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『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』のローリィに寅さんを思う。

『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を鑑賞しました!初っ端に言うとこの映画に僕は『寅さん』を思うのです。まあ意味が分からないでしょうから順を追いながら割と脱線も多めに説明と感想を書きます。

キャサリン・ヘップバーン主演が33年、ジューン・アリスン主演が49年、それからたっぷり45年を置いてウィノナ・ライダー主演の94年版、、、あれから26年もたってる事にビックリの今回の『若草物語』。主演は『ハンナ』で静かなアサシン少女を演じたシアーシャ・ローナンがジョー役という事でこれまたビックリなのですが、ウィノナ・ライダーも『エイリアン4』でアンドロイドだったしね!となんだか納得(?)。スチルをみると歴代の中でも一際透明感があるジョーと言う印象をうけました。

で、主演も気なるところですが実は僕が作品毎に期待するポイントはお隣のお坊ちゃんであるローリィ少年なのです。特にチェックポイントにしているのは、、

・時代性に合わせて趣きが変わるローリィの描き方。
・ジョーへのプロポーズの攻防戦。
・お互いの”家族としての愛情”を確かめ合う再会のシーン

これらを中心に彼がどのように立ち振る舞うかが凄く気になるんです。

少女向け児童文学をローリィ目線でみるというのも可笑しな話しですが始まりは『赤毛のアン』に続編があるんだと知り『アンの娘リラ』まで全巻読破した後で『若草物語』を二部まで読んだ時からでした。

読後、大概の読者が思うであろう「おいおい、君ら二人は結婚しないんかい? ギルバートとアンはちゃんと仲直りしたよ」と驚き、当時同じぐらいの年代だったのもあってかローリィ君にひどく同情してしまいました。幾度も読み返して他の訳も探し、なんなら高河ゆんのコミック版にも手を出したり、、、

「後から言っては何だけど、君はあの時こうしてああやって、彼女をこう論破すればよかったんじゃない? タイミングってあるじゃんか〜」

などと反省会を幾度も重ねました。そして登場人物の多くは実在の人々をモデルにしていたと知ったので、彼のモデルを調べるために各出版物の後書きや自伝、はたまたオルコットが看護婦をしていた時代に書いた『病院のスケッチ』なども取り寄せて彼の成り立ちのヒントを探しました。

「知ってた?君はオルコットの幼馴染みと欧州で出会うポーランド青年を足したイイトコどりらしいよ、この青年と出会ったときはルイザが30歳、彼は22歳だったんだねぇ、なんかロマンスとかあったと思う?わない?どっちだろうね?」

と考えたりして、まあ、すごく感情移入しちゃったわけです。

『若草物語』は4人姉妹の物語でありますが、ご近所の少年であるローリィの心情や成長もしっかりと描いており、総じて4人の姉妹と少年の物語であると言えます(自分曰く)。

けど、映画という限られた構成の中でジョーを中心に姉妹を描くと尺が足らずになって、彼はロマンスの添え物になりがちなんですよね、、、

なので僕は映像作品を見る度に

「男同士にしか分からないない辛さや意地ってのをさ、今回は一体どう観せてくれんだい? あ、男同士ってのは俺とローリィのことだかんね!」

と思うわけです。

あんなに親身に二人で反省会をしたセオドア・ローレンス、、もう他人とは言えないローリィ少年、なんなら俺だけが”テディ”と言っていいぐらいで、そんな彼が映像化のたびに愛しのマドンナにフラれてしまうのを僕は『寅さん』を見る様な気持ちで見守るのです。

冒頭の発言について、ご理解していただけましたでしょうか?

で、映画はというと『若草物語』『続若草物語』の内容を再構成したのは変わらないのですが、出だしから一味ちがったのです!

33年版、49年版、そして94年版でさえもヨーロッパのエピソードがあるかないかぐらいで、全体の構成はほとんど変わっていません、なので冒頭でジョーがNYを疾走する所から始まり(すでにベア教授とは顔見知りで、)過去の少女時代へと行き交う演出にまず驚きました!

