貴族的生活
貴族のような生活とはなんだろうか。
貴族といっても歴史上さまざまで幅広い。時代は?国は?地域は?社会制度は?みたいに細分化していくとキリがないし本筋から外れていくので、ここでは貴族の定義化はしない。まあ「すごいお金持ち」くらいの意味で捉えてほしい。
ほとんど「石油王」みたいな概念である。巷間で「石油王になりたい」と人が言うとき、石油資源の維持管理のようなコスト部分は考慮されないように、ここでも貴族としての義務や責務は考えない。
うなるほどお金があったら何をする?
立派で大きな家に住む?
やたらに高級な料理を毎日食べる?
身の回りをブランド品で固めてみる?
執事や料理人を雇って、面倒なことをすべてアウトソーシングする?
なるほど。
我ながら最初に浮かぶのはステレオタイプなことばかり。
しかもこれは自分の欲求ではなく「うなるほどお金があったら人がやりたがるであろう事柄」に過ぎない。
内なる欲求ではない。特に自分はブランド品には興味がないのだ。
風光明媚な海外のリゾートに邸宅をしつらえ、悠々とした日々を過ごす?
それもいい。
旅行三昧もいいだろう。行ってみたいところにすべて行く。行った先で快適な宿を取り、リッチに過ごす。素敵なことだ。
でも思う。いつか飽きそう。
時間というのは過ごす内容によって伸び縮みする。メリハリと興奮のない日々の時間は恐ろしく長く感じられるだろう。
その長い日々の中で、こう思うに違いない。
「はて、自分は何がしたいんだろう?」
ここまで挙げた中では、「執事を雇ってアウトソーシング」が一番自分の欲求に近そうだ。もちろん執事というのはものの例えであって、実際に執事じゃなくても構わない。面倒なことを引き受けてくれる誰かがいてくれさえすればいい。
もちろん旅行もいい。いいのだが、旅の良さは非日常が得られることだ。そんなに旅行ばかりの日々だと何が日常で非日常だかわからない。
料理。脳にビリビリくるような美食は経験として貴重だろうが、ある程度の「感激するほど美味い」料理については、貴族じゃなくてもちょっと頑張ればいただける気がする。美食を日々続けると舌はそれに慣れ、感激も薄まっていくのではなかろうか。そしてジャンクなものも食べたくなっても、高貴な立場上それもはばかられるとなるとストレスになるはずだ。
また、貴族だろうが一般人だろうが胃袋の容量、つまり一定量食べればどうせ満腹になるのだ。そこに感激というスパイスがなければ、高級美食も菓子パンも価値にそれほど差はないだろう。
要は自分が何をすれば満足なのか、比較や虚栄心ではなく、自らの本心によって考えることだ。
例えば今の私であれば、天気の良い日に外を走ることが気持ち良くて仕方がない。これは大金持ちも貧乏も関係ない。お金がいくらあっても自分の行動によってしか叶えられない。
また、健康でなければ走れない。健康はお金では買えないというのもよく言われることだし、実にこれは真実だろう。
とても有名な寓話がある。少し長いが引用する。
どうだろうか。
結局は「やりたいことをして時間を過ごす」というのが一番の贅沢なのであって、過剰にお金を持たずとも、それは可能であるといえる。
もちろん、限定された時間の中で「やりたいことをする」ためには、「やりたくないことをやらずに済ませる」ための力がいる。お金はその力になり得る。
現代人のストレスの中身は、仕事によるものが少なくない。仕事をせずに人生を過ごせたら、どれだけストレスが消えるかわからない。
一方で、人間の三大欲求は「食欲・性欲・睡眠欲」と言われるが、一説によると「食欲・睡眠欲・コミュニケーション欲」とも言われるくらい、人は寂しさに耐えられない。仕事というストレスの元が、実は集団に所属して人と関わりたいというコミュニケーション欲を満たす機能を果たしている、という見方もある。
もちろんそれを上回るストレス、煩わしさはあるかもしれないのだけど。
ここまで書いてわかったが、テーマが大き過ぎて一冊の本くらいのボリュームがないと語りきれない。
そして消費行動の話ばかり書いてきたが、日本の大金持ちはビジネスを立ち上げて起業する人も多いようだ。なぜそんな面倒くさいことを?と思ったりもするが、エネルギーのある人が時間を持つと、そのエネルギーを何かに使いたくなるのだろうか。起業家の人、いたら教えてください。
ということでそろそろ切り上げようと思う。
貴族でも石油王でもない一般人の一日が始まる。
やぶさかではありません!