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松本人志と北野武

とタイトルには書いたが、この二人の名前を並べることにあまり意味はない。共通項があるだけだ。どちらもお笑いのフィールドから出てきて、カリスマ的な人気を誇り、芸人以上のものになろうとした、そういう二人に自分には映る。

たけしが好きだった

私はたけしが好きだった。子どもの頃には「オレたちひょうきん族」という人気番組があって欠かさず見ていたし、「天才たけしの元気が出るテレビ」(今思うとタイトルの「天才」がひどい)も欠かせないコンテンツだった。昭和の子どもだったのである。ちょっと下品で下世話、今のコンプライアンスの観点ではアウトの部分も多いネタ。その破壊的なノリが面白いとされていたし、実際に面白かった。それらのアイデアは構成作家に加え、かなりの部分をたけし自身のものだったという話を後年読んだ。

著作の多いたけし

私は20歳から東京に出て一人暮らしを始めると、毎週本屋に通って好きな本を買い漁る日々を過ごした。その中にたけしの本もあった。たけしは著作が多い。それを片っ端から買っていった。語りおろしというのか、喋り口調で書かれたエッセイが多かった。少なくとも当時出ていた本はすべて買っていたのではなかろうかと思う。若い頃のインプットは終生影響する。そういう意味では自分はたけしに影響を受けた人間の一人であると言えた。

映画監督としてのたけし

「いっそ、たけしを首相に」などという広告が出るほどに、天下を獲った浅草のストリップ小屋の幕間芸人は、お笑いの現場から映画監督へと舵をきっていった。「その男、凶暴につき」が第一作である。今思えば「アウトレイジ」に連なる系譜のバイオレンス路線の萌芽がすでにここにあった。もともと、作家というのは第一作にすべてが出ると言われるのである。そういう意味では実にたけしらしい監督デビューだった。そして問題はここからなのだが、次々と映画を撮っていく中で、監督・北野武が世界的な評価を得ていくのである。それはたけしにとっての映画が「芸人の手慰み」ではないことを意味していた。要は「本物」だったのだ。

失われない何か

たけしはアイコニックな存在だった。大島渚『戦場のメリークリスマス』など、俳優としての起用もされていたのである。当時は特にスターということなら何でもやらされる時代であったから、そういうノリの部分もあっただろう。ただ、社会的な認知としては明らかにジャンルを超えた存在だった。それゆえに逸話も多く残っているのだが、著作や周辺コメントを追っかけていた自分の読んだ範囲でいうと、たけしは非常にストイックな努力家なのである。一例だが、南国へみんなで旅行に行った際に一人だけ海にも行かずにホテルの部屋に籠って脚本の勉強をしていたとか、徹夜で飲み屋にいた後に浅田彰の本を読んでそのままテレビ出演したりとか。本人も公言するように「女遊び」も多かったろうが、それでも印象としてはストイックさが残る。「無私」の感覚があるのだ。大昔のフライデー襲撃事件についても、当時交際していた女性に対して記者が行き過ぎた取材で怪我を負わせたことへの復讐であった。たけしが当時39歳、相手の女性は21歳、関係としては不倫関係なのでそこはアレだが、大筋として「仁義を通す」人という感じがある。スキャンダルはスキャンダルなのだが、それによってたけしの実績は失われない印象が強いのだ。

ダウンタウンの絶頂

ダウンタウンを知らない人はそう多くないだろう。それくらい人気だった彼らなのだが、私はダウンタウンをきちんと通過せずに来てしまった自覚がある。自分の世代ならば「ごっつええ感じ」「ガキの使いやあらへんで」などで彼らのファンになり、どれだけ面白いかという話をしている人が多かった。特にあの二人の中でクリエイティブな部分を担当していたのは松本人志で、基本的には彼の才能によってダウンタウンは巨大な存在になっていったと言われる。