「おいおい、初手からいいのくれるじゃん、うん!嫌いじゃない!」

と、あえてそのパンチをもらいました。

しかし、早々にローリィの悲恋がエイミィによって語られるシーンまでくると、、

「うーん、後で連れ合いとなるベア教授との関係性をローリィとの出会いより先に見せる事でロマンスの一貫性を保つって寸法ですか?」

と少し期待のエネルギーゲインが下がります。

94年版のクリスチャン・ベイルは49年版のおじさんローリィ(戦争に行って負傷して帰ってきた設定)に比べて断然の美青年だったのですが、少々ウェットな印象も強く、僕の好きな再会シーンもかなり簡素になっていました。今回、ティモシーのビジュアルは非常に良いとは思うのですが、この見せ方と立ち位置だと僕の望んでるような掘り下げは期待できないのなぁ、、と思ってしまったのです。

そう思っていましたが、しかし!

当初の不安はどこへやら!このティモシー・シャラメ演じる少年ローリーが実に良い!音楽に対する要素こそ削られてはいましたが、負けず嫌いで奔放快活、チャーミングなイタリア青年という原作で感じた雰囲気が良く出ているのです!ダンスでのハシャギっぷりや二人のジャレあいも最高!ジョーが彼を小突くシーンも満載で現代的なリアクションの新鮮さもあって一気に期待値が上がりました!

『ヘイ、ボーイ!今回の君はとっても少年っぽくボーイじゃないか!お互いが同志であるようなその距離感、うん、実にいい!その距離感を保ち今は彼女の間合いに合わせるんだ!94年の試合は、すぐキスしちゃって間合いを詰めるのが早かったんだよ!』

と思わず膝を叩いちゃいそうになりました!それからは前のめり気味に『ブルックはいい!ローリィはどうした?!』とテム・レイな感じでスクリーンを凝視し、現在進行形と過去を曲がり角クネクネしながら僕の第一チェックポイントがやってきたのです!!

興奮しすぎたので少し冷静になって試合会場を観察。過去の劇場版は原作のイメージに近い木漏れ日のさす小道(近くに川とか水辺がある感じ)というロケーションでしたが今回は小高い丘らしき草原です。またジョーのベストにジャケットというマニッシュな出で立ち(このベストはローリィが着ていた物というのがまた、、)と夕景も合間まって、さながら西部の決闘のシーンのようでした。

二人の間に走る一瞬の緊張(ついでに僕にも)と沈黙、「どうか言わないで」というジョーのセリフが出た時に試合のゴングが館内に鳴り響きました!(幻聴)

33、49年は子供のように哀願する戦法のローリィを母親のように諭すジョーが印象的。94年版は「しっとり王子様」ムードで責めるローリィに押されてキスを許してしまう弱腰なジョーでした。

さあ、お手並拝見です!

驚く事にこのティモシー・ローリィは相手の懐にはいってじっくり説得するのではなく、ゴングと同時に声を荒げて戦闘態に入ります。これは、今までにない勢い!途中で声をつまらせる原作準拠の演技も憎らしい!うーんナイスファイト!

それに対してシアーシャ・ジョーも全力で応戦!およそ恋の告白と言えないムードを一気に作りあげると「プロポーズの今だって喧嘩している!」のセリフを際立たせます!

いやー、TVドラマと劇場版を比べるとややこしくなりますが17年のBBC版三部作並にフィールドを広くつかっていますね!

で、試合(?)は途中ですがここで原作のお話しをします。このプロポーズのシーンに至るまでは全作とも彼女にとって予期しないプロポーズとなっていましたが原作ではジョーはプロポーズされるのを分かっていながら彼に会ってたんですよね。

さらに一部と二部の間で変化する二人の関係をかなり私見を交えて説明しますと、この時、ローリィは大学の寮(?)行き週末にマーチ家を訪問するのを繰り返しています。その間の危なっかしい二人の関係は読んでいて実に微笑ましく、いつも最後にジョーが「テディ!私は忙しいからあっちに行って」とあしらって終わります。

彼女から見るとローリィは大学に行って俗っぽくなり「いつまでたっても子供で頼りない!」という評価で、当時にそんな流行があったのでしょうか?「黒く美しい巻き毛」をブラシのように短く切ってしまい、彼女をさらに苛立たせたりもします。

この「黒く美しい巻き毛」は幾度ともなくジョーに切ない思いをさせるんですよ!

