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マリモとして生きる。

 インターネットに常駐している。

 とは言えいわゆる「アルファ」などといった発言や視点に影響力のあるタイプではまったくなく、ただなんか「そこにいる」のである。水中の植物のようなものだ。マリモに近い。

 ネットにおいて「いる」というのは、具体的にはオンラインにしているという程度の意味だ。先ほどのマリモに例えると、動いてなくても生きているのである。それによって何か潮流が大きく変わるとか、生態系に影響があるとかそういうことではまったくない。いや、もしかしたらマリモは生態系において重要な役割を担っているかもしれず、不見識な部分は日本マリモ協会の方々にはご容赦いただきたい。

 要は無害ですよ、ということを言いたいのである(以下、日本マリモ協会へのエクスキューズは割愛)。何か発言している、何か書いている、何かひとりごちている、何かまとまったことを書いているようだけど中身はあんまりないよね、そういった程度のことを二酸化炭素のように吐き出しながら、とりあえずインターネットに息づいてる。個人的にはわりかし快適である。

 インターネットは「何か書く」「何かアップする」ということをしないと、完全に屍も同然のメディアである。あ、ユーザーがね。というか自分だけどね。リアルワールド(という形容もすでに時代錯誤感ある)と違って、「寡黙だけど存在感ある」というのはネットにおいては厳しいものがある。寡黙つまり「発言やアップの頻度が低い」人というのは、単に「あんまりいない人」と認識されざるを得ないのがネットなのである。だからブログは更新が非常に重要なのだ。重要なのだが更新頻度の話は自爆行為なのでやめにします。とにかくそういうことなのですよ。

 前置きが長くなったが、本題つまり書きたかったことは実はここからだ。もう飽きた方すみません。冒頭に書いたようにある程度インターネットに常駐してみて、やはり思うのは「交わると赤くなりそうな朱」が厳然と存在するよなあということだ。それぞれ場の空気において、「色」が非常にあるのである。もちろんネットに限らないわけだが、非ネット的な空間では当たり前なことが、身体性を免除されてるはずのネットコミュニケーションにおいてさえなお、やはり逃れられない人間関係の糸のような「空気」があるのだなと思う。

 言ってみれば、「場」というのは人が複数集まることで生まれるもので、そこに物理的なスペースや、「一堂に会する」必要は必ずしもないようだ。今後さらにネットベースの人間関係というものが醸成されていくのだとすると、身体性というものの比重が必然的に軽くなる。そこには言葉だけがあればいいのだ。そんな言葉だけのコミュニティ、大げさに言えば(大げさでもないと思うのだけど)「言葉の世界」においてさえなお、前述のしがらみというのはしっかりと残り、我々を面倒くさい気持ちにさせるのだ。

 それでも我々がやりとりをやめることはないだろう。人間というのは結局そういう生き物だ、と結論したい気がする。ニンゲンは「人間」と書くが、これは「ジンカン」とも読める。「人間いたるところ青山あり」の「人間」は「ジンカン」と読むのだが、そのジンカンである。このもう一つの読み方の存在は、まるで「個」というものが人ひとりを指すのではないという、人間の主体というものの曖昧さを表しているように思えてならないのである。

 あと「日本マリモ協会」という組織が本当にあるかはわからない。意外とありそうですけど、検索する気になれなかった。

やぶさかではありません!