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岩明均『ヒストリエ』12巻についての考察(後編)

さて、後編を書いていきます。

前編のリンクはこちら。

ほんのわずかの違和感

先に書きますが、『ヒストリエ』を1巻から何度となくずっと読んできて、この12巻の展開については少し違和感がありました。漫画としてはダイナミックで面白いのですが、ほんのわずか、細かく丹念に積み上げてきたはずの物語のバランスが崩れているような気がしたのです。

ほんのわずか

その理由ですが、どうしてもアリストテレスによるフィリッポスの蘇生シーンが関係しているのかもしれません。なかなかあれは「力技」であるなと思わせるシークエンスです。ドラマチックで不思議な展開はここまでも多かったのですが、それでも歴史ベースの物語の中での命の蘇生というのは強烈です。
違和感、といってもそこまで否定的な意味ではありません。せいぜい「物語が激しく大きく動いた」といった言い方でまとめられる類いのものだと思います。

あるいはこの違和感は、久しぶりに登場した「レスボス島のアルケノル」という謎の「老人」の存在のせいかもしれません。このアリストテレスの反応もそうですね。多少のキャラ崩壊が感じられます。

アリストテレスにキャラ崩壊を起こさせるほどの奇妙さ

それはそうと、レスボス島のアルケノルといえばバルシネです。この2人は4巻のエピソードで一度会っているからです。

数奇な運命の女・バルシネ

バルシネという女性はこの作品の第1巻の第1話から登場します。しかも岩明漫画的な文脈において、相当に魅力的な女性として描かれていると思います。知的で決断力があり、強い自己を持ち合わせている見目麗しい女性です。

バルシネは1巻の時点で、アリストテレスの言葉によれば20歳。「お嬢さんではなく奥さんだ。歳はまだ20歳だがな。ペルシア帝国トロイアス州総督の妻・バルシネ…」と言われています。

『寄生獣』の後藤さんと「同じ俳優」のメムノン

このコマではメムノンと一緒にいるバルシネですが、アリストテレスの台詞「ペルシア帝国トロイアス州総督」というのは史実上、メントルという人物を指しています(メントルはこの物語には出てきていません)。後にバルシネはメントルの弟にあたるこのメムノンと結婚し、ペルシアのダレイオス3世の人質となり、その後アレクサンドロス大王の子を生みます。波瀾万丈な人生です。

描かれ方の魅力の度合い、また登場の早さから考えると、彼女が本作のヒロインになっていくのかと思いましたが、残念ながらバルシネの登場頻度はそれほど多くありません。12巻ではほんの少しだけ登場しますが。
ただし、『ヒストリエ』単行本の表紙を飾っている女性は12巻の中でこのバルシネだけです。

エウリュディケの運命

本稿は12巻のレビューなので、12巻に戻ります。
この巻は、大きい流れでいうと「暗殺されかけたオリュンピアスが刺客パウサニアスを使って逆にフィリッポスを暗殺」「フィリッポスの蘇生」「殺されるエウリュディケ」となります。

ということでエウリュディケです。

エウメネスの恋人でもあったエウリュディケ

作中、エウメネスはここまでの半生で何人かの女性と付き合いますが、それぞれが思うに任せない理由で別れています。
カルディアの子ども時代に付き合っていたペリアラとは、エウメネスが奴隷として売られるということで別れました。
ボアの村で付き合ったサテュラとは、ティオス市との戦争のなか、村を守るためにエウメネスがすべての罪を被り村を出て、別れることになりました。
そしてこのエウリュディケとは、彼女が国王フィリッポスの王妃として迎えられることになったことで別れてしまいました。

先を読む力のあるエウメネスは「マケドニア王妃なんてろくなことはない、やめちまえって」と止めますが、エウリュディケは「一族の誉れでもあるから」として嫁ぎます。そして結局「ろくなことはない」というエウメネスの予言通りになっていきます。

エウリュディケはなぜ殺されたのか

エウリュディケはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか。ちょっと長くなるが考察してみます。

シンプルに言えば、エウリュディケはオリュンピアスにとって邪魔な存在だったからです。それは嫉妬というよりも、主に世継ぎという面が大きいはずです。以下はオリュンピアスのモノローグです。