で、そんなローリィ君も彼なりに考えがありまして、、、そもそも大学進学というのは音楽家を志したいという彼とビジネスを継がせたいという祖父との間にあった確執の要因でした。しかしマーチ家との付き合いの中で影響を受けた彼はたった一人の身内の願いをちゃんと受け入れるべきと思うようになり大学進学を決意します。けど「その分のんきに楽しくやる」という事で「自由と義務のバランスを上手く取って精神的な健康を維持する」と言う大人らしい立ち振る舞いをしていたのです。

それに比べてジョーは小説家として成功を果たしたい希望と目の前の生活のために家族の手助けをしなければいけない(それは病弱になってしまった愛すべき妹の為なのですが、、)という現実を目の前にして「献身的である美徳と理性」「自分らしい事をして裕福で名声を得る欲求」の“良い塩梅”を取る事ができません。そして周りがそれとなく上手くやってる事が出来ず、失敗を繰り返して(ヨーロッパ漫遊の件を始め)自分ばかりが損をしている疑いを根強く持っています。この理性と欲求のチグハグでアンバランスな気持ちの溢れ出し方は物語の後半まで深く関わってきます。

社会の規範が家庭であった頃は二人は後継とか、女の子である事に窮屈さとか、そんな気持ちを共有しあう同志のような関係でした。二人が青年になり社会が広がった時に当時の社会事情における男女差もあったと思いますが、二人のいる環境の違いで互いの向き合い方にズレを生じさせます。

それが如実に出たのが恋愛感情で、成長するにつれ当たり前にその感情を育んできたローリィに対して、ジョーはその芽生えを早めに摘み取る事を繰り返して理性を重んじるのを優先します。

それは、

感情的な失敗を多くしているので常に理性的でありたい。

という願いからなのかもしれません。

そして、ここからは妄想レベルのお話です。

ジョーは「恋愛をすることで自分を見失う事を恐れる」という事だけで恋愛を拒否してるのではなく、実は誰よりもロマンスやドラマを求めています。

だけど、彼女の強い作家思考が恋愛という感情を俯瞰かつ客観的に観てしまい、それを拡大解釈(ロマンス化、ドラマ化)をしてしまうことで自分事に出来なくなってしまうのでは?

と考えました。

なぜ、そう思ったのかと言うと、ローリィが大学での軽い恋愛ごっこの話をする会話で、彼の発言に対してまるで張り合うかのように「私だって試みた事がある、けど向かなかった」というセリフからでした。

プロポーズの時には「あなたのように愛そうとしたが無理だった」というセリフがあるので、それはローリィの事だったのではと推測するのですが、この恋愛感情への芽生えや興味を実験的、客観的に体験する傾向と“感情の産物である恋愛”に対して原作の言葉にあるように「感情よりも理性を優先してしまう」事で冷静になってしまうのかなぁ、、という持論です。

(オルコットも父の友人であるエマーソンに自宅の玄関に名無しのラブレターを送ると言う実験めいた事をしていたんですって!)

そんな感じで、一部と二部に間でジョーが人知れずローリィに恋をする実験を試みるが、それは恋愛ではなく家族のような愛情だと気がついて、「恋心を失う」という奇妙な失恋をするエピソードがあったらとしたら、、、と考えると楽しいです。(その時、ローリィはミス・ランダルに夢中で気が付かないんだろうなぁ、、とかとか)

あ、プロポーズまでの経緯の話ですよね。

劇場版の多くはローリィのプロポーズを断ったためジョーはNYに行きますが、原作ではベスが彼の事を愛していると勘違いしたジョーが自分はいない方が良いと思って旅立ちます(ここも彼女の持ち前の想像力が働きます)。この事を母親に告白するときに「ローリィが私のことを好きになりすぎている」と頬を染めながら話すシーンはなんとも初心で可愛いですね。

当のローリィはベスの件以外は彼女の意図はお見通しで、けどそれを引き止める事もなく落ち着きを払ってジョーを送り出します。この時すでに彼の中では遊びの時間が終り彼女に見合うべき男性になる決意を固めていたんでしょうね。

落ち着きはらっている彼に対しジョーは「冗談の新しいページを開いたの?」と茶化すのだけど「そうだよ、けど、このページは開けたままにしておくんだ」と真剣に言うローリィのカッコ良さったら!

