ひとりひとりが「丁寧に」考えていくことしかないのかなと思う。その丁寧さの一つとして、音楽があるのかなと思う。言葉じゃなくて音としてあるというところに意義があって、言葉って、私も好きだけど、危険なものでもある。イタリア時代にお世話になった先生は、そのときは(ヨーロッパで)テロが起きていたころだったのだけど、「テロもある意味一つの主張だけれど、音楽のよさは人を傷つけずに強い主張をすることができることだ」と仰っていて。その時はあまり実感がなかったけれど、最近よくわかるようになりました。ネット上の「炎上」とかも観察していると(笑)、結局言葉の捉え方の問題。でも、嫌いな演奏とかもあるけれど(笑)、音楽では基本的には罵倒されたような気持ちになることは起きない。堤剛先生(*チェリスト)も、「室内楽は、結局世界平和のためにある」とさらっと仰っていたけど、音楽はやっぱり、カルテットが解散したりとかもあるけど(笑)、高度な対話を発生させることができるものだと思う。

篠村 カントは一方で、趣味の感覚のもつ普遍への接続可能性みたいな話をしています。僕たちって、「この曲が好きだ」とか「この小説はつまらない」とかって、主観的な判断なのに、特に主語をつけないで語りますよね。「個人的には」とか言うときもありますが、基本的には主語は括弧に入れて話す。つまり、趣味の感覚は、最も個人的な感覚が、イデオロギーとは違う形での公共性、普遍性に結び付く可能性を秘めている、ということです。今の山縣さんのお話はまさにそういうことですよね。僕は、音楽にもそういう力があると思っていて、「音楽の力」っていう言葉があまりにも軽々しく使われていて、それに対するある種の反動からか、「そんなものはない」と言う方もいますが、「音楽の力」って、そういうものなんじゃないかなと思います。「素晴らしい」を超えた演奏に出会ったことが何度かありますが、そういうときって、演奏者が誰かとか、誰の曲かとか、会場がどこかとか、すべて忘れてしまうくらい、音楽の世界に自分が入っている。私と他者、内と外との溝が埋まって、融和しているという感覚を得られて、それは音っていう究極の抽象だからこそもたらされる。例えばバレンボイム(*指揮者、ピアニスト)が、同じオーケストラで、宗教的な背景で対立している国の生まれの演奏者同士をメンバーに入れたり、イスラエルでワーグナーを演奏したりしているのは、まさに彼がそこに賭けているからだと思うんです。

ーー音楽教育の意義

篠村 言葉の話で言うと、本当に昨今は言葉が破壊されていると僕も感じています(笑)。僕は、古井由吉さんという小説家が好きなんですが、そういうなかで彼の小説を読んでいると、言葉そのものの本来の姿に出会い直せるような感覚を得られます。それで、最近読んだ古井さんの講演録のなかに、言葉について語っている講演があって、こんなことを言っていたんです。曰く「戦後、明るくしていることこそが美徳かのように教育されて、それ以降、人間の暗さや複雑さが蔑ろにされている。でも、明るくばかりしている方が人間としては本来おかしいはず。人間の持っている複雑さをもっと見つめるべきで、でも、それに深入りしすぎると、沈みっぱなしになってしまう危険性もある。言葉は、これまで亡くなった人も含めた大勢の他者と歴史によって積み重なって出来上がっているもので、自分の勝手にならない代わりに、そういう追いつめられたときに、自分の救いになってくれるものだ」と。それを読んで、僕は本当に感銘を受けると同時に、音、音楽もそうなんじゃないかと思ったんです。音楽も、音楽の生まれていなかった時代に、人間が音に何かを感じ始めてそれで表現を始めて、バッハという一つの頂点があって、そこから今日に至るまで音楽の歴史は脈々と続いてきている。そういう重みがあるから、なかなか思い通りにならなくて、音楽家たちは苦労しているわけですが、その苦しみの分、表現することで自分自身が救われている部分もあるし、それを聴くことで救われる人もいる。そういうことをやっていくのが芸術家の仕事だと考えています。

山縣 その一方で、さっき(前編で)も名前が挙がった國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』にも書いてあったのだけど、ある程度読み解くスキルも必要だから、人によっては単に娯楽になってしまう。それは料理とかも同じで、美味しく味わうためにはそれなりのスキルが必要なわけで。アウトリーチとかでも、全員が「音楽って素晴らしい」と思うことはない。
 でも、私はむしろアウトリーチでは、音楽が素晴らしいと思って欲しいというよりは、私たちがどういう風に生きているか、こういう生き方がありますよという、生き方の一例を感じてもらいたいと思っている。私は正直、音楽がどうしてもやりたくて音楽をやっていたわけじゃなくて、音楽じゃなくてもよかった。でも、何かを見つけたいという欲求は子どものころからあって、音楽の教育を受けていたことでそういうものが育ったんじゃないかと思う。何かを追求するということの一つにヴァイオリンがあって、「もっといい音があるはずだ」とか、「もっといい表現があるはずだ」とか、そういう問いに常に向かい続けている、そういう姿を見せるっていうことに意味がある。音楽に社会的な意味があるかというのは、その人が定義する「音楽」にもよるだろうし、その人が育った環境とかにも影響される。でも、私たちも、音楽の先生方や友人の生き方そのものも尊敬していて、そういう人たちにたくさん出会えたということも、音楽をやっていてよかったことの一つかなと思う。
 一人一人に考えてもらわないといけない部分があるというか、さっきも話した、「これはだめ、これはいい」みたいな単純な思考っていうのは、人間を考えたくないからそうしてしまう。考えたくないから、便利さばかりが発達してしまった。でも考え抜かないと、今の世界の複雑な仕組みをうまく使いこなすこともできない。結局、一人一人の考え方って違うはずなのに、ある一つの考え方のもとにだけまとまろうとするのが、子どもの時から不思議だった。そのバランスをうまく実現しているのが、オーケストラなのかもしれない。それぞれの違う意志を持ちながら表現しながら、同じ一つの曲に登っていく。自分の音楽観だったり哲学がある中で、同じ方向を見て演奏している。