「今になって…今頃になってマケドニア貴族の娘?」
「この上ない後継者がすでにいて!」(注:アレクサンドロスのことです)
「…アレクサンドロスに新たな弟を?アリダイオスでは助けにならないから…?」
「マケドニア貴族の血を引く弟など!ただの火種にしかなるまいが!!」
「試しに殺してみるか…?それで王がどう出るか…」

『ヒストリエ』11巻94話

ということで、オリュンピアスはニカンドラという女官を通じて、包丁に毒を仕込むという方法でエウリュディケを殺そうと目論みますが、エウメネスの観察力と推理力が包丁の毒を見破り、エウリュディケはすんでのところで助かります。

エウメネスはフィリッポス王に、ニカンドラを事情聴取するように進言します。「できればあまり手荒なことはせずに」。その結果、ニカンドラは事情聴取され(めっちゃ手荒に拷問されていましたが)、首謀者であるオリュンピアスの企みがフィリッポスに露見するのです。

実行犯として拷問されることになるニカンドラ

しかし、フィリッポスはオリュンピアスを直接断罪しません。「マケドニアの領土拡大に伴い、妃の其方にもいろいろと気苦労をかけた」「しばらくふるさとに帰って気持ちを休めたらどうか」と提案します。そして、オリュンピアスの故郷・モロッシアヘと向かう馬車の護送兵の中に手練れの暗殺隊を数人潜ませ、お付きの女官や護送兵ともども葬り去ろうとします。これがフィリッポスのやり方です。

確かに、大っぴらに王妃の犯罪を糾弾して裁くとなると国自体に大きな衝撃が走り、相当の混乱が予想されます。また、オリュンピアスは世継ぎであるアレクサンドロスの母親であり、いかに理由が正当でもアレクサンドロスの心情を考えると処置が難しく、「何者かに襲われて殺害された」の方が万事丸く収まりそうです。しかし、この暗殺隊にパウサニアスがいたことでオリュンピアスがパウサニアスを懐柔し、逆にフィリッポスを暗殺せしめるに至るのです。

さて、ここでもう一つ解決していない疑問があるはずです。それはオリュンピアスのモノローグにあった「今になって…今頃になってマケドニア貴族の娘?」という部分です。なぜフィリッポスはエウリュディケを王妃に迎えたのか?その答えが10巻の第85話にあります。

カイロネイア戦の出陣前、フィリッポスと元老のアンティパトロスが2人だけで会談しています。

おっかない2人

ここで話されているのはアレクサンドロスのことについてと、それからエウメネスの「処遇」についてです。結論から言うと、フィリッポス王は自分がカルディアで拾ってきたエウメネスの才気を気に入っており、自分の側近として育てたいと言っているのです。アンティパトロスもそれに賛成しますが、その際に一つ提言をします。エウメネスが貴族であるアッタロス家の姪であるエウリュディケと「良い仲」であることで、エウメネスが力を持ちすぎることを懸念するのです(アンティパトロスはすべてお見通しということです。おっかない)。侮れない権限をエウメネスに与える以上、彼は一介のスキタイ人である方が望ましい、さらに貴族と結びついたエウメネスに男子が誕生したら無視できない存在になる…そこまでこの2人は先を読みます。

さらに、そこでフィリッポス王が思いついたのは、エウメネスからエウリュディケを奪い、自分の妃とすることでした。王である自分の婚姻要請を断る貴族はいない。そして、自分とアッタロス家の血筋の女性との間に男子が生まれたなら、外国人であるオリュンピアスとの子であるアレクサンドロスよりも継承的に優位な存在となり得る。フィリッポス王はどこの男の種とも知れぬアレクサンドロスを嫌っているのです。

つまりエウリュディケは、自らの貴族の血筋とエウメネスの恋人という立場のせいで、フィリッポス王によって妃とされ、オリュンピアス(&アレクサンドロス)への牽制に使われたとも言えるのです。

エウメネスとトラクス

12巻にまた戻ります。

フィリッポス王を暗殺し、邪魔のいなくなったオリュンピアスは、エウリュディケを生まれた子どもごと始末しようとします。子どもは双子で「どちらかを選べ」とエウリュディケに迫ります。エウリュディケは当然選ぶことができません。「私が選んでやろう」とオリュンピアスは迫り、咄嗟にエウリュディケは1人を抱き、もう1人も抱こうとしますが兵に邪魔をされます。抱いた方の子は男の子で、名前を「フィリッポス」と言いました。王が名付けた、自分と同じ名前の子です。