そして大学の卒業式に参列したジョーに、翌日帰るからその時はいつものように駅(?)まで迎えに来て欲しいと頼みます(以前は家族の習慣だったけど最後まで続けているのはジョー1人だけ、、もう、この関係には愛おしさしかない!)。軽口を言いながら了承の返事をした瞬間に自分が告白をされる事に気づくのです。

このプロポーズのやり取りは二人の性格が良く出ており、お互いに相手を尊重し愛情を持っていながらも、お互いの気持ちを微妙に理解していないのでずっと平行線なんですよね。

結婚をすると不幸になるという厳しくも現実的な未来を提示するジョーに対し、結婚したら彼女の望む通りにするから幸せになれると言う曖昧で楽観的な将来を語るローリィ。

又、ジョーは彼の溢れ出す感情を小説のように筋道をたて道理を持って説けば言い聞かせられると勘違いし、彼は彼で周りの期待なども含めた現実的な外堀で説得しようとする(劇場版でよく出てくるお金の引き合いは原作ではあまり出てきていませんね)。この未来への考えと今の向き合いが二重にも真逆と言うのも興味深いです。

美しいはずのプロポーズは相手が自分の思い通りならないのを説き伏せる言い争いになる所は不幸ではありますが実に二人らしい光景にみえました。

さて、試合実況に戻りますが、今まではジョーを追いかけるような構図でしたが、背中を見せて丘を登ると今度はジョーが追いかける事になります。そこで振り返りると、なんと彼女を見下ろす体制に!

「何なの!?この計算し尽くされた動きは!!」

そうなんです!今まで、彼は彼女を見上げ懇願をしてジョーは彼を見おろしながら説得をしていました!しかし原作から150年余り、遂にローリィが上を取ったのです!

「やだ、もしかして行けちゃうじゃない!?」と思うと共に頭の中にガッツポーズをする外国人の画像が浮かびます!

しかし、試合時間の残りわずか、ハンドポケットのまま彼女を見下ろし静かに「自分じゃない誰かを愛するの見ていられない」というセリフと共に最終ラウンドが終わります。(幻聴も聞こえます)

歴代ローリィの去り際は泣きそうなほどの落胆であったり、怒りの感情から逃げ去るように脱いだジャケットを肩にして去るのですが(その姿こそまるで寅さん!)、今回の「強い」ティモシー・ローリィはハンドポケットのまま静かに退場します。

勝てなかったが負けてもいない!恋には敗れたが愛では勝っていた!リングを去る彼の背中に「うん、良くやったテディ!俺はわかってるよ!ひさしぶりに反省会すっか!」と心で拍手を送りました。

で、映画では唯一無二の友を失ったジョーが悲しみとともに力なく座り込む姿で終わります。

「可哀想に、、頑張ってはいたけど実際は足にきていたんだなぁ」

と、ジョーにも拍手です。

原作では彼がヨーロッパに旅立つ瞬間まで、二人の切ない感情が描かれています。そして、出発の日に最後の見送りをしようとジョーがローリーに駆けよると、彼は振り返って一段上にいる彼女を見上げ「どうしてもだめ?」と哀願をするのです。この後のジョーの返事で本当の終わりを迎かえるわけですが、それは先ほどまでの激しいプロポーズと違い静かで優しく悲しい別れでした。

といったところで『若草物語』に対する思いが気持ち悪いほど出てしまい、あの切ない名場面を試合形式にして語るというオフザケも未消化なうえに第三チェックポイントまで辿りついていないのですが、冷静になるために一旦ここで閉めます。

次回は

・ローリィの失恋の昇華は丁寧に描かれているよ

・94年版、最新版のジョーの手紙

・そして大事だよ!再会のシーン

・BBCドラマも凄い!あの場面でキスしちゃうの!?

・18年に現代が舞台という設定の作品がありまして、

について引くぐらい語りたいと思います。


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