松本人志という革命

例えばウケなかった時に使われる「さむい」という言葉も彼の発明という説があるが、この辺の事実はよくわからない。ただ、印象としては「笑い」というものについてメタ認知的な視点を持ち込んだ印象がある。笑いについてのフレームを広げた。それまでになかった「笑いのツボ」を生み出した…等々、非常に画期的な存在として語られるのが松本人志である。「松本が新しいルールを作って革命を起こして全部変えてしまった。そのルールの上で今はみんなが戦っている」「お笑いに『動きの笑い』と『言葉の笑い』があるとすれば松本は言葉の笑いのスペシャリスト。松本によって『言葉の笑い』こそが高度な笑いと考えられるようになり、お笑い界全体のレベルが上がった」などなど。ちょっと調べるだけでも「松本はいかに画期的であったのか」というエビデンスがずらずらと出てくる。

松本人志の文化的進出

たけしがそうしたように、松本も書籍を出し、映画も撮っている。書籍で言えば94年の『遺書』は話題になった。これは僕も買って読んでいる。それから監督した映画は『大日本人』というものがあるが、私はこれは観ていない。観ていないので語れないのだが、松本の映画は少なくともお笑いのそれに比べると芳しい評判を取ることはできなかった。それから音楽もある。これは坂本龍一・テイトウワのプロデュースによる『geisha girls』で、これはアートワークも含めてなかなか面白かったが、松本(と浜田)は素材として使われた形であって、彼ら自身の才能ではなかった。あえて比較すればだが、上記のたけしとの文化的活躍の部分での差は顕著であった。

metoo的な文脈

このエントリを書こうとしたきっかけは、いわゆる文春砲、松本人志の性加害スキャンダルである。metoo運動は2017年に行われたハリウッドのプロデューサーであるワインスタインへの告発から世界的なうねりとなり、その流れの中に今回の報道もあると私は見ている。今まで声を上げられなかった側からのカウンターとも言えるもので、これが意味するものは、「力関係によって隠蔽されてきた事実が隠しきれなくなってきた」ということである。
冒頭に書いたように、昔のお笑いは下品で下世話な世界であった。志村けんのお笑い番組も今となっては考えられないくらいタチの悪い悪ふざけで、今のコンプライアンスにおいては完全にアウトだ。このように、表面的にはきれいになったように見えても、陰ではやはりさまざまなことが行われているのだなと思わせる今回の性加害報道であったのだ。

たけしと松本の対比

このエントリではたけしと松本の両方に触れた。対比的に見ればたけしはストイックで女性スキャンダルが少なく、松本は天才ではあるが女にだらしない、そんな構図に見えるかもしれない。でも世界はそこまで単純ではない。世界は二項対立を許さない。それぞれにもっといろいろな要素があり、複雑に絡まっている。遠くにあるから2つに分かれて見えるだけで、その境目は常に曖昧なグラデーションになっている。実際、たけしの女性関係は決してクリーンではなかった。さらにこの後、たけしの酷いスキャンダル報道が出てくることで、過去の名声がすべて地に落ちるかもしれないのである。そこは視聴者の立場からではわからない。基本的に人は力を持つと欲望が叶いやすくなるため、多くを享受しようとする。そこに力関係の不均衡さがもたらす人格の剥奪が起こる時、それは加害となる。少なくともそれは野蛮なことだ。

世界は変わっていくのか

何度か書いているが、個人的に思うのは、性加害であれDVであれいじめであれハラスメントであれ、それが横行する背景にあるのは「バレないと思っているから」だと思う。密室状態で他人が見ていないから、言わなければバレないからそれが起こる。だから密室ではない状況を作ることが解決への道だろうと思う。だからmetooのようなムーブメントは、前述した野蛮さを解消するための新しい世界への道筋として個人的には正しいと思う。ただ、おそらくこの先、行き過ぎた糾弾や冤罪などの揺り戻しも多くあるだろうと考えられる。そうしたブレを内包しながら、野蛮でない世界へ進むことを私は望む。

やぶさかではありません!