なお、これは伝えられる史実とは違っており、歴史的にはエウリュディケの男子は「カラノス」といいます。ここで漫画オリジナルの演出が施されているのは、『ヒストリエ』におけるフィリッポス王の思惑として、エウリュディケとの子を自分の嫡子として扱いたい(つまりアレクサンドロスを世継ぎとして認めない)という気持ちの表れだと思われます。

城の外へ逃げたエウリュディケは追手によって槍で身体を貫かれ、瀕死の状態ながら生き残った男の子の赤子を守ろうとします。そこへエウメネスが馬で駆けつけ、兵5人をあっという間に斬り倒します。この場面の殺陣は、かつて第1巻で少年期のエウメネスが故郷カルディアで目撃した、スキタイ奴隷のトラクスの剣技を彷彿とさせます。

エウメネスの剣技
トラクスの剣技

エウリュディケの予言

かつての恋人であったエウリュディケを抱き抱えるエウメネスですが、その腕の中でエウリデュケは絶命します。生き残った男の子についてエウリュディケは「その子はね…いずれ王になるの…必ず」と言い残します。『ヒストリエ』においてエウリュディケは非常に聡明な人物として描かれており、なおかつ伏線というものを恐ろしく大事にする作品がこの『ヒストリエ』ですので、そういう人物から「外れる予言」が発せられるとは思えない、ということはこの子は王になるのです。史実上のエウリュディケの子カラノスはアレクサンドロスが王に即位した直後に彼によって殺されますが、蘇生したフィリッポスがディアドコイの1人であるアンティゴノスだとすると、史実上アンティゴノスの子はデメトリオス1世となります。デメトリオスは後年のマケドニア王です。つまりフィリッポス王の蘇生という物語上の補助線によって、エウリュディケの予言は当たることになります。

そしてエウリュディケの予言が当たるというのが『ヒストリエ』のルールだとするならば、彼女が蛇女・オリュンピアスに向けて放った「戯言」も当たることになります。
「あのヘビ痣のある少々心を病んだ息子よりも長生きするが、怒号と罵声と嘲笑の中で生きたまま切り裂かれヘビの如くにのたうち回りながら死を迎える、その時この子は少し離れたところから老いたヘビ女の死をじっと眺めている」
これがエウリュディケの予言です。
史実ではオリュンピアスは、元老・アンティパトロスの子であるカッサンドロスによって殺されます。予言通りかは不明ですが、オリュンピアスによって殺された人物の遺族たちを集めて集会を行い、彼女を殺す空気を作り上げたということらしいのですが、もし『ヒストリエ』がその場面を紙面上で描くとしたら、エウリュディケの予言のように「生きたまま切り裂かれ」る描写になるのかもしれません。

そして12巻のラストシーン、死んでしまったエウリュディケを抱き抱え、「いつか…旅へ…」と、果たせなかった彼女との約束に想いを馳せるエウメネスの後ろ姿で終わります。象徴的なラストです。
個人的にはこの後の展開こそが楽しみなのですが、ここまでの密度でエウメネスの死までを描く時間があるとはとても思えません。非常に残念ですが…。

では、いったんの『ヒストリエ』エントリの締めとして、ディアドコイについて触れたいと思います。

ディアドコイ(後継者)たち

ディアドコイ戦争については普通に歴史上の記録があるので、そちらを見ていただくのが早いかと思います。とにかく広大な帝国なので、大王の死後は非常にたくさんの後継者たちが大守および帝国の指揮の座を争うことになります。ディアドコイというのは「後継者」という意味のギリシャ語です。


ペルディッカス

第1巻、カルディアを包囲するマケドニア軍の指揮官として登場。切れ長の目で髪の長い人物ですね。アレクサンドロス大王の元で千人隊長の座につき、大王の死後は実質的な帝国のトップに上り詰めますが、エジプト・ナイル渡河の失敗を契機に部下たちによって暗殺されます。

主要人物っぽいルックス

アンティパトロス

元老。12巻にも王の死の前後にいろいろと動きます。カッサンドロスの父親。ペルディッカスの死後、帝国の摂政となり実質の支配権を得ますが、病没します。

絶対に怖い

カッサンドロス

アンティパトロスの息子。ミエザにも行ってましたね。アレクサンドロスは病死と言われますが暗殺説もあり、カッサンドロスはその犯人ではないかと言われていて、それを裏付けるように後年アレクサンドロスの遺族を彼は根絶やしにしています。上で書いたように、オリュンピアスを死に至らしめたのも彼です。アレクサンドロスを非常に恐れていたとも言われています。

