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私はジョーカーに共感しない

Netflixでの配信が開始されたジョーカー。めちゃくちゃ面白かった。快作だった。

ストーリーの中で起きていく事件や事象に対して、アーサーの反応が出るのは1、2シーン程度で、次のシーンではその感情を色濃く残さない日常を写しいく。この悲しみや怒りに日常を挟んでいく演出が映画全体を淡々とした印象に見せ、同時に狂気を呈している。一歩ずつ狂気に深まっていく感じ、拘泥していく状況を際立たせている。

扇情的な要素を含みつつアーサーの鬱屈した思いを表現した結果、この映画は多くのキーワードを含むものになった。善と悪、貧富の差、家族関係、精神疾患、政治、介護問題、社会的弱者、社会福祉・・・などなど。様々な面でこの映画は切り取られ、二元論的に語られるようになった。

その根底にはいずれもジョーカーへの共感があったように思える。こういう状況であれば、こんなヴィランが誕生しても仕方ない、というような。中には暴動にかこつけて車を襲い、火をつけ、暴徒化した市民でさえ擁護するような声もあったかもしれない。

でも私はジョーカーに同情はしても、共感は一切しない。自分の中にもジョーカーのような一面があるかもしれない、などと知った顔で感想を書くのも嫌だ。彼の行為は悪で、後付けされたヒロイズムでしかない。


「悪には悪の理論がある」が通説になってきた世の中にも疑問を感じる。何か事件が起きれば、週刊誌は犯人の生い立ちやプライバシーを報道する。この悪の根元には、ひどい家庭環境があったのだ、学校でのいじめが原因だったのだと答えのようなものを書き立てる。

こんな生い立ちなら人を殺してもしょうがないね、とは私にはどうしても思えない。その理論で被害者や被害者家族は救われない。同時に、加害者が救われるわけでもない。誰も救われない、無意味な理論。

ただ、個人に悪意が注がれ続けた結果、溢れ出した感情が何かの犯罪につながるのは理解できる。現代のような感染症で鬱屈した閉塞感のある社会も彼のような犯罪者を生む可能性がある。その時に犯罪を起こした彼に共感する人がどれだけいるだろう。

犯罪者目線の映画では主人公に共感しても、実際の社会で彼が受け入れられることはほとんどない。この映画を通じて、犯罪者にもこういうストーリーがあったのかもしれないと想像はできても、やっぱり共感はできない。


結局、ジョーカーは一度も幸せを感じたことのないまま、悪を重ね、死んでいく。彼が幸せにこだわればこだわるほど、世界の破滅を願ってしまう。自分が手にできないものを他人が手にしないように、彼は躍起になる。自分だけが幸せをもらえていないと気づかないで済むように。

彼の存在は否定しない。彼だけが一方的に悪いとも思わない。多くの人が感想を抱いたように、閉塞感のある社会が、彼の狂気を加速させたことも間違いない。けれど、彼に共感の気持ちは芽生えない。


他者への共感がない社会を描いたジョーカーで、ジョーカーにだけ共感できない。とにかく他者への共感、思いやりを排除した社会を描くから、ジョーカーに強く共感してしまうのだろうか。


本当に素晴らしい映画だった。見終わった後に胸がチリチリと重たい。間違いなく傑作の一本だった。

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