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フワちゃんとやす子、そしてラランドニシダVSヤフコメ民/正論って単純でつまらない

ちょっとゾッとするような面白い動画を観ました。

ラランドニシダがヤフコメ民と話す動画です。あまりにゾッとする発言が多く、途中からはヤフコメ民の彼が役者で、ただの映像コントかもなと思って観ていました。ただ、それでも「正しいと思ったことを書く」という彼の信念はやたらリアルで震えました。

最近の炎上で見られる正しい意見を書く人も同じように考えてるのかもしれません。フワちゃんのやす子に対するSNS上の書き込みにまつわる正しい意見たちは、小学校の頃の学級会を見ているような気持ちになりました。

「◯◯君が××ちゃんに悪口を言ったのはいけないことだと思います」「謝った方がいいと思います」「××ちゃんが傷ついています」

どれも小学生の意見だったら微笑ましくて良いなと思いますが、大人がこの呟きをしていたら、と思うとゾッとします。この書き込みをする人は、窃盗などの事件が起きる度に「被害者が可哀想」「加害者が謝るべき」みたいなことを書くのでしょうか。

もちろん、話のタネとして家族や友人などとオフラインであれこれ語るのは良いと思います。口汚い批評や雑な言い下しも気心の知れた相手となら心地よいですが、ネット上にアップしてしまうと不特定多数の目を汚す可能性があることに留意すべきです。

ネット黎明期の掲示板では、正論を書くときにはマジレススマソという定型文があり、誰にでも分かる正論を書くことはダサくて冷める行為だという共通認識がありました。

正しいことを言う、という行為は本来小学生までで終わっていることだと思います。悪口を言うことはダメ。困っている人を助けることは良い。物を盗むことはダメ。その正しい、正しくないの二元論が通用するのは小学生までで、それは正しさの土台でしかありません。正しいと正しくないの間にどちらとも判定できない事象が無数にあるということを学んでいくのが教養です。

例えば、人の命を奪うのはダメなことか?と言う問いに対して、小学生ならまずダメだと答えると思います。どんな事情があっても命を奪うことはダメだと。

それなら死刑制度はダメなことか?と質問を重ねることで考えが一つ深まります。人を殺すのはダメだが、日本の法律の範囲内では認められる場合もある。さらに自殺や安楽死はダメなことか?と質問を重ねれば、二元論で物事を語ることの無謀さに気がつきます。

フワちゃんのニュースについてどう思うか、「フワちゃんが悪い」「やす子の受け身も悪い」くらいまでは小学校の学級会レベルを超えていません。というかそもそも他人同士のトラブルをあれこれ言うなんて程度が低すぎる。

正しいことをしたり顔で呟いた人たちの行く末が安居酒屋おじさんの政治談義やスポーツファンの民度の低い野次です。その言葉は何も生まないし自分自身も変われない。

誰かの言葉や思考をなぞって自分の口でも語ってみる、という行為は自分の中身が空っぽであることの裏返しです。誰かと同じことを話すことで帰属意識を持ち、社会と繋がれているという錯覚を欲しているだけです。

文章を書く人なら誰かの意見と自分の考えの相違点に目をこらすべきだと思います。モラル的にアウトでも、非常識でも、自分は違う考えだと思えばメモに残す。それを貯めていくことが文章を書く上での武器になると信じて。

せめてnoteの世界では、単純だからこそ短文で書けてしまうマジレスではなく、もっと深く考え抜かれた長文の批評やエッセイで溢れて欲しいなと思います。

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