アレクサンドロス大嫌い

プトレマイオス

彼もミエザに行っていた人物です。彼はプトレマイオス朝エジプトの初代ファラオとして王になります。戦死や暗殺死の多い(というかほとんどがそれ)ディアドコイ戦争を生き残った数少ない人物の一人です。

単独のコマがほとんどなし

クラテロス

作中でも非常に男っぷりの良い人物として描かれます。実際にマケドニアの中でもかなり人気のあった将軍のようで、最後はエウメネスの軍と戦い、その策によって戦死します。声望の高かった彼を殺したことで、エウメネスはかなり悪役になったようです。

こういうあんちゃんいますよね

アンティゴノス

歴史上ではフィリッポス王と同じ年の生まれ、そして同じく隻眼の人物。エウメネスとは友人であったとされますが、ディアドコイ戦争においてはエウメネスと争い、彼を捕らえた際にエウメネスを嫌った部下たちによってエウメネスは殺されます。アンティゴノスはディアドコイ戦争において一時期最大勢力を誇り、アレクサンドロス帝国の再統一を果たそうとしたと言われています(フィリッポス王=アンティゴノスだとすると、これはアツいですね)。イプソスの戦いで槍を受けて戦死。82歳だったと言われています。

これは作中のフィリッポス王の変装

エウメネス

この作品の中ではスキタイの出自ということになっていますが、これは岩明先生の創作であって実際にはそのような記録はないようです。アレクサンドロス大王の死後のバビロン会議において、エウメネスはカッパドキアとパフラゴニアの太守となります。パフラゴニアといえば、この作品においてエウメネスがかつて過ごしたボアの村のある場所です。だからボアの村のエピソードは伏線となっていると言えるのです。回収されるかは分かりませんが…。そして彼はクラテロス、ネオプトレモスを戦死させたのち、ガビエネの戦いで味方だったペウケスタス(ミエザの学校に途中から加えてもらった滝壺で魚獲りをしていた彼です)に足を引っ張られたことによりアンティゴノスに捕えられました。その最後の記述を、Wikipediaからではありますが引用します。

「エウメネスの身柄を受け取ったアンティゴノスは当初、優秀でありかつ親友でもあったエウメネスを自らの幕下に加えようとした。しかし、それまで散々エウメネスに辛酸を舐めさせられていたアンティゴノスの部下の多くが反感を抱き、また彼が味方になると自分たちの影が薄くなると恐れて反対し、密かに彼を殺害した。あるいは直接手を下すのは忍びないとして餓死させようとしたが、軍を移動させる際にアンティゴノスの知らない間に殺されたともいう。アンティゴノスは友のために盛大な葬儀を行い、遺骨はエウメネスの妻子の元へ届けられた」

Wikipedia「カルディアのエウメネス」の項
だいたい作戦ドンピシャの人

おわりに

『ヒストリエ』12巻についてのエントリもそろそろここでおしまいにしたいと思います。全然12巻だけじゃなかったわけですが、『ヒストリエ』はもともと書いてみたかった題材だったので仕方ありません。むしろ私自身、この物語全体に言及したいという気持ちが強く、でもそれをやってしまうと途方もない「アナバシス(長征行)」に出る羽目に陥りそう…ということで、いったん12巻を中心とした記述にとどめました。
『ヒストリエ』の今後の物語の展開を一応(一応ですね)待ちつつ、登場したキャラクターたちのビジュアルで行われるディアドコイ戦争へと想いを馳せる、くらいしか今できることはなさそうです。

また、岩明作品については他にマスターピースがいくつもありますので、またいずれ、それらにも言及できればという気持ちです。

それでは。

本作に対する読者の気持ちを代弁したかのようなエウメネスのモノローグ


おまけ

この物語は「ヘビ」という言葉から始まる

1巻第1話冒頭の「ヘビ」のくだりはアレクサンドロスを指しているのか?

また、同じ第1話のメムノンのセリフに「あの先生(アリストテレス)はあんたが命をはって守ってやるほど立派な人間じゃあないぜ」とありますが、今のところアリストテレスにそのような部分は見えません。おそらくまだ描かれていないエピソードがあるはずです。

…と、この辺の伏線もまだ残っていると思うんですよね。
信じて続きを待ちましょう!

では、あらためて終わります。

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