目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅13 奈良には古き仏たち

 いまの奈良県は昔から日本の都だった。初代天皇の神武天皇が造った都も奈良県の橿原(かしはら)市だったというのだから、伝説の時代からの都だと言える。「大和は国のまほろば」というくらいだから都を造るのに適した場所だったのでしょうね。その長い歴史を背景に、いまでも多くの社寺が残っていて、私たちはそれらを観光して回ります。その一つ一つが魅力にあふれています。前回までで神社の話が一段落したので、今回からはそんな奈良の寺院について書いていきたいと思うので、旅の参考にしてくれると嬉しいな。

 南都七大寺という言い方がある。平城京を代表する七つの寺で、大きい小さいは別にして現在でもすべて残っている。すなわち東大寺、興福寺、元興寺(がんごうじ)、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺のこと。これらを全部回るのもおもしろいのでぜひ回ってほしいのだけれど、まずは有名なところから紹介していきましょう。

 まず今回と次回で東大寺を紹介しよう。近鉄奈良駅から徒歩で20分くらい。中学校では「聖武天皇は東大寺・国分寺・国分尼寺を造らせた」と習うんだけれど、この表現は誤解を招きかねない。聖武天皇は全国66か国に国分僧寺(こくぶんそうじ、男性のお坊さん、僧がいる寺)と国分尼寺(こくぶんにじ、女性のお坊さん、尼がいる寺)を造らせました。この二つを合わせて国分寺と言います。そして総国分僧寺として東大寺が、総国分尼寺として法華寺(ほっけじ、現在でも奈良市内にあります。光明皇后の姿を写したとされる国宝の十一面観音像が有名)が建てられたのです。

 では日本一有名なお寺と言っても過言ではない東大寺を見ていきましょう。まず目につくのは何と言ってもシカですよね。初めて来た人は「観光用に飼われているんだな」と勘違いをする人が多いらしいのだけれど、ここにいるシカはみんな野生のシカ。彼らはシカせんべいを持っている人に近づくと「お辞儀」をしてエサをくれるように催促します。エサをくれてありがとう、という感謝の意味ではないらしいので、あんまりせんべいをやるのをじらすと噛みつかれることもあるのだとか。十分に気をつけましょう。

 東大寺には多くの建物がありますが、実は奈良時代、天平時代に造られてそのまま残っているものは多くありません。東大寺が最も危機に瀕したのは源平合戦の時です。大仏殿も大仏そのものも焼け落ち、東大寺・興福寺は見るも無残な姿となりました。当時の人々にとって東大寺がそのような姿になったことは非常に大きなショックだったようで、鎌倉時代になると再建が始まりました。

 まずは東大寺の正門である南大門。当時の寺は南を向いて作られるのが普通だったので、南大門は寺の正門にあたります。それまでに日本にあった建築方法とは違って、中国(宋)の技術を取り入れた「大仏様(だいぶつよう、ダイブツサマではないよ!)」という建築方法を用いて造られていて、大きい建物を造る際に向いている建築方法なのだそう。大きなこの門を抜けて大仏を見に行こうとすると・・・ 必見ポイントの仏像、金剛力士像がこの門の中に安置されています。運慶・快慶らによって69日で完成されたというこの像は、高さおよそ8m、阿形(門の向かって左にある口を開けた像)の部材の総数は2987個、吽形(向かって右にある口を閉じた像)の部材の総数が3115個の寄木造で造られています。ふつう金剛力士像(仁王像ともいう)は門の正面(つまり南側)を向いているものなのだけれど、この二つの像はお互いを向き合っている変わった形式をとっています。とにかくその大きさには驚かされるので、大仏さまを見に行く前にしっかりと目に焼きつけてほしい。

 ではいよいよ大仏さまを見に行きましょう。あっと、ちょっと待って。大仏さまを見る前にもう一つだけ見ておくべきものがあります。それは大仏殿の前に置かれた金銅八角灯籠(こんどうはっかくどうろう)です。仏さまには「香華燈燭(こうげとうしょく)」といって、お線香(香)、花(華)、ろうそくの火(燈燭)を供えるものとされています。皆さんの家の仏壇でもこの3つ、お供えされているでしょう? この灯籠は大仏さまが開眼した時に(つまり聖武天皇や光明皇后が実際に生きていた時に)置かれた当時のものです。とても大きな大仏さまに合わせて灯籠も大きく作ったのでしょうね(462cm)。

 
 東大寺の続きは次回に。

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