篠村 今言われた、リテラシーの問題は本当にそうで、表現者がどんなに素晴らしい表現をしていても、鑑賞する側も理解力とか趣味を磨き続けていないと、そのよさに気づけない。そのときに重要になってくるのが、僕はやっぱり、教育だと思います。とても責任があることですけれど、教育には将来的に深く関わっていきたいと思っていて、やっぱり自分の人生を考えてみても、10代とか20代のはじめごろに経験したことっていうのが、今の自分に影響を与えている気がしています。教育にはいろいろな側面がありますが、一番重要なのは、やっぱり今言われた通り、いろいろな生き方や考え方に触れさせて、自分で考え、感じる力をつけてもらうことですよね。そうでないと、ある一つの価値観が絶対だと思うようになってしまう。

山縣 聴衆を育てるということで言うと、聴衆の層をもっと広げたい、特に、私と同じか少し上の世代にも聴いて欲しいと思っていいて、そのときに勉強が必要というのはあると思うんですけど、美術とか鑑賞されるときって、勉強してからいきますか?

篠村 いや、勉強してからということはあまりないですね。まずは作品そのものから何かを感じ取ることが大切ですから。むしろ、まず鑑賞してから勉強することが多いです。知識とか教養は、それによって作品をより深く味わい、理解できるようにしてくれるもので、それがないと絶対わからないものだとは思いません。

山縣 そうですよね。表現者の力量があれば、伝わる人には伝わるものだと思うから、その表現に触れる機会をどう作っていくかが本当の問題なんじゃないのかなと思います。聴き手の方からも自発的に聴いてもらえるようにどうすればできるか。
 あとは、何か専門性をもっていると、それにリンクして他の分野も楽しめるような気がします。私も、例えば美術を見るときは、「絵画の見方」みたいなものを読むより、「色彩って音楽で言ったら和声なんだな」とか、そうやって置き換えていく方が楽しめる。そういう柱が多いほど、深くものごとを味わえるようになるのかなと思います。その柱は別に芸術じゃなくても、掃除でも運転でも、景色を眺めることでも何でもいい。そういう柱が20歳くらいまでにできているといいんじゃないかな。ヴァイオリンを教えるときも、ヴァイオリンが上手になるようにというよりも、ヴァイオリンがそういう柱の一つになったらいいなという思いがあります。

篠村 そうですね。僕も、ピアノのレッスンをするときなんかも、どちらかというとそういう考えが強くて、音楽家を育成したいという思いより、音楽に向き合う中で感じたことが、直接的にせよ間接的にせよ、その人のその後の人生に何かいい影響が残るといいなという思いが強いですね。
 どのお話も、思考し、感じ続けること、当たり前になっているものをもう一度考え直してみることの大切さに繋がっていきましたが、それはどれもまさに山縣さんの仰る「丁寧さ」から生まれるものだと改めて感じました。ありがとうございました。

山縣 ありがとうございました。

(構成・文:篠村友輝哉)
次回はピアニストの五十嵐沙織さんとヴァイオリニストの寺内詩織さんと篠村による鼎談をお届けします。

©️Reiko Hayakawa

山縣郁音(やまがた いくね)
鎌倉市出身。3歳よりヴァイオリンを始める。
桐朋女子高等学校音楽科、同大学卒業。同研究科、オーケストラアカデミー修了。
のもとで学びディプロマを取得。
全日本学生音楽コンクール東京大会入選、第1回横浜国際音楽コンクール高校の部第3位、第7回ベーテン音楽コンクール大学生の部第1位、等受賞。またイエナ交響楽団、N響団友オーケストラ等と共演。室内楽ではアルネアカルテット(弦楽四重奏)としてサントリー室内楽アカデミー第4期を修了。同グループにてザルツブルク=モーツァルト国際室内楽コンクールにて第3位を受賞。
新曲にも取り組みPoint de vueやサントリーサマーフェスタ、NCM主催の演奏会にて初演等行う。
近年は東京都交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー等にエキストラで出演するなど活動をし、また「藤沢にゆかりのある音楽家特別オーケストラ」のアシスタントコーチを務めるなど後進の指導も行う。
現在「京トリオ」として第6期サントリーホール室内楽アカデミーフェローとして活動する。

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
専門のピアノ音楽から室内楽、弦楽器、歌曲、コンテンポラリーに至るまで幅広いジャンルで音楽・演奏批評を執筆。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間エッセイと演奏批評の連載を担当した(1月号~6月号「ピアニストの音の向こう」、7月号~12月号「音楽と人生が出会うとき」。うち6篇はnoteでも公開)。曲目解説の執筆、演奏会のプロデュースも手掛ける。エッセイや講座、メディアでは文学、映画、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。修士論文はシューベルト。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com

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